ボヘミアの中級チェロ | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

こんにちはガリッポです。

今回はチェロのお話です。
チェロはとても高価なものなのでヴァイオリンとは全く価値感が違います。
かつてはチェロの値段は同じような質のヴァイオリンの2倍の値段と言われていました。しかし2倍の予算があったからと言って魅力的なものが買えるというのは現実的ではありません。値段は少なくとも2.5倍と考えたほうが良いでしょう。それでもヴァイオリンは多くあり過ぎて決め手に欠けて選べないのに対して、チェロは選択肢自体がありません。

今回は物置から出て来たというパターンで、お子さんがチェロを習って4/4を使うので修理しようという話です。最初観たときにはあまりにも汚くて捨てようかと思っていたようです。実際物置から出てきたチェロは状態がひどく悪く、修理代が高額になってしまって修理する値打ちの無いものが多いです。


珍しく状態が良く消耗部品の交換と表板のコーナーを一か所直したくらいです。

一番大掛かりな修理も、ペグの穴を埋め直して新しいペグを入れたことです。その中でも大変なのは穴を埋めたところの塗装です。休暇で私が休んでいた間に埋められて、面倒なニスの工程が私を待っていたわけです。
ヘッド部もきれいに作られています。

ペグボックスの内側は赤茶色の顔料で塗られています。透明感が無くニスというよりは絵の具のような感じです。
この色を見るとすぐに産地が分かります。20世紀前半のチェコのボヘミアのものです。

ペグボックスの掘り込みの終わりも丸くなっているのも特徴です。

f字孔の側面も同じ赤茶色の顔料が塗られています。今入手できるものでは焼きアンバー土という顔料が近いです。土からできる顔料で焼いて酸化すると赤くなります。
今回の補修では少し明るい色の焼きシエナ土を少し混ぜて再現しました。しかし当時出回っていた焼きアンバー土の色味がもともとそんな色だったのでしょう。

全体の作風と細かな特徴からこのチェロがボヘミアのチェロだとわかります。

ニスはアンティーク塗装でラッカーの質感があります。アンティーク塗装は手塗りの感じがします。つまり絵を描くように描いてあるということです。しかしながら、ニスのはげ方としてはヴァイオリンのようです。チェロではこのようにはならないでしょう。

ニスの感じのぱっと見の印象で損しているチェロですが、白木の加工の質は悪くありません。全体の姿を見てもきれいな丸みが出ていますし、細部の仕事もきれいです。

コーナーも丸みを帯びているのがボヘミアの特徴ですが、グズグズではなくきれいなものですし、f字孔もきれいにできています。単にきれいなだけではなく、ボヘミアで有名なマティアス・ハイニケのものとそっくりです。同じ流派の仕事と考えて良いでしょう。f字孔はオリジナルのストラディバリと比べると大きく、丸い部分が小さな直径となっていて、ヴァイオリンのf字孔を拡大したような形になっています。パッと見てハイニケと同じ流派とわかります。
先ほど見たスクロールもきれいでハイニケでもこれよりずっときれいということはありませんからボヘミアのマイスターに匹敵する品質のものです。

ここの部分は流派の特徴が出るもので、ミルクールのものとは全く違います。しかしミルクールの量産品でもこれほどのスクロールがついていることはめったにありません。渦巻を専門に作る職人がいて下手なヴァイオリン職人よりもうまいのです。ミルクールの低級品は本当に粗末なものです。

指板が細いのもボヘミアの楽器の特徴です。先端が31mm弱です。イタリアのものならもっと幅が広いことが多いです。手の小さな人に弾きやすいように工夫されたようです。現在では体格も良くなっているのでもう少し幅の広い指板がスタンダードになっていますが、このチェロでは指板を交換するだけで標準的なものにできるでしょう。もっと極端に細いと継ネックするしかありません。

アーチも機械で作られた現代のものとは違って、作り慣れた職人が感覚で作った調和が感じられます。機械はプログラムに従って動くだけで、体を使ってノミを使う流れや、視覚的に「自然さ」を感じることがありません。
現在の職人は多くチェロを作っていませんから、このような手慣れた感じは尊敬に値します。

ところがニスがラッカーのアンティーク塗装で損しています。もしかしたら白木の楽器を作る職人と塗装を担当した職人や工房が別だったのかもしれません。白木の段階ではボヘミアのマイスターのレベルに近いものだったのが、塗装で量産品のように見えます。

それでも、私のような塗装を見分ける経験が無ければ、暗く落ち着きのある色合いでチェロとしては良いものでしょう。一方でボヘミアのマイスター作のチェロでは明るい黄色やオレンジ色のものが多いですから。そういう好みを選べないのもチェロに選択肢が少ないということです。そもそも見事なアンティーク塗装のチェロなんてのはほとんど不可能です。

アンティーク塗装も好意的にとらえれば古びた雰囲気があるというものです。

ハイニケのヴァイオリンにもこのような雰囲気のものがあります。ボディストップがちょっと長いのも特徴です。このチェロでは40.5cmあります(標準が40cm)。ネックが2~3mm短くトータルで弦長が2~3mm長くなります。この辺りは演奏者と相談が必要です。

私はこのチェロはボヘミアのマイスターのチェロにとても近いものだと思います。ラベルはついていません。横板のコーナーの合わせ目には量産品の特徴もあります。外枠式で作ったのではないかと思います。ただしボヘミアの工房の古い写真を見てみると、左右半分だけの外枠を使っているものが写っていたりします。大量生産の手法が取り入れられていますが、それほど大きな工場ではなく、各家庭で内職のように作られていたのではないかと思います。白木の楽器を作って作者名も貼らずに卸していたということです。腕前が一流の職人と変わらなくてもこんな仕事をしている人がたくさんいたということです。

作風はボヘミアの楽器はとてもよく似ていて流派としての統一感は他に類を見ないものです。私が楽器を産地や国で判断すべきではないという一つの理由は、同じ国や産地でも作風を統一するのは難しく品質や形がバラバラになってしまうからです。画一的な教育とまじめな職人が必要です。産地としての規模が大きくなるとその中でもいくつものスタイルができてきます。一つに統一されているのは珍しいですが、一つには自分たちの流派の楽器以外を見たことがないというのもその理由でしょう。アンティーク塗装でも古い楽器を見たことがないというわけです。もう一つは当時の流行を取り入れたという事でしょう。ドイツではフランス風の楽器製作を理想としていたのに対して、イタリアでの流行が取り入れられています。ガチっとしたフランス的なものではなく、丸みがあってアバウトな感じがあります。品質的にもイタリアのように細部に固執することを避け完璧さを追求したものではなく、安い値段で素早く作っていたと思われます。

このチェロの値段ですが、為替相場も不安定でわけわかりませんが、私が思うには、「無名のハンドメイドの楽器」くらいのレベルにはあると思います。ヴァイオリンなら60~80万円くらいのものでしょう。ラッカーはマイナスになりますが、チェロの希少さを考えると大目に見て良いでしょう。その2.5倍と考えると150~200万円位になります。このクラスは新品の量産品よりも良いものが欲しい人に特に求められている価格帯です。ハイニケのラベルが付いたら300万円以上になりますからノーラベルによってお買い得です。
単なる古い量産品でも200万円くらいで買う人がざらにいますから、この楽器は儲けものだと思います。

「ラッカーで塗られているから安物」とかアンティーク塗装を「ニセモノ作り」などという固定観念は捨てないと200万円程度ではチェロは手に入りません。

作風と音

作風に統一感があって見てすぐにボヘミアの楽器と分かるものですが、音については特徴を言うのは難しいです。見た目がそっくりでもあるものは繊細で上品、あるものは荒々しく力強い音がします。こうなると理由が全く分かりません。作風が統一されている流派でさえこうなのですから、他の流派ではもっとバラバラなはずです。産地や流派によって音をイメージすることがいかにばかげているかということですし、作りによって音の違いが生まれる仕組みを理解しようという試みがいかに無謀かということになります。

出来上がってみて、問屋などが音が流派ごとの基準に達していないものを廃棄したなんてことは考えられません。様々な音のものがそのまま売られたはずです。一度楽器を作ってみれば作ったものをそんな粗末にできないことがわかります。


真面目に考えてみても、科学というのは物事を細かく分けて行って単純なケースで、規則性を見出すというものではないでしょうか?そのような規則性を組み合わせて様々な工業製品が作られてきました。

それに対して地震の予知などできないこともあります。地球は複雑にできていて単純に考えることができないからでしょう。人間の心などはもっとそうです。弦楽器の音も地球くらい複雑で、それを美しいと感じる人間の心がもっと難しいものです。

科学でも解明できないというよりは、科学を適用するのが苦手なジャンルということになるでしょう。料理などもそうかもしれません。
もちろんうまみ成分グルタミン酸、イノシン酸などのワードを使ってうんちくを語れば伝統的な料理人に対して説得力を持って聞こえることはあるかもしれませんよ。そういうタイプの人は鼻につくのですぐにわかりますよね。


そっくりな作風のボヘミアの楽器ですが、ハイニケの作品だけを見ても作風が非常に似ています。同じ作者でもバラバラなものを作る人もいるでしょうが、寸分たがわず同じものを作っていたように見えます。工場の量産品は安く作ることができますが、ハンドメイドでもコストを安くすることが求められます。むしろハンドメイドにこだわって生き残っていくなら必須のことでしょう。同じものを作るのもコスト削減の一つになるはずです。

ただそのハイニケでも、ニスの色と板の厚みにはばらつきがあります。当然同じものばかりだと飽きるというのが人間の普遍的な性質でニスの色は変えたくなるのでしょうか?楽器の形は変えたくても変え方が分かりませんが、色なら染料の配合を変えることで変えることができます。
板の厚みもそうです。

このチェロもまさにそんな感じでラッカーによるアンティーク塗装になっています。いろいろな塗装バリエーションがあったことでしょう。

板の厚みも面白く手抜きのために極端に厚すぎるということはありません。これもマイスターのチェロに匹敵すると言う所以です。測ってみると表板はやや厚めでした。それに対して裏板はやや薄めでした。全体としては平均的ということになりますが、裏板のほうが表板よりも薄いというのは珍しいです。

我々現代の職人が楽器製作を学ぶ時に、裏板の方を厚く、表板の方を薄くするように学びます。それが現代では「正しい知識」と考えられているからです。
このため私も裏の方が薄い楽器を作ったことはありません。私はいろいろ実験している方でこれですから、誰も試したことがないのに「正しい知識」と信じられているのです。

実際にこのことは伏せて出来上がったチェロをチェロ奏者が弾いてみるとチェロらしい音がします。音はもやっとしたものではなく、はっきりとダイレクトな手ごたえもあるのですが、かと言って耳障りな嫌な音もありません。そういう意味では優秀なものです。音色にはチェロらしい深みもあります。200万円以下のクラスでは掘り出し物ではないでしょうか?

さすがにC線から豊かに響く感じではありません。G線から鳴り始める感じですが、それはチェロとしては普通です。レッスンを受けて練習することは十分可能でしょう。手抜きで作られてもっとひどいチェロはたくさんあります。

手ごろな値段の新製品ピラストロ・フレクソコア・デラックスのセットも相性が良さそうです。ときには柔らかすぎて手ごたえが頼りなく感じることもあるでしょうがこのチェロでは心配ありません。チェロが良ければ弦は安くても良いのです。そんな弦が新製品で出たことは喜ばしいことです。


「裏板のほうが薄い」ということでひどくおかしな音になることはないのです。言われなければ「変な音」と気付くことはありません。我々が絶対に守るべきとして教わった知識が実際は別にどうでも良かったのです。

我々職人が様々な工夫をしているつもりでも、狭い発想の常識があって、その中で工夫しているのです。それを20世紀の前半の楽器が教えてくれるわけです。

職人が学ぶ知識やマニアが語るウンチクなどは、可能性をごっそりとそぎ落としてしまう危険性があります。なぜそのような知識やウンチクを求めるかと言えば、不安だからでしょう。特にそれが日本では多いのです。自分に自信がないこと、クラシック音楽の歴史が浅いことも常識に固執する下地になっています。業者はそこをついていくことが生命線となっていて、全く必要のないことにすべてのエネルギーを注いでいます。


ボヘミアの楽器では表板と裏板の厚みが同じくらいのものが多いです。裏の方を厚くするべきだとは考えられていなかったようです。これはオールドのドイツの楽器でもそうでした。家族で楽器を作っていたにしても、裏板と表板で別々の人が作ったかもしれません。裏と表の板の厚みもそのためかもしれません。それでも外見で作風が違うということはありません、

今回おもしろかったのは、わりと演奏者に求められているタイプの音だということです。私は技術者なのでC線の一番下から均一に音が出て欲しいと思うのですが、よく使う音域で曲を試奏して楽器を選びますからそちらのほうが良いのかもしれません。

特にチェロの後ろに座って弾いてる本人には音がダイレクトではっきり聞こえるほうが好まれます。離れて聞いていると、ブワーッと豊かに響くものが良く聞こえますが。量産品を改造するチェロではやってみたいとさえ思います。この音が本当に板の厚みが原因なのかもわかりません。

表板が厚めではありますが、古さもプラスに働いているでしょう。ラッカーの感じからしてそんなに古くはないでしょう。1930~40年代くらいでしょうか?それでも80年以上経っていることになります。全くの新品に比べれば柔軟性を増した表板が厚めであるデメリットを少なくしているのではないかと思います。裏板の薄さは音色の深みに貢献しているのではないでしょうか?

イタリアのオールドチェロでも裏板が薄いものがあります。
修理で厚みを増して使われているものもあります。彼らもわかっていたわけではなく適当に作っていたわけです。



このチェロは何十年か前にはそれほど珍重されるほどのものではなかったでしょうが、今となっては古くても状態がよく、手抜きで作られた品質の粗さもありません。「ラッカーのアンティーク塗装」という表面的なことに惑わされないことも大事でしょう。ラッカーは音が悪いと考えられてきましたが、私の経験でははっきりそのような違いは生まれないと分かってきました。

持ち主の人はマニアではないのでそんなことも知りません。ただただ修理が終わって大満足のようでした。「たまたま家にあった」という幸運があるんですね。この程度のチェロでも探してそうそう買えるものではありません。

日本の業者は楽器の質よりもラベルを重視するのではないでしょうか?何か有名な作者の名前が書いてあると、10人に一人くらい勘違いしてくれる人がいるからです。そのような可能性が少しでもある方が魅力的に見えるでしょう。