職人の仕事と音の話 | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

こんにちはガリッポです。

この前ヴィヨームの話をしましたが、また続報です。
再び音大の教授がやってきて自分の楽器とヴィヨームを弾いていました。
この前はコンサートマスターの方と一緒でしたが、面白いのは楽器を試すのにコンサートマスターの方は主旋律のメロディーを弾いているのに対して、教授は超絶技巧の早いパッセージを弾きます。職業の違いが出て、音楽の奥深さを感じます。

教授の持っているヴァイオリンはモンタニアーナのラベルがついています。私が見るとf字孔は改造されていて原形が分かりません。スクロールも見るからに新しい感じがします。継ネックはされておらず後の時代に作られたものでしょう。コーナーの形やパフリングの先端がどう見てもモンタニアーナやゴフリラーなどのベネチア派の特徴と違うのです。ニスも薄く典型的なひび割れのしているものではありません。アーチも私のイメージとは違います。何一つモンタニアーナの特徴がみられません。モンタニアーナはかなり個性がはっきりしているだけにそれが感じられないのはどうなんだろうと思います。教授に「これはニセモノじゃないんですか?」と聞くわけにもいきません。
しかし胴体は明らかにオールドヴァイオリンで後世の人が作った複製ではないでしょう。モンタニアーナなら一億円以上そうでなくても数千万円はするクラスのものです。
コンサートマスターのアレサンドロ・ガリアーノは4000万円くらいです。
3000万円のヴィヨームと比べて音がどうかという話でした。

教授の弾き比べを聞いていても、明らかに音が違うことは分かります。それをどうやって言葉で表現できるかわかりません。この前印象の悪かったヴィヨームですが、弦をピラストロのエヴァピラッチゴールドから、トマスティクのペーター・インフェルトに変えました。音はきれいに整ったものになりました。これで違和感が無くなり本来の能力は出るようになったと思います。教授が弾いているのを聞いていてもちろん悪いところなど無くネガティブな要素を指摘することもできません。ヴィヨームを自分の楽器として弾きこんでいけば素晴らしい演奏もできるでしょう。それは楽器が良いのか演奏者が良いのかわかりません。それはヴィヨームに限らず他の楽器でもそうなのかもしれません。もっとたくさんの楽器を片っ端から弾き比べてみないと本当のところは分かりません。教授にその必要もないでしょう。

トマスティクは日本ではドミナントを使ったことのある人がほとんどでしょう。うちではあまり売れない弦です。ペーター・インフェルトをはじめて私が試したときにはあの懐かしい感じがしました。そういう意味では性能がどうだとか言う以前に「馴染み」というのがあるようです。一方ピラストロはそれ以前のガット弦で有名だったようです。安価なナイロン弦のドミナントが有名になった後も、年長の上級者やこだわりの強い人がガット弦を使い続けています。そういう意味ではピラストロもブランドとしては知名度があります。ガット弦に変わるものとしてオブリガートがこちらでは定番の人気があります。柔らかく暖かみのある音ということで、性能を極限まで高めたいというよりは心地良く楽しみたいと多数派の支持を得ています。日本や韓国アメリカではエヴァピラッチが有名でドミナントから張り替えると音量が増したとびっくりする体験をした方も少なくないのではないでしょうか。
まず考え方として乗り心地の良い高級車のようなオブリガートとレーシングカーのようなエヴァピラッチで高級弦に求められるものが違うのも面白いです。
こちらでもマニアックな人はいろいろな弦を試して、普通のユーザーは定番のオブリガートを使うわけです。日本でも高性能を求めるのはマニアックな人で、それ以外の人は皆が使っているドミナントを信じて使い続けるという保守的なものです。
日本の話で驚くのはやたら頻繁に交換することです。新しい弦の張り立ての音をベストと考えて変化すると劣化したと考えるようです。こちらでは張り立ての音はまだ本調子ではないと考えられていてしばらく弾き込んで馴染んだのがベストと考えています。考え方の違いは面白いです。
松脂が付着していくことも音が変化する原因です。アルコールで掃除するとフレッシュな感触が戻ります。


同じピラストロのヴィオリーノもオブリガートのように安い楽器をマイルドにして低い張力で扱いやすいものでコストパフォーマンスに優れています。
私は一番新しいパーペチュアルのカデンツァには、オブリガートとエヴァピラッチの両方の要素があるように思えるので個人的には注目しています。知名度は全く無く売っているところも多くないでしょう。
とはいえ大雑把な方向性の話で弓が触れて音が出る感触は個人のこだわりの強い部分です。ドミナントに慣れ親しんだ日本の人の方がトマスティクのユーザーが多いでしょう。ドミナントPRO、TIやロンドという新製品もありますが、トマスティクユーザーが少ないこちらでは経験が不足します。


話がそれましたが、なんとか「モンタニアーナ」とヴィヨームの音の違いを説明するのが難しいです。
弦楽器では音を評価する専門の職業がありません。演奏者が勝手に自分の感じた事を言うだけで客観的に記述するということはないでしょう。これがピアノなら学校やホールに備え付けられていて多くの人たちが使えるように最大公約数的に標準化されている部分はかなりあるでしょう。当然音を作り出すのはメカニズムの機構で誰が叩いてもピアノ自身が音を作ります。それでも弾く人によって音は違うでしょうが、ヴァイオリンはもっと演奏者が音を作る要素が大きいです。弾く人によって全く音が違うので楽器の音を言うのが難しいです。
そんなこともあって、これまでは業界としてヴァイオリンの音を記述してきませんでした。言葉で示されたことを実際に耳で聞いて、言葉と音の一致を体験するとはじめて記述を読んで音をイメージできるようになると思います。そのような共有が自動車やオーディオ機器ではもっとあるのです。

日産のカルロス・ゴーンという人が有名ですが、マツダにはマーク・フィールズというフォードの人が社長として日本にやってきました。フィールズはもともとテストドライバー出身で、マツダに来ると自動車の評価の基準を定めたそうです。それまでは開発担当者の個人的な好みで自動車の調整をしていました。操縦性や乗り心地などの感触を客観的に評価する基準を導入したのです。ユーザーの好みを分析してそれに合わせるという合理的なものです。


レコーディングやオーディオでは「ドンシャリ」という言葉があります。低音と高音を強調して中音が抜けているバランスのことです。オーディオ製品に音を調整する機構がついていれば、初心者はまず低音を強調します。それに合わせて高音も強調します。それがドンシャリです。音楽の大事な音域が損なわれるので玄人は嫌うのです。
そのような禁欲的な趣向を好まない人がファンに多い音楽ジャンルでは大いにドンシャリでやってくれということもあるでしょう。

ともかくこのようなことを経験するとドンシャリという言葉を聞いただけで音がイメージできるようになります。カーオーディオでズンズンと低音が漏れてくる車がありますね。と言えばだれにでもイメージできるでしょう。

個人のヴァイオリン工房なんてのはもっともっと個人的なもので客観性などは何もないものです。いくら職人が持論を熱弁しようと独りよがりなのか、実際に音が優れているのかわかりません。私はどれだけ見事な理屈を言おうと感化されません。

それどころか職人は楽器作りを通して、自分の意図を音に反映させることが非常に難しいです。何か工夫したことが本当に音の違いになって表れているのかよくわからないです。例えば音を調整しながら楽器を完成させるというような工程が無いのです。作ってみて初めてこんな音になったというものです。
自画自賛タイプの人は、目標があってそれに音が近づいたのではなく、自分が教わった方法や、自分で考えて作った楽器から出た音を後付けで優れている点を探しそれがヴァイオリンにとってさも大事なことであるかのように熱弁します。どんな作り方でもヴァイオリンは一長一短で良い所も悪い所もあります。つまりどんな作り方でも良い所を強調することができるというわけです。販売する営業マンでも同じことです。安く仕入れて高く売ることができる楽器の良さを強調した結果が日本特有の例の「神話」になって来たことでしょう。

だからユーザーは作者の言い分などは全く聞く必要が無く、試奏して結果として音が気に入るかどうかに専念すればいいのです。実際に単にいい加減で不勉強、やる気のない職人の作った楽器の音が良いこともあります。私などはとても悔しいですが、そんな経験も事実として受け止めないといけません。


弦楽器には音を客観的に評価する専門職が無いので、読者の中でそれを始めれば第一人者として成功できるかもしれません。教授やソリストなど偉い演奏家でも楽器や弦メーカーの思ったように動いたり考えてもらうのは難しいです。疑問点があれば何度も何度も弾き比べをさせられてうんざりするような仕事になるでしょう。さっきの話でも教授に気を使って、モンタニアーナが本物かどうか確認することすら難しいです。音楽家と技術者では頭の仕組みが違うのではないかと思うことがしばしばです。
例えばピアノなら技術者はすべての鍵盤を順番に鳴らしてメカニックが正しく作動するかチェックすることでしょう。演奏家はそんなことはしません。いきなり曲を弾き始めます。もちろん楽器の評価にはその両方が必要です。
小型のピアノならサイズの制約で難しい部分があって、それをいかに克服するかに技術者は苦心していることでしょう。でも演奏者はそんなことを考えているでしょうか?
演奏者は「なんだかわからないけど弾きやすい」とか「弾きにくい」と言うこともあります。なんだかわからないと言われると技術者にはどうしようもできません。弾きやすいと言ったものと弾きにくいと言ったものを分析して違いを探せば良いと思うでしょう?ところが弾きにくいと言われたものでも他の演奏者は難なく弾いてしまうのです。


読者の方で私とともにそんなことをしたいという人がいれば面白いなとは思います。
私が日本に帰って仕事をするなら、都会から離れたところに工房を作って熱心な人たちと実験を繰り返して研究していくなんてことも考えます。今まではあまり日本で仕事することに希望が持てませんでした。日本の弦楽器業界の話を聞くと帰りたくなくなるというわけです。しかし長年ブログを続けていると普通のユーザーとは違う熱心な人がかなりいるんではないかと感じます。それでも変な一派を形成して宗教の教祖のようになるのはゴメンです。マニアたちが特有の思い込みで狭い世界を作っても客観的な知見にはなりません。


話が脱線し過ぎてしまいました。
「モンタニアーナ」とヴィヨームの音の違いでした。
「モンタニアーナ」は乾いて音が反発し外に出てくる感じ、ペーター・インフェルトに変えたヴィヨームはしっとりと透明感のあって内側に引き込まれる感じがします。木材特有の響き、音の「カタチ」がはっきりしているのは「モンタニアーナ」、クリアーで透明感があるのはヴィヨームという感じでした。
木でできたアコースティックな味があるのが「モンタニアーナ」、透明感があってスムーズなのがヴィヨームでしょう。チェンバロからピアノに進化すると音はクリアーになっていきましたが、ピアノのようなクリアーさです。ガット弦とナイロン弦でもそんな感じです。
ヴィヨームはこれまでいろいろな人が弾いて音は鋭い傾向があることは分かっていました。しかし教授が弾けば滑らかできれいな高音も出てしまいます。それが楽器の音なのか、演奏者の技量なのかよくわかりません。教授ならどんな楽器でも滑らかな音を出してしまうのかもしれません。3000万円の音というのは分かりません。もっと安い楽器でも教授が弾けば同じような音が出るかもしれません。そのあたりをしつこくテストさせることができません。

理屈で言うと板が薄くなると低音が出るようになる代わりに中音の響きが減ります。ヴィヨームもそういうタイプの音です。作りが荒く板の厚みにばらつきがあって厚めな戦前の量産楽器はもっと響きが多くてごちゃごちゃした雑味の多い音であることが多いでしょう。雑音という人もいます。それに対して澄んだクリアーな音がするのが上等なモダン楽器というものですが、雑味も無さすぎると味気なさとも取れます。そのあたりは「モンタニアーナ」のほうがボディーがあるような感じがします。なんだよボディって思ったかもしれません。思い付きで「ボディー」と書きましたがそういう表現を皆が共有してないのです。

高いアーチのオールド楽器は板が薄くても複雑な響きも併せ持っています。
しかし楽器によって様々で一言で高いアーチの音ということは言えないでしょう。アーチが高い方が音がはっきりとしてより個性が強いでしょう。多かれ少なかれキャパシティが小さく窮屈な感じがします。魅惑的な音はより魅惑的に、細い音のものはより窮屈に感じます。

それに対してヴィヨームはフルサイズのグランドピアノのような楽器です。それは同様にして作られたフランスのモダン楽器全般の話です。

高いアーチでもコンサートマスターのガリアーノは、音に柔らかさがありヴィヨームのほうが音はかっちりしています。音の硬さが表現の限界を作っているように感じます。したがって必ずしもモダン楽器のほうが音楽を演奏する性能が良いとも言えません。

結局自分で聴いたり弾いたりしないと分からないということです。
自分で弾いてもわからないのはホールでの響き方です。私は幽体離脱に例えています。良い楽器は楽器から音が聞こえてくるのではなく、楽器から音が抜け出て広がっていく感じがします。そうでないものは音が楽器にへばりついて離れない感じがします。いろいろな角度から楽器を評価する必要がありますが、音楽家はそのような分析的な考え方をしない人が多いでしょう。


弾いている人にも表板の中央だけが振動している感じがしたり、もっと極端な場合では弦だけが振動しているように感じます。
板の厚い新品の楽器なら明るく表板の中央だけが振動している感じがするのに対して、ヴィヨームのようなものなら楽器全体が響いている感じがします。吸い込まれるような懐の深さを感じます。3/4など子供用の楽器のほうがはっきりと手ごたえがあります。
フランス風のモダン楽器は幅が広くアーチが平らで板が薄いとキャパシティとしては最大になるでしょう。演奏者が強大な太い音を生み出せばそれを妨げるものがありません。最大スケールのソリスト用のヴァイオリンというわけです。
それを再現して作ってうまく弾く人もいるし、扱いきれない人もいるでしょう。私はストラドやガルネリモデルよりさらに中央がワイドなものを設計したことがあります。キャパシティが大きいから鳴るというのではなく、弓で弦を擦ったエネルギーが吸い込まれるような感じで期待外れでした。

チェロではもっと顕著に表れます。それで板が厚めの楽器のほうがエネルギーが逃げなくて手ごたえが感じられることもあります。

高いアーチの楽器は窮屈になります。
その代わりはっきりとした手ごたえがあります。
これを雄大に鳴らすのも技量がいることでしょう。

究極のヴァイオリンは何かという話になっていくわけですが、自分の技量と資金力を考えると99.99%の演奏者には関係のない世界の話です。
鳴らしきれないという前提でどんな楽器が楽しめるか考えるのも良いでしょう。高いアーチの楽器は音色に味がありソリスト的に弾く必要が無ければ楽しいでしょう。モダン楽器でも実力の割に知名度が低ければ安くても有名な作者と作りの変わらないものがあるかもしれません。50~150年くらい経っている楽器は技量が無くても音が強く勝手に鳴ってくれる感じがします。そのようなものは中級者~オーケストラ奏者向きです。

全く演奏しないもっと多くの人には究極のヴァイオリンの話は興味を引くでしょう。
現実離れした話ほどずっと多くの関心を集めることでしょう。
ネットでもフェラーリだのロールスロイスだののニュースが勝手にニュースサイトのお薦めに入ってきます。私は表示させないようにしています。
日本語のサイトでもユーザー数の多い軽自動車のニュースが入ってきたことはありません。軽自動車でどれを選ぶかの方が多くの人にとって重要なのにもかかわらずです。そもそも車を今すぐ買わない人の方が多いのでしょう。限定何台の超豪華モデルを世界中の何億人もの人が見て情報が役に立つのでしょうか?
興味本位の役に立たない情報ばかりです。

職人の仕事の実際


職人は科学者ではないので微妙に少しずつ条件を変えて何百通りも試作を繰り返して統計的に有意差があることを証明するような時間がありません。お金にならないと暮らせません。

このためセオリーとして職人の間で信じられている理屈に従って仕事をしています。そのような業界の知識を学校や弟子として勉強した人がプロの職人で、教育を受けていない人がアマチュアの職人です。
こうやって私も学んだセオリーですが、実際の楽器で経験すると本当に正しいのか怪しくなってきます。セオリーからかけ離れたような楽器で良い音がすることを経験するからです。
セオリーに疑いの目を向けるだけでも師匠や社長、先輩社員とは軋轢を生みます。
クラシック音楽の世界は権威主義者が多く、目の前のことをそのまま受け入れることには抵抗感が強いのです。それだけでも地動説やダーウィン級の革命的なことです。

そんなセオリーでも何も学んでいない自己流よりははるかにましで、それでお金を取ることができるわけです。医者で言えば手術の腕前と医学の進歩の両方が必要ですが、医学の進歩のようなことが弦楽器の世界ではなく、手術の腕前くらいしか違いが無いのです。しかし手術の腕前は重要でしょう。弦楽器の場合にはセオリーは進歩しないので腕前だけが評価できるというわけです。

もちろん個人個人では職人が考えや試みをしてやっています。しかし音については宇宙のように分からないことの方が多いというイメージで良いと思います。天才職人のような人がいて、音について何もかも分かっていて自由自在に音を作り出せるという状況は現実からは程遠いです。全知全能の神のように職人を考えるのはやめたほうが良いと思います。


これはミッテンバルトで作られた大量生産品のヴァイオリンです。
ミッテンバルトではルドビヒ・ノイナーがヴィヨームのものとで働きフランスからモダンヴァイオリンの製法をもたらしました。大量生産品ではノイナー&ホルンシュタイナーという会社がありドイツの量産品としては異例の高値で40~150万円くらいします。ノイナー本人の作品なら300万円くらいして、見た目はヴィヨームとそっくりです。
ミッテンバルトでは地場産業としてヴァイオリン製造がおこなわれ、各家庭で部品ごとに分担して作り、工場で組み立てて塗装して製品にしていました。
自動車などの今日の産業と同じです。

ミルクールやマルクノイキルヒェン、シェーンバッハでも同様だったことでしょう。

量産品が悪く言われる一つの理屈として「部品ごとに別々の人が作っているので音のことを考えて作られていない」ということです。これはこの時代の量産品では確かにそうです。この楽器も表板や裏板の厚さが異常に厚いです。つまり楽器としての機能を知らずに、一枚いくらという単価で表板や裏板を作っていたなら、できるだけ作業を早く終わらせて枚数を稼ぎたいです。板は初め厚いものを削って薄くしていくわけですから、厚い方が手間が少ないというわけです。当然薄い方が慎重さが必要で厚みの差以上に時間がかかります。一段階注意深く作業すると倍のように時間がかかります。
今は機械化されているので厚みなどは設計通りに作ることができるようになっていますが隅っこのほうが正確に加工できず削り残しがだいぶあります。


しかしながら、一人ですべての部品を作っている職人が音を分かっているかと言えばそれも怪しいです。職人が意図して「音を作り上げているので作品として作家性がある」というのは期待し過ぎです。ただセオリーにしたがって作っているだけです。

そのセオリーが怪しいということは指摘してきました。職人が間違ったセオリーを信じている可能性があります。それならいっそのこと未完成の量産品をいじったほうが音が良いということも有り得ます。

これはチェロのような板の厚さなので薄くすれば面白いです。

ミッテンバルトの量産品は何となくミルクールのものに似ている感じがします。これは時代が1900年よりは前のものだと思います。1880~1900年くらいのものでしょう。よくあるザクセンの量産品はもうちょっと後の方の感じがします。1920,30年代の感じがします。そうするとこれでも130年くらい経っていると結構古いですね。

裏板を見てもミルクールの雰囲気にも似ていますが、ミッテンバルト独特の雰囲気もあります。ニスはラッカーでしょう。でもちょっと古いタイプでミルクールのものに似ています。アンティーク塗装ではなく本当に古くなったようです。よく聞くのはミッテンバルトでは亜麻仁油を木に塗りこんでいたというもので着色されていません。ミルクールやザクセンでは薬品のような染料で染められています。

分かりやすい特徴はロワーバウツの横板が一枚のもので真ん中で継ぎ合わせていません。これはアマティ派やシュタイナーで見られたもので、ミッテンバルトではオールドから続く伝統でした。

中を見れば仕事は粗く、どこの産地の量産品とも変わらないものです。だから私は産地名にこだわることは意味がないと言っています。安上がりにしようと思うとどこの国の人でも同じことを考えるからです。仕事が雑な職人は世界中に一定の割合でいるので、どこの国の楽器でも同じようなものがあるのです。
デルジェスでもアマティやストラディバリに比べれば仕事が雑です。

コーナーブロックの形にはミッテンバルトの特徴があります。


裏板の厚みを測ってみると少なくとも1mm以上は厚すぎると思います。それは過去のモダンやオールドの名器と比べた場合です。過去の名器について研究することが、セオリーに変わるものです。しかし「ストラディバリがこうなっているから正しい」と主張するのはまた新たなしきたりが生まれるだけです。その結果の音を試すべきでしょう。
そんなことを指摘するのは、そう考える人が多いからです。「ストラディバリと同じ」という理屈を信じて音が良いと思い込んでしまうのです。そんなことばっかりです。

板を削っていきますが、私は経験的にイメージがあります。しかしながら厳密なことは分かりません。

削ってみたところでそれで十分なのか、もっと削ったほうが良いのかわかる方法が無いのです。表板を取り付け楽器として完成させてから始めて音が出るからです。音が出たときにはもう板の厚みを変えることはできません。完全にあてずっぽうです。
私が楽器について言う時に「明るい・暗い」「鋭い・柔らかい」ととてもおおざっぱな説明をします。それは大雑把にしかわからないからです。
板を薄くして行けば暗い音になっていきます。でも細かく狙ったようにはなりません。0.1mmの差で出てくる音の違いを推測することなんてできません。
ざっくり薄くしないと違いが出ないです。

裏板をコツンコツンと叩いてみるのですが、新品のヴァイオリンを作っている時よりもはるかに硬い音がします。厚みもまだまだ厚いということもあるでしょう。もっと削って柔らかくしたほうが良いのか、硬さを音の強さとして残したほうが良いのかわかりません。そもそもその硬さが出てくる音の柔らかさにつながるのかもわかりません。


表板をつける前に指板をつけます。表板をつける時に微妙に指板の角度が動くのでそれを確認しながら接着するためです。指板を付けた後に叩いてみるとその前とは全然音が違いました。重さのバランスが変わるからかもしれません。だから叩くときの持ち方も何が基準となるのかわかりません。

表板を付けた段階でもどんな音が出るかはわかりません。弦を張って弾くまでわかりません。その時に何かしようと思っても手遅れです。作業がすべてやり直しです。
こんな量産楽器ではせいぜい4~50万円くらいです。何度も開けたり閉めたりを繰り返すと元が取れません。

しかし音が出てみれば何らかの個性があり、嫌いな人もいれば好きな人もいるものなので、どっちに転んでも良いのです。
修理でも製作でも適当に作っておいて、試奏してそれが好きという人に巡り合えばいいのです。

私たちの仕事はそんなものです。
作業の中に音を確認しながら調整する工程が無いのです。出来上がるまでどんな音になるかはわからないのです。様々な音のものができても、人によって好きな人がいればそれでいいのです。

仮に職人が完全に意図した音の楽器を作れたとしても、その人の意図する音を演奏者が好むとは限りません。だから一緒です。

音についてはそれくらい不確かなものとして考えています。しかし、コーナーの形やパフリングの先端がベネチア派のものでないとなれば、どんな音がしようとその楽器がモンタニアーナであるかは疑わしくなります。教授が見事な演奏をしてもパフリングの形が違えばモンタニアーナではないのです。
職人にわかることはそのようなものです。
弓職人ではネジがどうだとか言います。ネジの違いで演奏感や音に違いが出るわけがありません。見てるところがユーザーとは全然違うのです。


職人でも自分の楽器を作るばかりの人は自分の楽器の音しか知りません。販売や修理・調整をしていればいろいろな音を知ります。その中で大雑把にどれくらいと把握できます。しかし一つの楽器について持ち主ほど深く理解することはできません。それでも日本なら新しい楽器が多いでしょうし、こちらなら中古品みたいなものが多いでしょう。

楽器の音は人格のようなもので家族のように深く付き合っている人と、パッと見た第一印象で違うかもしれません。
我々は人生相談や占い師のように、多くの楽器を見ているとなんとなくこのあたりかなというくらいの大雑把な見方をします。持ち主は違いが他人には分からないような細かいことを気にします。とても鋭い音でも、本人はそれが普通です。その人が満足していれば、私たちが鋭いと思っても柔らかくしなくてはいけないという事ではありません。このため他の楽器と比べたときの印象も正反対になるかもしれません。


弦楽器の業界では「値段が高い=音が良い」とだけ語られてきました。
投機目的で値段が高騰し実態とはかけ離れたものになってきました。

実際にいろいろな楽器を試してみれば音についてとてもじゃないけども「良い・悪い」という世界中誰にでも共通の一つの物差しで測れないことが分かります。すべての楽器の音が違うのは分かっても言葉で表現もできず、0~100点に振り分けることはできません。
測定などは難しいです。
大学の音響工学の研究者が取り組んでいましたが、まず弓の加減を常に一定にすることができないので人ではなく電気モーターで作動するベルト式の装置を作っていましたが、うまくいきませんでした。かつてオルゴールに回転式の弓で音が出るヴァイオリンが内蔵されているものがあったようです。オルゴールはディスク式やシリンダー式など当時はハイテク技術でした。当時の技術ならできたかもしれません。

そのような理系の人が喜ぶような方法で点数をつけても音の良さと言えるでしょうか?
具体的にどんな音かは語られず、好みや目的、音楽性に応じて選ぶということもされてこなかったです。弦楽器に携わる人たちはもっとボキャブラリーを増やしていくべきだと思います。

普通文化や趣味であれば、同じジャンルの中の人でもさらに細かくジャンルや趣味趣向が分かれていくものです。それらが一緒くたになって語られ、個人個人が自由に心で感じることが許されないなら、インテリを気取っているだけはないでしょうか?


技術者的な考え方ではすべては一長一短で何を重視するかよって評価は異なります。
不動産に似ています。交通の便が良く日当たりが良く、敷地や部屋が広く、建物が新しく・・・あらゆる条件を求めると家賃が高くなります。決められた家賃の中で、昼間は家にいないとか、休みの日は外に出かけるというのなら日当たりはあきらめましょう。何か自分にとっては重要でないことを捨てることで重要なことを得られます。すべてまんべんなく要素を得ようとすると何もかもが中途半端なものになります。
楽器もすべての要素を中間にしてしまうと平凡なつまらないものになるでしょう。
逆に考えればつまらない平凡なものが実は「本当の良いもの」で飽きずに長く使えて、使っていくほどに鳴りが良くなって深みを増していくかもしれません。

高音と低音とか、音の柔らかさと強さ、音色と音量、耳元の音と離れて聞く音など相反する要素があります。全体的に力強い音がするのは良いけども、高音が耳障りという楽器が多くあって調整で何とかしてほしいという依頼が多くあります。ごまかすことはできても高音を柔らかくすることは難しいです。もはや高音の柔らかい音の楽器に変えるしかないのです。そうすると全体的にはおとなしくなります。職人は魔法使いではないので無理なものは無理だと分かっています。音楽家には「職人が心を込めて作ったから音が良い」と考える人がいますが、全くそういう問題ではありません。


弦楽器の世界は新しい考え方が必要だと思います。
これまでにセオリーとして信じられてきたことを知って全てを分かった気になって正解を決めてしまうよりも、音を自由に感じるほうがクリエイティブでしょう。私はそのように考えています。