音楽教育のボランティア | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

こんにちはガリッポです。

以前から私の街の音楽教師たちがアフリカの国で音楽を教える活動をしています。私の同僚も寄付された楽器を届けたり滞在して修理をしたりしていました。それがコロナでしばらく行き来ができなくなっていましたが、最近アフリカから生徒を呼んで教えたり演奏会をしたりしていました。

音楽教師の方々はのん気なもので、何とかなるだろうということでやってらっしゃるのでしょうが、楽器のほうが大変です。
楽器自体にもお金がかかりますし、メンテナンスや消耗部品の交換も必要です。現地にはヴァイオリン店なんて無いですから。

それで職人がボランティアで行って、ひたすら「必要最小限」の修理をするわけです。普段から音質が劣化して交換した弦があるとお客さんに「アフリカの生徒のために寄付してくれませんか?」と訪ねて、中古の弦を集めています。
楽器をベストな状態にするなんてことではなく、何とか使えるようにするというものです。私は苦手なことです。

それでも現地の人たちが自分で修理できないといけません。それで音楽学校の暇を見つけてはうちの工房に来て2人の生徒に教えていました。

一人は弓担当、もう一人は楽器担当という事でしたが、週に数時間しか来れずに何から教えて良いかわからないものでした。音楽学校で習ったり、演奏会のイベントなどが重要なのでしょう。当然ボランティアの寄付を集めるPR活動もしなくてはいけません。

楽器を作る職人ではなく、総合楽器店の店員のようなレベルのことを知るべきで、最低限の作業も必要です。


まず困惑したのは「スケジュール」というのが全く計算できないことです。いつ来て教えることができるか予測ができません。
われわれはヴァイオリン製作を学んだときは朝から晩まで毎日毎日やっていましたが、そんなことは分からなくて、一日に30分とか来ても何もできません。

それから日本人とは圧倒的に違うのは真剣さです。日本人が仕事場で初めて物を教わるなら少なくとも真剣な顔つきのふりをしないといけません。実際に貴重な機会があって、ものを勉強できるなら真剣に聞くのは当たり前でしょう。自分の国ではだれも学んだことのない最先端の勉強ができる機会です。
それがふざけて笑ってたり作業の間、歌を歌ったりしてるのです。

「人間にとって幸せとは?」ということを考えさせられます。学ばなくてはいけないことが山ほどあるのに、そんなことよりもその時間を楽しく過ごそうとしているのでしょう。

日本人はいろいろなことを勉強して、能力を身に着けても、必ずしもいつもご機嫌というわけではありません。むしろその逆でしょう。限られた日程ならあれもこれもやらなければと分刻みでスケジュールを組んで行動するのが日本人です。


次に難しいのは教わったところで道具がないのです。日本なら大工道具はもともとあって刃物を研いだり、木材を加工する技術があります。ヴァイオリン専用の工具以外は何かしらあるのです。それが全くないのだそうです。
工具なら古くて要らないものをあげれば良いのです。問題は刃を研げるかということです。研げないと与えた工具もすぐにダメになってしまいます。これが明治時代の日本なら西洋の人よりもうまく刃を研げたくらいです。今の人なら同じことかもしれませんが・・・。

さらに日用品のレベルでアルコールや洗剤、筆記用具なども品物自体やクオリティがありません。

一番重要なのは、本人がヴァイオリン職人になろうという決心をしているかと言うと、そんな感じでも無いのです。
このプロジェクト全体を通して、教える方ばかりが教えたがっているようにすら思えます。

よく学校を作って教育を受けさせるという活動がありますが、生徒が来たがらないで苦労したと聞いたこともあります。教育の必要性を分かっていないからです。テレビでは「将来勉強してお医者さんになるんだ!」と澄んだ目をした子供が映されますが、実際はどうなんでしょう?

音楽を教育することはただちに産業というわけではありません。スポーツなども同じでしょう。プロになって活躍する人はほんのわずかです。

現地には現地の音楽があり、西洋音楽を教えることが良いことなのかも日本人の私にはわからないことです。その辺は先生たちは良いことだと信じているのでしょうね。

ピアノやギターなど他の楽器のほうが流行音楽への応用が利きそうです。
日本でさえ弦楽器は難しいです。学校では吹奏楽までのところがほとんどでしょう。クラシックの伝統のあるこちらの学校でも90年代に買ったチェロを一度もメンテナンスしたことがなかったりします。先生が持ってきて、「消耗品を交換してメンテナンスするには10万円くらいかかります」と説明すれば、そんなお金は無いと言われました。

西洋の人たちの楽観性で、アフリカで音楽を教えるなんてアイデアが出れば「それは素晴らしい!!」となるのでしょう。でもいざ楽器のこととなると何も考えていません。何から手を付けたら良いのか私には絶望的です。でもアフリカの人たちもヨーロッパの人たちも明るく楽観的で誰もそんなことは口にしません。

ボランティアや慈善活動をする人には責任感というのを持ってもらいたいと思いますが、パーティーで集まったときにそんな現実的な話になるでしょうか?少数派の意見などは無力です。

私は活動自体は素晴らしいと思いますが、現実的な問題ばかりが気になってしまいます。


そもそも音楽教育とは何なんでしょうね?
読者の皆さんはそういう世界の中にいて疑うこともないのかもしれません。

西洋音楽を教えて、演奏者を育成しコンサートホールを建て、お客さんを集める活動をして・・・・そうやって日本もやって来たでしょう。アフリカでも同じ道のりを歩み始めたという所ですが、そんな必要性はあるのでしょうか?

前回の話でもヨーロッパでクラシックの演奏会に来るのはほとんどが高齢者だという話をしました。
ヴァイオリン職人でもプライベートではロックのファンという人が多いです。普段からクラシックを聞いている人なんてほとんどいません。ただ子供の頃習っていたからヴァイオリンの仕事をしているだけです。

クラシック音楽が誰にとっても「魅力」がないのならやる必要はないと思います。
私はグルメ料理のように贅沢で美味な音楽だという「快楽主義」の考えを持っています。


こういう事も私は真剣に考えすぎているようです。




別の話です。
以前からうちの会社ではウクライナからの留学生の楽器のメンテナンスをボランティアでやっていました。彼らはとてもひどい楽器を使っていて、かつて東ドイツやチェコスロバキアなどで生産した楽器を使ってきたようです。
修理できる職人もおらず日曜大工レベルのひどい修理です。

教えている先生から何とかしてくれと言われると、普通なら楽器の値打ちを修理代のほうが超えるので新しく楽器を買ってくださいという所です。
新しい楽器を買うお金なんてありませんから、会社の業務とも言えず師匠が無償で直していました。

これが日本からの留学生とは全く違う所で、留学するからと祖父母などから大金を集めて高価なイタリアの楽器を持って行くわけです。まるっきり正反対です。
世界にはボロボロの楽器で一生懸命練習している人もいれば、特に機能が優れてるわけではない高価すぎる楽器を買ってる人もいます。

ヨーロッパでは教育にお金をかけるという発想があまりないのでアジア人特有の行動に思えます。
こちらでもアジア系のお母さんは必至です。日本人と違うのはお金をかけないけども良い楽器を使わせたいと無茶な要望をしてきます。

韓国の人でも、自国で楽器を買うよりもヨーロッパにいる間に楽器を買った方が良いと考えている人が多いようです。それは自国の業者が信用できないということでもあります。

日本の親は世界一金払いが良いということでしょうね。イタリアの職人たちも日本の業者はちゃんと代金を払ってくれると好評です。末端価格がその何倍にもなるのですから業者も喜んで支払うものです。


そのウクライナの留学生のヴァイオリンですが、アマティのモデルでニスは光沢は失っていて割れもひどく、表板の低音側もひどく陥没していました。
バスバーの取り付け位置も中央によりすぎているようですし、大きさも小さくて弦の圧力に耐えられていないようです。
中をのぞくと表板の内側に粗く削られた木の塊が接着されていました。見たこともないような修理です。

表板を開けたら最後、オールドの名器に施すような修理が必要になるでしょう。そこで師匠は指板とネックの間に板を入れて駒の高さを上げる修理にとどめていました。私にやらせたらやりすぎてしまう事でしょう。

こんなボロボロの楽器で、滅茶苦茶な修理で音が良かったらいよいよ私たちが学んできたことが怪しくなります。

でもそれもうすうす感じてることですから、音が良かったとしてもおかしくないなとは考えていました。実際に弾いてみると驚くほどよく鳴りました。
荒々しい音ではありますが、とりあえず鳴ってはいます。私がいつも言っているように「強い音」の楽器は珍しくないのです。ガラクタのようなひどいものでも十分あります。
ホールではわかりませんが少なくとも部屋でレッスンを受けるにはよく鳴る楽器です。

ボロボロの楽器のほうが音が良いというのも実感としてはあります。この楽器を買い取って分解して研究したいくらいです。

我々職人は必要以上に細かいことを気にしていて、こだわりすぎているのかもしれません。


一方で量産楽器よりも品質が悪いハンドメイドのチェロが持ち込まれていました。楽器の一番下エンドピンのところの裏板がはがれていて、ネックのところの表板も剥がれていました。

修理としては再接着するだけですが、押し付けても隙間があるようです。隙間があれば接着してもまた剥がれます。うちでは責任は持てません、作った人に直してもらってください。

でもハンドメイドです。
ニスも最近の流行なのでしょうか?とにかく汚らしい簡単なアンティーク塗装で私には全く古い楽器には見えません。それよりもニスの層が薄すぎてちょっとこすると真っ白になってしまいます。ニスではなくて色が塗ってあるだけです。
こういう最小限の品質もないものを作って満足している職人が多いのです。

音から言えば、ニスが薄い方が良いのかもしれません。工業製品としての最小限の品質もありません。そういうものは購入候補から除外するという考え方もできます。音楽家はそのような違いが気にならにようです。

それがアフリカになれば、誰も気にするレベルではありません。しかし幸い量産品しか買えませんから、最近の流行りのハンドメイドの楽器のようなことはないでしょう。

昔はギルドのような組織があって、品質や腕前が何かしらチェックされることがありました。今は自由な時代なので、量産品以下の品質の楽器を作って売るのも自由です。アピールがうまければ流行らせることができます。

私は自分が納得のいくものを作るだけです。


私は日本人の中でも変わっている頑固者でしょうし、ヨーロッパの人たちの考えかたも違いますし、アフリカの人になるとさらに違います。ヨーロッパの人たちは異文化のコミュニケーションが新鮮なのかもしれませんが、こっちは毎日です。

仕事を教えたアフリカの人に真剣さが感じられないと書きました。それもまた、私が変わっているのかもしれません。
日本でも大学生くらいの歳でアルバイトに来た若者に仕事を教えるなら同じような経験をしている方もいらっしゃるかもしれません。

これがヴァイオリンとギターの技術者でも全く違います。楽器製作学校でもヴァイオリンとギターでは生徒の見た目の雰囲気も違いますし、まじめさが全然違うようです。日本でもヨーロッパでも同じです。

ギターでももちろん一人前になる職人は不真面目であるはずがありません。楽器製作学校の先生もヴァイオリン製作の生徒をうらやましく思っているようです。「それに引き換えうちの生徒はどうしようもない」とそんな心境だそうです。

日本人でも色々いるということになりますかね?