フランスのチェロの修理  (後編) | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

こんにちはガリッポです。

弦楽器についてはウンチクはあてにせず、試しに弾いて音を聞いて判断することが大事だと話して来ています。

職人の知識についてチェンニーノ・チェンニーニの言葉が的を得ています。ルネサンス時代のイタリアの画家で画材など絵画の技術について本を書いた人です。これには分量について「〇〇過ぎず××過ぎない」と書かれています。
何か材料を入れる時には多すぎず、少なすぎない量を入れろということです。「それがどれだけなんだ?」と今の人は思うでしょう。昔のイタリアの人の本は面白くて当たり前のようなことをどや顔で語ったりするのです。

料理のレシピなら調味料を何グラム入れるか書いてあればわかりやすいですね。
でも実際に素人が料理して失敗するのはしょっぱすぎたり、味が無かったりします。
調味料は「多すぎず、少なすぎず」が正しいのです。

その中で多少の違いは食べる人の好みの問題でもあるし、作る人の個性でもあります。そういう中間的なあいまいさがあります。
多すぎたり、少なすぎた失敗を経験して適量というのが分かるようになります。これが経験知です。
だから職人の仕事は失敗を多くするほど理解が得られるというものです。

こういうことを理解しているのが本当にわかっている職人ということです。
楽器作りなら、大きすぎず小さすぎず、細すぎず太すぎず、厚すぎず薄すぎない
、硬すぎず柔らかすぎない…ということを感覚でつかんでいることが重要です。

それに対してウンチクのような知識は机上の空論です。誰か偉い人がそう言っていたとか業界で言われているとかそんなのは本当の知識ではありません。言葉で考えたことなど空想でしかありません。

360mmを超えるフランスのヴァイオリン


フランスの楽器の話をしていましたが、まずは大きさの話からです。
フランスのヴァイオリンの特徴は胴体の長さが360mmを超えるものが多いです。362~3くらいが典型的なフランスのモデルです。
それに対して国際標準とされているヴァイオリンの大きさが355mmです。

このような数字を見たときに355が正しくて362は間違っているのではないかとい疑問を持つ人がいるかもしれません。


私に言わせれば大きすぎず小さすぎずの範囲内なので全く問題ありません。音に関してこのような違いは無視してかまいません。それ以外の要素のほうが大きいと考えています。

このため気にするべきなのは演奏しにくくなるかどうかだけです。ヨーロッパの場合には体格が大きいので気にする人はまずいません。ヴァイオリンを買う時に360mmを超えているかどうか何も考えていません。
フランスのヴァイオリンだけでなくフランスのヴァイオリン作りが伝わったドイツでもザクセンの量産品でも360mmを超えるものがたくさんあります。でも誰も大きさなんて気にしていません。

日本人でさらに女性なら小柄な人もいるので気になることもあるでしょう。私の働いている感覚だと見過ごしがちです。

380mmあったらもうそれはビオラです。5mmやそこら長くてもヴァイオリンです。なぜフランスのヴァイオリンが大きいかの一つの理由として考えられるのは、ストラディバリモデルを美しく完璧な形にしようとするとちょっと長くなってしまうということです。
丸みを帯びたモデルにすると四角いモデルに比べて数ミリ長くなります。ストラディバリも黄金期のものは358mmくらいありますから、摩耗してすり減っていることを考えるとほとんど360mmくらいあります。それでさらに形を整えたら362mmくらいになり、アーチをまたいで測れば直線距離より長くなるので363mmくらいにはなります。
黄金期のストラディバリを元にしたらそうなることあり得ます。ストラディバリも黄金期のものがみな同じ大きさではありません。数ミリの違いなんてどうでも良いと考えてたのはストラディバリ自身なのです。

1mmや2mmの数字にこだわらないのがよくわかっている職人だということはさっきのチェンニーノ・チェンニーニの話の通りです。ストラディバリがまさにその「分かっている職人」です。

360mmを超えることでより完璧な美しい形になっているのがフランスのストラディバリモデルです。

わりと有名な事でも知らない人もいるでしょうから言いましょう。最新のことは知りませんがヒラリー・ハーンはヴィヨームを使っています。ヴィヨームのガルネリモデルで全長は360mmを超える大型のものです。実際のデルジェスは352~3mmくらいかさらに小さいものもあります。
このためオリジナルとは関係のないフランスの「ガルネリモデル」ということになります。
これについて小柄なヒラリー・ハーンは大きすぎると言いながらも使っています。まあ、神童と言われるような人は成長しきる前から大人用のヴァイオリンを弾いて国を代表するオーケストラの前で弾いていたりしますからそんなもんですよ。

全長が長いのでビオラのような音にならないのかという話ですが、ただ形が丸くなったから長くなっているだけで振動する部分の面積は変わりませんし、ストップの位置が同じなら振動する部分の弦長も変わりません。
実際にはリュポーやヴィヨームのようなフランスのヴァイオリンはストップが192~3mmくらいです。195mmが標準とされているのでちょっと短いです。このため減の張力や左手の抑える位置などはヴィオリンのサイズのままかむしろちょっとわずかに短いくらいです。


フランスの当時の職人たちはやはり大型のものが良いと考えていたのは間違いないでしょう。全長以上に横幅が重要です。モダン楽器は横幅を広く取ってあるものが多いです。イタリアの作者ならフランスのものよりもさらに横幅の広いものがあります。
モダン楽器の考え方では横幅が広いことは重要だったのでしょう。幅を広くすると四角い形になりますからきれいな丸みを付ければ全長も長くなるというわけです。

以前には独学で見よう見まねで作ったようなヴァイオリンはたいてい横幅が狭いという話をしました。幅が広くて整った形を作るのは難しいのです。

一方アマティには小型のモデルと大型のモデルがありました。大型と言っても353mmくらいですが、小型はずっと小さく初代のアンドレア・アマティのものでは3/4の子供用くらいしかありません。
値段は大型のアマティモデルのほうがずっと高いです。
1600年代の作風のイタリアのオールド楽器には小型のものがたくさんあります。それよりも大型のほうがゆったりとゆとりがありスケールの大きな演奏ができるということで今では高く評価されています。そのような大きなものを良しとする考え方がフランスの考え方です。実際には小型でも音量のある楽器があったり、大型でも音量のない楽器があります。

ともかくその結果窮屈になることはなく、スケールの大きなソリスト用の楽器として優れているのがフランスのモダンヴァイオリンです。

ビオラの音のようにならないかということについては大きさよりも板の厚さが重要です。ビオラでもビオラらしい音がしないものが多くあります。うちの会社で15年くらい前に先輩が作ったビオラが今でも売れ残っています。これは厚い板厚で作ってあってビオラらしい音がしません。ストラディバリのモデルで全長は長いにもかかわらず、私がアマティのモデルで作った小さなビオラのほうが豊かで深みのある低音が出るのです。これは板の厚さが違うからです。
全長を数ミリ長くしたくらいでは「ビオラのような音」にはなりません。

これが分かっていないとしたら実際に実験した経験がないのです。そもそも音響工学的な発想を学んだことが無い人が多いです。
頭の中に技術的な頭がすっぽり欠落しているのです。言っていることはファンタジーです。

もっと言うとこちらでは「ビオラのような音」のヴァイオリンはとても好まれます。低音を弾いた時に「快感」を覚えるからです。私が日本で習っていた先生もそんな音が好きでフランスのヴァイオリンを使っていました。

心配するどころかビオラのような音になって良いのです。
しかしそれは全長とは関係ありません。私がおととし作ったデルジェスのモデルのヴァイオリンは小型なのに低音が深く豊かなものでした。

もう一つビオラの音の問題は鼻にかかったような音になることです。これも全長とは関係ありません。規則性は見出せません。

板の厚さについて


板の厚さについては古い楽器には薄いものが多いのは資料を調べても修理をしていてもわかります。しかし本で調べてみるとデルジェスには結構厚いものがありバラバラです。注意深く作っていなかったようです。
パガニーニが使っていたことで有名なイル・カノーネと呼ばれているものはかなり板が厚いものです。コピーを作った職人の話を聞くと全然鳴らなかったそうです。
ジェノヴァ市の所有でほとんど使われていないものです。イタリアのヴァイオリン奏者に貸し出して演奏をすることがあります。私がまだ日本にいたころ東京オペラシティでサルヴァトーレ・アッカルド氏が演奏したことがあって聞きに行きました。他の楽器と比べることも無いので音量があるかはよくわかりませんでした。当時アッカルド氏が言っていたのは自分が使ってるストラディバリは以前ジノ・フランチェスカッティが使っていたもので「準備ができているもの」だそうです。それに対してイル・カノーネは全然弾いていないので実践で使える状態にないとのことです。アッカルドの考察が正しいのかはわかりませんが現時点で鳴らないことは確かです。
カノーネというのは大砲のことで音量があることからそう呼ばれていたものです。ヴィヨームによってモダン楽器に改造されています。その時にコピーを作ってパガニーニ献上したところパガニーニは弟子のカミロ・シヴォリに与えて自分は弾きませんでした。
当時はモダン楽器やバロック楽器が混在していたし、作られて50年以上経っていたカノーネは、私がドイツの楽器で経験したように新作よりもはるかに鳴ったのかもしれませんし、パガニーニだけが弾きこなせたのかもしれません。こんな話だけでも面白いですが、私は興味があって職人になる前に本で読んだ話です。


古い楽器は修理などによって削られている可能性もあり、それがもともとの厚さかどうかは分かりません。
それでも1600年代のアマティ家やシュタイナーのものはまあ薄いです。その流派では薄いのが普通だったはずです。ストラディバリも1600年代のものは薄いものが多いですが結構バラバラです。グァルネリ家もデルジェスよりも前の世代は薄いものです。デルジェスはいろいろです。
オーストリアの国立銀行のコレクションではストラディバリなどの名器をたくさん所有しています。本が出ていて厚みも表示されています。ここのコレクションにあるものはみんな薄いです。薄いのは例外ではなくむしろ主流だと考えたほうが良いでしょう。

私は10年以上前から興味がある楽器があれば厚みを測って記録しています。これをやるのに30分~1時間くらいかかるので余計なことをしていたら生産性が落ちます。でも10年もやっているとどれくらいの厚さが普通なのかとか、流派ごとの特徴などが分かってきます。

ドイツのオールドやフランスのモダンにははっきりしとした特徴があります。チェコのボヘミアも決まったスタイルがあるし、現代のドイツの楽器にも特徴があります。でもどこの流派にも流派のルールに従わないで作られたものがあります。厚い板厚が良いと信じられていた流派の中にたまに薄いものがあるのです。
このようなものはどこの国のものでも関係なくモダンの優れた楽器のような音がすることがあります。どこの国にでも散発的に古い楽器を研究したり、薄くしたら良くなるんじゃないかと考えて試した人がいたようです。生物では収斂進化と言いますが、全く関係のない流派なのに同じような板厚になっているものがあります。おそらく流派の「しきたり」を守る事よりも自分が望む音を作り出そうとした異端児だったのでしょう。そんな人が一定の割合でいるということが面白いです。マイナーな流派なら値段も安いのです。

その一つがこの前紹介した西ドイツのロートです。西ドイツの流派は東ドイツやチェコから移住してきた人たちの流派です。元の東ドイツの楽器ではグラーデーション理論で中心から外に行くにしたがって薄くする方式になっています。この方式だと厚みに差をつけるため中央や中間部分が厚くなりトータルとして厚めになります。
これに対してロートはフランスのものに近い板厚になっています。値段を安くするために機械化して近代的な製造法で作られました。その分音響的に重要な部分は手抜きをせずに作られています。
ブログでは1970年のものを紹介しましたが1995年のものでも同じ厚さで音も似ていました。
それに対して戦前の東ドイツの量産楽器は分業で別々の人が音のことなど何も考えずに安い単価の仕事をできるだけ数多くこなすように雑に仕事をしていました。外観さえヴァイオリンのようなものができると売ってしまっていたのです。

それに対してロートははっきりと「設計」というものがあり、機械で同じものを量産して安い値段で音の良い楽器を作ってきました。20万円くらいの値段なら驚くほど音が良いものです。特に低音にボリュームがあり「快感」を感じます。
私はやや硬さを感じるので、量産品の限界も感じますが、よく鳴って低音に快感を感じるので場合によっては偉い師匠の流派のしきたりに従って作られたハンドメイドの楽器より音が良かったとしてもおかしくありません。

日本では、この西ドイツのヴァイオリンの音が良すぎたらそれより高い楽器が売れないので「明るい音神話」を作り出したのかもしれません。

ロートはギターメーカーのような近代的なメーカーであると言えると思います。
メーカー独自の音を作り出す設計を定めて機械で量産しているのです。それに対して伝統的なヴァイオリン職人の世界は戦前のままです。偉い師匠が言ったことを経典のように信じて実験などそれ以外のやり方を試みれば怒られるという世界です。師匠もそのまた師匠に教わっただけでだれも実験はしていません。


板の厚みについては厚すぎず、薄すぎないということが重要です。その範囲の中で音色には違いが出るので好き嫌いの問題です。ただし古い楽器では木材のも変質しているので厚めのものでも、深みのある豊かな低音が出るかもしれません。50~100年くらい経っていればよく鳴るものもあります。そういう意味でも数字にこだわる必要はありません。
ただ木材がしっかりしている新品で厚めのものはどちらかというと難しいです。音が重くて出にくく、鳴りにくいという感じを受けることが多いですし、特にホールでの遠鳴りは厳しいと思います。

ロートのヴァイオリンなら板が薄く作られていてよく鳴る感じがします。これに対して「安い楽器は安易に板を薄く作ってあるので、初めは鳴るけどもそのうち鳴らなくなる」、「板が厚くて鳴りにくい楽器こそが本物だ」というウンチクも聞いたことがあるでしょう。
しかし1970年のロートは1995年のロートよりもさらによく鳴ります。19世紀のフランスの楽器もよく鳴ります。少なくとも生きてる間は気にする必要が無いでしょう。300年経っても薄い板の楽器は一線で活躍しています。1000年くらい生きる人は厚いものを買った方が良いかもしれません。
「安易に板を薄くする」と考える日本人はヴァイオリンの演奏を苦行にしたいのでしょう。

こちらではもっと古い量産品が多いので板が厚すぎる量産品が多いのです。ロートのように合理的な生産方法で薄めの板になっている量産品は少ないです。安い楽器のイメージが違いますね。

フランスの楽器の板の厚さ


フランスの楽器の板の厚さのはっきりした特徴は表板については、厚みが一定であること、ヴァイオリンならどこもかしこも2.5㎜程度です。
ストラディバリにも同じようなものはあると思いますが、違うようなものもありいろいろあります。
その中でフランスの職人は「2.5mmで一定」というやり方だけを選んだのでした。もしくはばらつきを平均化し規則化したとも言えるでしょう。

裏板は魂柱の来る中央のところだけ横に帯状に厚くなっていてそれ以外がごっそり薄くなっているシステムです。コントラバスの裏板が平らなものに似ています。裏が平らなコントラバスは魂柱のところだけ横に帯状に柱のような木材が張り付けられています。コントラバスはヴィオール族の楽器でヴァイオリン族ではありません。ヴィオラ・ダ・ブラッチオやヴォオラ・ダ・ガンバのような楽器の大きなものです。フランスはバロック時代でも割とヴィオール族の楽器が使われ続けた国です。イタリアではヴァイオリン族の楽器にとってかわられていました。

発想としてはおかしくはなくむしろ伝統的とすら考えられます。

ストラディバリやアマティもいわゆるグラデーション理論のようなことはありませんが、真ん中だけが厚いのではなくもう少しなだらかになっています。大雑把には似ていますが、フランスのほうがより厚い部分が少なくなっています。しかし2mmを下回るようなことはありません。これがオールド楽器なら2mm以下の薄い所があったりします。平均すれば同じような厚さと言えるかもしれません。

これは前回のチェロです。
見ればわかるように表板はどこも同じような厚さになっています。センターの合わせ目は修理のため木片が貼りつけてあり参考になりません。現代チェロでは駒の来る中央はずっと厚くするものです。私もこんなに薄くする度胸はありません。
裏板は説明した通り中央が厚く急に薄くなって薄い部分が広くなっています。厚い部分から薄い部分まで均等に分布するグラデーションではなく、大事なところだけ厚くしてあとはごっそり薄くするというのがフランス式です。
ガンやベルナーデルのチェロでも同様のものを見たことがあります。

一方でヴィヨームのチェロはTheストラッドのポスターに出ているものも、私が実際に見たものも板がかなり厚い物でした。このチェロはより古典的なフランスのスタイルと言えるでしょう。

言ったらフランスのシステムは極限まで無駄がない厚みと言えると思います。このシステムで私は作ったことがありますが、別にオールドイタリア式と比べても変な音にはなりませんでした。それどころか最もソリスト用の楽器として優れたものでした。

板の厚みと音の関係

板の厚みと音の関係については図で説明します。

はっきり測定したわけではありませんがイメージとして板の厚い楽器の音を赤線、薄い厚みの楽器の音を青線で示しました。
板が薄くなると低音が出やすくなる代わりに中音が減ります。厚い板のものは中音が多く低音は控えめになります。高音については厚みとの規則性がよくわかりません。
厚みの違いで音に違いを作れるのは中音と低音域です。
チェロの場合にははっきりと違いが出ます。厚い板のものはA線とD線にボリュームがありG線やC線は深々とした豊かな低音が出ません。ただし倍音として中音域の音が出るので必ずしも音自体が小さいというのではなく明るい響きの多い低音になります。

板が薄めのチェロは低い音から出始めます。チェロの音域で高い音というのは中音域です。厚い板のチェロは一番低い音は出にくく高い音のほうが得意なものになります。あくまでこれは理屈です。

このチェロでも青い線のように低い音からちゃんと出ます。裏板がぶるぶる振動するのが弾いている人に肌で感じられます。でも高い音が極端に弱いということはなく均等な感じがします。もちろん日本のようにクレモナの新作の板の厚い楽器がたくさんあれば赤い線のようなものが普通に感じられてフランスのチェロは高い方の音が弱いと感じるかもしれません。
低い音から均等に出ていると上の方は大人しく感じると思います。

この辺は好みの問題でチェロは低音楽器らしく深々とした低音の魅力が欲しいという人もいるでしょうし、ソロ演奏のクライマックスは高い音なので高い音が重要という人もいるかもしれません。
個人的にはバッハの無伴奏なら低音が深く豊かである方が良いと思いますけども。

薄い板のチェロでは高い方の音がおとなしくなるだけでなく音色自体も明るいものではなく落ち着いた味のあるものです。
私は工場で作られたチェロを改造することをたくさんやって来たのでこのあたりの規則性については経験があります。薄くすると低音のボリュームは増しますが高い方は控えめになります。

そんなことを予想していましたが、チェロ奏者の同僚に弾いてもらうと青い図のように均等に低い音から出ているように思います。クレモナの新作が主流の世界なら珍しい暗い音でしょうね。
音色は深みと味があり暖かみがあります。
意外だったのは高音も決して大人しくはなく伸びやかさや音量もあります。それでいて嫌な金属的な音はしません。低音ももやっとしたゆるい音ではなく、はっきりと抜けの良いダイレクトな音です。

その意味ではとても優秀なチェロです。
上手い人に弾いてもらいたいものです。

新作のチェロで薄く作るとはっきりと高い音の弱さが出たり、低音がもやっとした音になるかもしれません。このような相反する要素は古さによって両立するというのはあると思います。優等生的なものでも実は希少なものなのです。

100年も経っている楽器では癖が強いものが多いです。古いからと言って手放しで称賛できるわけではありません。しかしこのチェロは素直で癖が無いです。優等生ですが、よくある新しいチェロとは全く音色が違うものです。


実はこのチェロは所有者が亡くなって遺品をもらったのだそうです。100万円を超えるような修理が必要ですからお金がかかりますのでタダというわけにはいきません。ラベルにはロッカと書かれていますがラベルが偽物であることは分かっていたようですが、フランスの上等なチェロであることが分かっていたのか不明です。一般の人は見てもわかるわけがないからです。
もし作者の名前が分かれば1000万円になる可能性は十分あると思います。あげちゃった遺族も価値が分かっていなかったのでしょうね。私が「これは良いチェロ」だと教えても持ち主は「これは良いチェロだ」と言います。その思っているよりも良いチェロだと私は言いたいです。

横板がオリジナルではないので値段も下がるでしょうしコレクター向きではないかもしれませんが実用上は問題なく舞台で横板が不自然だとは気づかないように私が仕事をしました。
音大生やプロのオーケストラ奏者、チェロ教師など皆が血眼になって探しているものです。そんなものがある所にはあるんです。それがヨーロッパです。

鑑定に出せば鑑定書を発行してもらうには下手すれば車が買えるくらいかかるので簡単に払える金額じゃないです。鑑定もせずに「良いチェロ」だと信じて使い続けることでしょう。
実際はその思っているよりも良いチェロです。

加工精度について

あと質問があったのは加工精度についてです。フランスの職人の腕が良いことはもちろん加工精度にも表れています。それに対して日本人の職人も加工精度が高いのではないかという意見です。日本人も腕の良さはバラバラで加工精度が高い人は限られています。しかし、伝統的に職人の世界で腕が良い職人が師匠に認められていくという慣習があります。外国の研究者がアジアの美術品について言うには、基本的には似たものを作っていますが日本人の作るものは完成度が高いと言います。日本では精密に作られたものが高く評価されてきたのです。
まともな神経の人は自分に精密なものを作る才能が無いと分かれば職人を辞めて他の仕事をするようになります。しかし中には神経が図太くて自分は天才だと思い込んでいる人がいます。またそんな人に限って商売のうまい人もいます。心当たりのある人もいるでしょう。

そう考えると意外と必ずしも日本人がそうだとは言えません。私もたくさん知り合いがいます。一方ヨーロッパでも腕の良い職人はいますし、宝飾品などの工芸品では驚くほど細かい仕事で作られたものがあり、「日本人は器用だ」という考えには疑問があります。ヨーロッパに行くことがあったら王族や教会の宝物などを見てみると良いでしょう。お箸を使えるから器用だとも言いますが、日本人がフォークやナイフを使えば不器用です。西洋の人たちのほうがずっと器用に使います。ただ慣れているだけです。

しかし木工に関しては日本には歴史があり、刃物を極限まで研ぐ文化は他に類を見ないものです。ヨーロッパは意外と木材は少なく石やレンガで家を作っています。
木造の住宅はアメリカのほうが多いです。アメリカは木造大国です。

刃物の切れ味に異常なまでにこだわり正確に木材を加工するということには日本人は異常なこだわりを持っています。

ただし腕が良くて加工精度が高ければ日本人もフランス人と同じものが作れるのかというとそうではないと思います。
日本人が仏像を完璧に仕上げてもギリシャ彫刻のようにはなりません。フランスの新古典主義ではギリシャ彫刻を研究してさらに完璧にするものでした。ギリシア彫刻を知らない日本人がいくら正確に加工してもフランスの彫刻のようにはなりません。

余談ですが仏像も元はガンダーラにいたギリシャ人が作ったと聞いたことがあります。奈良の国立博物館にはギリシア彫刻のような仏像があります。それが日本に伝わるまでの間にいわゆる仏像になったのです。それを腕の良い仏師が完璧に仕上げると見事な仏像です。仏像には仏像の伝統的なスタイルがあります。同じ職人が実在する高僧などを彫ったら生き写しであるかのようなリアルな姿で彫られているものがあります。しかし同じ人が彫っても仏像になると伝統にしたがった形になります。別の種目の競技のようなものです。
これは言ってきたように代々職人が世代を重ねていく中には、才能のある人や無い人が混ざっています。お坊さんのような人も作って来たでしょう。
皆が生きている人間のようにリアルに彫像を作れる人ばかりではありません。そうするとマスコットキャラクターのような決まった形ができて、それをうまく作れるか作れないかです。キャラクターの人形でもクオリティーが高いものと低いものがあります。

このように加工精度が高くても何に対して正確に加工するかということが重要になります。フランスのモダン楽器を理解していない人が正確に加工してもフランスの楽器のようにはなりません。イタリアのオールド楽器を理解していない人が正確に加工してもオールド楽器のようにはなりません。


ではどうしたらいいのでしょうか?
フランスのモダン楽器やイタリアのオールド楽器をよく研究して正確に作ったらどうでしょうか?

それが私のやっていることです。



もう一つ加工精度にこだわる問題は冒頭のチェンニーノ・チェンニーニの話になります。0.1mmまで正確に加工することにこだわってもその数値は誰が決めたのかという話になります。師匠の師匠のそのまた師匠…となると中には一人くらい変な人もいるかもしれません。むしろ知ったかぶりして偉そうに説教する「ウンチクを言うタイプ」の人は必ずいるものです。自分で失敗を重ねて感覚をつかまないといけません。
定規で測れる部分だけしか数字は出ません。弦楽器はほとんどが曲線や曲面でできているため測れない部分が多いのです。測れるところだけ正確に作ってそれ以外はどうでも良いというのが加工精度にこだわる人の作っているものです。自分では見落としているところがあるのに気づかないのです。これも現代の職人、とりわけ日本人の職人の特徴でしょう。

うちで教えている見習の職人はちょうど今、課題でヴァイオリンを作らないといけません。時間が決まっていて早く作らないといけないのです。それが実務的な教育です。
それだとただ急いでヴァイオリンを作るだけです。お手本としてリュポーの写真を見せていますが、とてもじゃないけどそんな美しい物は作れません。

実は大雑把に雑に作っても美しく見えるということがあります。
なぜかというと古代ギリシャ以来ヨーロッパの美意識というのは形のバランスによって美しさが生まれるからです。ギリシア神殿が計算され尽くしているというのは聞いたことがあると思います。またイタリアルネサンスのミケランジェロは「定規は手に持つな、目に持て」と言っています。定規で測るのではなく目の感覚で美しいと感じるバランスを作り出すのです。そうすれば仕上げが完璧でなくても美しく見えるのです。
時間が限られていて美しいものを作ろうとすれば細かいところは完璧ではないけどもバランスが取れているものです。これは実は一番難しく才能がいるものです。

私はこの課題自体が間違っていると思います。
90%の精度で作って美しいものができるのはストラディバリくらいです。
感覚だけで作って完璧ではないのに美しいというのがストラディバリです。
そんなの見習いにできるわけがありません、私にも無理です。

上手い画家や漫画家がラフに描いた絵を見たときにすごいと思うでしょう。むしろそっちの方が才能がいるのです。

まだお手本に近づけるように丁寧に作ったほうが見栄えのするものができる可能性があります。

またストラディバリの「完ぺきではないけど美しい」というものを手直しして完璧にするのはとても難しいです。これはフランスの人たちが目指したものです。完璧さを求めるほど些細な欠点や矛盾点があらわになってきます。定規で測れない所は人間の目の感覚できれいに見えるようにしないといけません。ずっと見てると訳が分からなくなってきます。ほんのわずかな違いが見えるかという話です。

だからフランスの一流の楽器製作は人間の限界だと考えています。現代の優秀な職人がヴァイオリン製作コンクールを目指して完璧な楽器を作ろうとしても同じ限界に達します。それ以上の完璧なものは作れないというレベルに到達していると思います。抜きんでた天才がいるというよりは十分な才能を持った人が訓練するといつしか限界に達するということです。そのような人がフランスにはたくさんいたということです。現在のヴァイオリン製作コンクールでも上位の20%くらいの人はみなそうです。だから1位を決めることがバカげているのです。

有名になるのはその中のごく一部でしかありません。
それはあくまで外観の完璧さであり、見た目の完成度がずっと低くても音が良い楽器はいくらでもあります。
だから天才とか世界一とかそんなものはヴァイオリンの良し悪しに関してはファンタジーなのです。私はいつもどこの誰が作ったものの中に音が良いもの、あなたにとって運命の楽器があるかはわからないと言っています。ウンチクで作者の評価を語ることは現実の世界とはかけ離れたファンタジーを語る事です。