ラーセンの新チェロ弦、アンティーク塗装と地理学など | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

こんにちはガリッポです。

ラーセンから新しいチェロの弦が出ました。

イル・カノーネのチェロです。
感想などは今後テストして紹介していきます。
詳しくはラーセンの公式サイトを見て下さい。
https://larsenstrings.com/
今回の製品で特長的なのは『Direct & Focused』 と『Warm & Broad』という二つのバリエーションがあることです。

この前から音の好みの変化の話をしていますが、ラーセンも分析をして異なる音のものを発売するに至ったのでしょう。

まだ試していませんが、英語としてはdirectは直接、focusedは焦点が合っているという意味になります。
warmは暖かい、broadは幅が広いという意味になります。

『Warm & Broad』は古典的なヨーロッパの人が好むタイプの音でローカルなもの、『Direct & Focused』は(ヨーロッパ以外の)世界的な音の好みということでしょう。
もちろん個人や楽器によって相性がありますし、世界の共通文化としてクラシック音楽があって交流も盛んなので必ずしも国によって決まっているわけではありません。

このような事があるので楽器の音の良さを評価することはできません。世界的に評価が高い楽器がヨーロッパで好まれないということはあり得るのです。実際には評価などはいい加減で客観的に行っている機関などはありません。


またラーセンで働いている人が好きな音と売れる音が違うということもあるでしょう。

ネーミングにも気を使っているようです。異なる銘柄の弦として販売することもできます。ピラストロなどは音の傾向を弦の銘柄で分けています。トマスティクは同じ銘柄の弦でもヨーロッパと海外(ヨーロッパ大陸外)で音を変えているそうです。もしドミナントが良いというのなら日本仕様のドミナントということになります。

イル・カノーネのヴァイオリン弦では通常の物(以下「無印」)とソロイストがあります。
他社やそれ以前の製品ではソフト、ミディアム、ハードのようになっているものが多いです。このようなネーミングにするとたいていはみなミディアムを選びます。変わったものを選ぶのは抵抗感があるからです。

これに対してイル・カノーネの無印はソフト、ソロイストはハードに相当するものです。ミディアムが無いのです。
こうなるとほとんどの人はソロイストを選びます。ソロイストのほうが優れた製品のように思えるからです。ラーセンとしては弱い張力の弦を作ってきた歴史もあるのでノーマルのほうがラーセンらしいようにも思います。市場は強い音、強い音を求めているので自分たちが好きな弦だけを売っていたらビジネスになりません。

これに対して今回は本当に自分の好みで選べるように製品の優劣を感じないようなネーミングに気を使っているように思います。

昔はスチールのチェロ弦はひどい金属的な音で、柔らかい音になれば「改良」と考えることができました。今ではそれが当たり前になったので迷走しています。

チェロによってはひどく耳障りなものがあり、「ラーセンを張るしかない」というチェロも結構あります。誰にとっても良い弦というのは無くなってきて、楽器や好みによって選ばなくてはいけない時代になってきたと思います。それだけ製品が豊富になってきたわけですが、選ぶのは難しくなってきました。
願わくば安い値段で作ってほしい所ですが、値段はどんどん高くなってきています。ラーセンは張ってすぐに柔らかい音が出るようなプロ向けの設計なので寿命も短く設計されています。
昔のスチール弦は初めは金属的な音がひどくて、弾き込んでいくと柔らかくなっていくものでした。
今でもタングステンが巻いてある弦は、弾き込みが必要だと言われています。

前の製品のマグナコアは、それまでラーセンのA,Dとトマスティク・スピルコアG,Cをセットに使うのが大流行したためにスピルコアに変わる製品として作られたように思います。いわば「高級スピルコア」というわけです。
そのため昔のスチール弦のような雰囲気をあえて加えたのかもしれません。
一方ピラストロの方はエヴァピラッチゴールドやパーペチュアルで最新の音に進んでいます。

今回のものはどうなのでしょう?楽しみです。




以前紹介した赤いヴァイオリンです。これは見習の職人が作ったものに私がニスを塗ったもので、作っている最中に買う人が決まったものでした。その人のリクエストでニスは赤い色にしてほしいという事でした。

以前ミッテンバルトのモダンヴァイオリンを購入されて、それが赤味のあるニスで赤いニスが良いとおっしゃられていたのです。モダンのミッテンバルトはフランスの楽器製作の影響が強いので赤いニスのものが作られました。ただもう古いものでもあるので真っ赤というよりは紫がかった茶色です。
そのような色は新作ではあまり良い印象がありません。きれいな赤い色を出せなくて失敗したものという感じがします。
新品は木材が白いので角になっている部分のニスを研磨したり、使っているうちニスが剥げて白さが顔を出して来るのです。白いエッジと紫っぽい色のコントラストが私は好きではありません。

本格的なアンティーク塗装でフランスの19世紀の楽器のようにやるなら良いのですが、新品として作るとかなり厳しいでしょう。今回は価格の面でも凝ったものはできません。

このため私は新品として綺麗な赤い色のニスを目指しました。ただ多少はアンティーク塗装の視覚効果を入れてニスが剥げている部分を作ったり多少汚れを陰のように入れたりしました。真っ赤っかの新品ではスプレーで人工染料を塗ったようにも見えてしまうからです。

先日依頼主が引き取りに来ました。結果は大満足で、「こんなに美しい赤いヴァイオリンは見た事が無い」とイメージ以上のものだったようです。

私はホッとしました。
色は光の波長によって決まる光学的な現象です。しかしその人が頭の中にイメージする色は脳によって生み出されるものです。他人の意識を覗くことはできませんから知ることができません。言葉にして赤と言ってもいろいろな赤があります。
この方は女性でしたが、女性のほうが色彩感覚に優れていると言われます。男性の私のイメージする色で良いのかと心配になる所です。結果は杞憂に終わったようです。




またオールド楽器のようなアンティーク塗装に比べてモダン楽器のアンティーク塗装は手間がかかるということが分かりました。
ニスが残っている部分が多いため、まずニスを7割くらいの面積で新作のように塗って、さらに古く見せるための汚れを付けなくてはいけません。

一方オールド楽器の場合にはオリジナルのニスがほとんど残っていないので古く見せることがほとんどの仕事になります。

つまりモダン楽器のアンティーク塗装をする場合には新作楽器のようなニスの塗り方をしたうえで、オールド風のアンティーク塗装をしなくてはいけないのです。両方の仕事が必要になり一番手間がかかるのです。ニスの厚みが厚くなりすぎて音響上も問題があるかもしれません。

その上オリジナルのニスが多いので、ニスの質感を似せるのがとても難しいのです。かつてフランスやドイツではニスだけを専門に作る業者があってニスに流派の特徴があるのです。
ニスをコピーするのは至難の業ですが、古くなってひび割れなども生じています。
新作楽器ならピカピカに磨かれているので同じようなニスを作ることも可能です。

これが控えている仕事です。これはフランスのチェロで紫色のニスです。横板がひどい状態だったので先輩が新しくしたのですが、ニスの作業はお前が得意だろと丸投げされたものです。
難しい仕事に真剣に取り組むと難しい仕事がやってくるものです。これはかなり難しいです。クリスマスくらいまでに何とかしないといけません。

チェロにはジュゼッペ・ロッカのラベルが貼られています。もちろん偽造ラベルです。しかしチェロ自体はとても美しいもので一人前のフランスの職人のものでしょう。職人が見れば仕事のクオリティですぐにわかります。
今では一流のフランスの職人のものなら1000万円以上するのですが、ラベルがロッカになっているせいで作者不明で値段はずっと下がってしまいます。それでも500万円はするでしょう。

商人というのは愚かなもので、この作者のラベルが残っていれば1000万円になったのにロッカのラベルを貼ったせいで500万円になってしまうのです。
商人はこれをロッカとして5000万円以上で売るでしょうけども・・・。作った人にとっても買った人にとっても不幸なことです。

我々職人はまず楽器を見て、それが見事に作られていれば、そこについている作者の名前を見て、この人は腕の良い職人なんだと思います。
一般の人は名前を見て、値段がいくらの作者と調べて、値段が高い作者が作ったものだからこの楽器は良いものだと考えるのです。順番が全く逆です。

それで楽器が売れるから商人はそのような楽器を用意するのです。ラベルさえ貼ってしまえば良いと考えるのです。



作っているピエトロ・グァルネリ型のヴァイオリンはあまり変わっていないようですが、エッジを摩耗したように丸くしました。エッジは意外と難しくて色の加減も難しいのです。
天気もいい日が無くてカメラで撮影するもの難儀します。

エッジの部分は使用してるとニスが剥げてしまうのでオリジナルのニスは残っていません。それどころか木材まで削れてしまっています。
ニスが塗ってあるとすれば修理人が塗ったものです。だから正解というのはありません。

私は見た目の印象にエッジの色合いの効果が大きいと思います。天気の悪い日が多かったのでできたと思っていたところに晴れ間が出てくると、異常に黄色が強いことに気づきました。何週間もニスを塗る仕事ばかりやっていると黄色に敏感になるので普段なら気にならないかもしれません。しかしどうしても嫌だったので塗ったのをはがしてやり直しました。この写真は塗り直す前です。傍から見れば何日も何をやっているのかという所です。
もちろんカメラに写るレベルの違いではありません。どこがおかしいのかと思うでしょう。天気が悪くてその後は写真が撮れていません。

でも新しく調合しなおしたニスはばっちりで塗り直しは半日で終わりました。

スクロールも角が丸くなって良い感じになってきました。今回はアンティーク塗装ではありますが、本当の古い楽器のように摩耗させるのではなく、ただ角を丸くしただけです。古い楽器だとだますつもりはなくアンティーク塗装で21世紀に作られた楽器だということで逃げも隠れもしません。

やってて思うのは地理学に似ているなということです。高校でも地理を学べば、扇状地だの三角州だの河岸段丘だの地形について習いました。
今の地形がそのようにできた仕組みを原理として学ぶのです。

同じように楽器が古くなることで起きる現象をひとつひとつ理解して再現していきます。そんなことを解説しても面白いかもしれません。前回はニスがはげ落ちたヴァイオリンの例を見ました。

私は原理原則が頭の中に入っているので古い楽器を見たときに無秩序なものとして見えるのではなく成り立ちとして理解しています。
このため実際にはほとんど違いが無いように見える事でもわずかな違いも見えるというわけです。

ただし、模式的になってしまう危険があります。地理の教科書や資料には地形の成り立ちが分かりやすいように模式図で描かれています。NHKならCGの動画で製作するでしょう。
また典型的な地形のある場所が地形の名所として知られています。一般の人には何でもないところでも、地形に詳しい人は名所に感動するのです。前回のヴァイオリンなどは地層が露出した崖のようなものです。

しかし実際には名所に限らずどの地域でも何万年、何千年と変化して地形が出来上がっています。いろいろな要素が重なり合い、教科書に出てくるような典型的な原理は分かりにくくなっています。
実際のオールド楽器でも同様でその方がリアルです。

わざとらしいアンティーク塗装になるのはこのためです。地理の入試問題では架空の地形図が作られて出題されることがあります。地形の名所がずらりと揃った架空の地図が作られるのです。さらに産業や集落なども加えられます。

アンティーク塗装もすべてのテクニックを詰め込むとわざとらしくなります。アンティーク塗装の楽器を見てこうやって楽しめる人はわずかでしょう。

見習の後輩に私のようなアンティーク塗装ができる人がほかにいるのかと聞かれました。私は人に教わったのではなく、自分の目で古い楽器から学んだものです。したがって手法として同じものは無いでしょう。いろいろなアンティーク塗装の楽器を見ても私のものと同じような物は見た事がありません。何メートルか離れていても私の楽器だとすぐにわかります。
同じ楽器を見ても見習の職人には私のアンティーク塗装がどうやってできているのか何が何だか分からないでしょう。

私は原理原則が頭の中に入っていて、それを再現するテクニックを考えて、なおかつわざとらしくならないように、実際の楽器を観察するのです。
テクニックを見せびらかせるアンティーク塗装はよくあります。私にはすぐに人工的にやったものだとわかってしまいます。
量産品の場合にはそれ以前の問題です。

写実的な絵画を楽器に描いているとも言えますが、筆で描いているのではなく、現象を再現する必要があります。それでやりきれないものは筆で微調整が必要です。その両方が必要です。


まだ完成していないのにこの楽器を買う気満々の人がいます。新型コロナで仕事がなくなったから作ってきた楽器です。
すぐに取り返すことができそうです。コロナでなくても作るべきです。

お金を儲けるために最善の方法ではないですが、本当に心から良いものを作ろうとすれば欲しいという人も現れるものです。
職人の独りよがりで「俺は良いものを作っているのに世の中が悪い」と言っている先人も見てきました。そうでもなさそうです。