ウィーンの名工とモダンヴァイオリンの歴史 | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

こんにちはガリッポです。

私もヴァイオリン職人を志す前に興味があっていろいろ勉強して世間と同じくらいの知識を持っていましたが、修行を始めてプロの教育を受け数年勉強すればプロの次元で知識を身に付けることになります。
しかし、一般の人が到達することの難しいプロのレベルの知識でも怪しいことがたくさんあります。言葉で言われていたことと実際の楽器で一致しないことが多いのです。
理屈を知っていればプロとして大きな顔ができますが、自分を裏切るわけにはいきません。それを研究していくのが私のライフワークでもありブログの目的です。
このため教科書ではなくて「ノート」というタイトルにしているのです。

このブログでは日ごろの出来事を紹介して、皆さんもセールスマンの宣伝文句ではなく、職人の実務経験のレベルで知識を得ることができればと思います。弦楽器というのがどういう物なのかということが自然と身についてくるはずです。


今回はこの前紹介した長年手入れを全くしていないヴァイオリンの続報です。


長年手入れされていなくてニスがはげ落ちています。
楽器と残っているニスを保護するためにコーティングを施しました。


光とカメラの関係で色味は変わって写っていますがニスが剥げた部分に薄い茶色のニスを塗ったため黄金色になっています。色はほとんど無色に近いもので、木材自体が新品の白木とは色が違うので光の反射量が違って暗く見えるのです。同じニスを無着色の新品の楽器に塗ったら色はほとんどつかないレベルです。
ストラディバリでもこれに近いくらいオリジナルのニスが残っているものがあります。もっと下地は黒ずんでいます。さらに100年くらい古いことと着色してあったことが原因でしょう。

ラベルにはマーティン・シュトッスと書いてありますが、手書きの文字がとてもきれいです。現代の人にはこんなカリグラフィーの技量はありません。
印刷特有の「ドット」もありませんし、ラベルは良い感じです。
作者のマーティン・シュトッス(1778~1838年)について調べてみると、ドイツのフュッセンの出身でウィーンに移住して宮廷の楽器製作者になった人です。ハプスブルグ家のお抱えの職人とすればすごいことですね。
当時オーストリアは音楽の都として栄えていたことは皆さんもご存知でしょう。クレモナを含むミラノも配下に抑えていてストラディバリなどの名器もウィーンにあったはずです。

マーティン・シュトッスやフランツ・ガイゼンホフはウィーンでも特に有名な職人です。どちらもフュッセンの出身でもともとはシュタイナー的なオールド楽器を作っていたはずです。フュッセンやミッテンバルト、ザルツブルクやウィーンは職人の行き来がありひとまとめで「南ドイツの流派」と呼ばれることがあります。南ドイツのオールド楽器には独特の特徴があって見ればすぐにわかるからです。しかし専門家も少なく厳密にどこの誰の作品なのかはわからないことが多いです。そこで大雑把に南ドイツのオールドヴァイオリンなどと呼ばれるのです。

ガイゼンホフ(1753~1821年)のほうが年長でシュトッスもその流派の一人ということになります。他にはヨハン・バプティスト・シュヴァイツァー(Ca.1790~1865年)もいました。

ガイゼンホフの特徴は、1800年頃からストラディバリのコピーを作ったということにあります。私も修理をしたことがありますが、見事にストラディバリを真似た楽器を作っています。他のドイツ語圏のオールド楽器とは全く違う形のものです。
一方でニスは以前からの赤茶色の土のようなものでウィーンの独特のものです。
板の厚みについてもドイツのオールド楽器のスタイルになっています。

面白いのはドイツのオールド楽器とクレモナのストラディバリの作風が混ざっているところです。
シュヴァイツァーはウィーンからハンガリーに移住しますが、ガイゼンホフほど忠実なストラディバリの形ではなくオールドのドイツの楽器の雰囲気が残っているのが面白いです。

同じころドイツのシュツットガルト出身のフランス人ニコラ・リュポーがフランスに移ってストラディバリをモデルにした「モダンヴァイオリン」を確立します。

このようにモダン楽器が生み出されて行った途中のものが私には興味深いです。クレモナのチェルーティーなども同時にモダン化の動きはあります。しかしストラディバリをお手本にした現代の楽器の祖先としてのモダンヴァイオリンはフランスのものです。

もっと古くはドイツでブッフシュテッターという人が1750年頃にはストラディバリのコピーを作っています。たまたまそこにあったストラディバリが1690年代のロングパターンと呼ばれる細長いものだったため、ブッフシュテッターも細長いものを作っています。

ドイツのほうが先だったのかもしれませんがその後フランスからモダン楽器の製法が伝わって現代にも通じる楽器が作られるようになりました。イタリアやドイツでも当時最新だったフランスの楽器をまねしたのでした。

私はオールド楽器とモダン楽器は全く違うもので、見ると一瞬で分かると言っていますが、この途中の時代のものがあってグレーゾーンの楽器もあるのです。

シュトッスについて調べてみると、やはりストラディバリのモデルでとてもきれいに作られています。本にはウィーンで最高の職人だと書いてあります。ただし、ガイゼンホフについてもウィーンで最高の職人だと書いてあります。

それに比べるとこの楽器は特にf字孔がストラディバリの形とは違います。オリジナルの物はとてもきれいでどの年のものでもほとんど同じ形をしています。これはちょっと違う形なのでニセモノかなと思うのです。ただ上下の丸の周辺だけを見るとそんなに違っていなくて後の時代の人がf字孔を広げた可能性があります。楽器全体の雰囲気がドイツのオールドとストラディバリモデルのモダン楽器の中間的なもので全く違うとも言えないのです。
ニスについての記述は初めは木材を強く着色して、濃い赤茶色のニスだったのが、途中から明るい色の下地に明るい色のニスに変わったと書いてありました。それについては当てはまっています。シュヴァイツァーも修理しましたが同じような木の地肌の色でした。

スクロールはドイツのオールドとは違い近代的なものです。正面から見た感じもオリジナルと似ています。

板の厚みを測るとオールドのドイツ的なシステムになっています。ガイゼンホフやシュヴァイツァーと同様です。

このようなことはよくある不思議なことで、本に出ている楽器はとてもきれいな物ばかりで、現実に流通している楽器はそれより質が落ちることが多いのです。
そうなると弟子や息子が作ったとかそういう推測がされるのですが、この作者の場合シュトッス家が楽器職人の一族で一緒に働いていた親戚もいたようです。ただし、年代が若くなるほど近代的な楽器に変わっていくので作風はもっとモダン色が強くなっていくはずなのです。
f字孔を後の時代の人がいじったとすれば本物であることはあり得ないことは無いとは思います。持ち主の人も興味があったようですがそれ以上のことは私にはわかりません。

いずれにしてもドイツのオールドのスタイルで修行した人が、モダンに移行する途中の楽器のように思います。年代的にも1800年代の初めくらいの古さです。

少なくともドイツの大量生産品でこのようなニスの剥げ方をするものはありません。ラッカーの丈夫なニスが塗られているからです。

気になる音は?


今回もう一つ別のヴァイオリンを弾き比べてみました。

これはジュゼッペ・ペドラッツィーニの1950年ミラノ製のものです。
この楽器については今後詳しく紹介しましょう。
600や700万円は当たり前のものです。

これも不思議なもので本に出ているものより品質が落ちるものです。しかし、チャールズ・ビアの鑑定書があり、これが本物なんだと思うしかありません。
作られたのが戦後で晩年であることも考えられます。
本によると多くの従業員を抱えて数多くの楽器を作ってイギリスに輸出していたとあります。それが答えかもしれません。

形はアントニアッジやビジャッキにもあるアマティ型ですが、寸法はとても大きくアマティをイメージして作った独自のモデルでしょう。フランスのガルネリモデルなどもモダン楽器のサイズに作られたものでオリジナルの形とは違うものです。

アーチはとても平凡なもので特に特徴はありません。板の厚みは以前紹介した戦後のマルクノイキルヒェンのオスカー・ギュッターの楽器と同じように真ん中が厚く外側にしたがって薄くなる「グラデーション理論」で作られています。しかしマルクノイキルヒェンのマイスターの楽器とは違い仕事が雑で厚みが厳密に理論通りになっていません。
中央はかなり厚めで急に薄くなっているところもありますが全体的に厚めです。
戦前のアントニアッジとは違います。

戦後になると板の厚い楽器が多くなってくるのでしょうか。
このような不正確なグラデーションはマルクノイキルヒェンの安い楽器に見られます。つまりストラディバリのラベルが付いたような大量生産品です。

弾いてみるととても鋭い音がします。オスカー・ギュッターでも1950年頃の楽器なのでとても音が強かったです。強い音がするのは同じですが、特に音が鋭いです。ギャアアアッと押しつぶしたような音で耳が痛くなります。

音は好みなのでこのような音が良いと思う人は選んでも良いでしょう。このような鳴り方はマルクノイキルヒェンの量産品にもよくあります。

板が厚いと明るい音になるというのが私の理屈ですが、ギャアアッという音以外には音が出て来ないので明るい響きもありません。一定以上の品質の楽器でしか言えないのかもしれません。私はよく良い楽器の音を幽体離脱に例えます。音がヴァイオリンの胴体から抜け出て空間に広がっていく様子を例えています。この楽器は音が胴体にへばりついて全く出てきません。
しかしギャアアッという音はとても強いです。そのため、イタリアの巨匠と信じている人は「さすが力強い音がする」と高く評価するかもしれません。耳元ではやかましいくらいです。

マルクノイキルヒェンでも量産品ならこのような音のものはあります。ギュッターのマイスタークオリティのものだともう少し上品な鳴り方で、現代の腕の良い職人の楽器と似ていますが古い分だけよく鳴ります。


それに対してさっきのシュトッスのラベルが付いた楽器でははるかに豊かに音が響きます。柔らかい音なのにぶわっとボリューム感があります。高い音も柔らかくて高音はとても美しいです。オールド楽器っぽい音がします。

この前はグランチーノがありましたが、あれもミラノの楽器でした。音はとても柔らかいものでした。どちらの楽器の音が近いかと言えば当然ペドラッツィーニよりもシュトッスラベルのヴァイオリンです。

手入れはひどかったとはいえさすがにヴァイオリン教師が選んだ楽器だけのことはあります。

シュトッスは本物なら最高で700万円近くするものです。これはドイツ系の楽器としては異例の高値です。同じ値段のイタリアのモダン楽器と比べれば楽器としての格ははるかに上でしょう。
音は個人の好みがありますが、オールド楽器の様な音ということで言えば近いものがあると思います。単に古いからというだけではなく、もともとシュタイナー型のオールド楽器を作っていた人がストラディバリの要素を取り入れて作ったものです。実際にオールド楽器を作っていた作者ですし、普通のドイツのオールド楽器よりもイタリアのオールド楽器に近いということです。そういう意味でとても面白い楽器です。

ペドラッツィーニは資産として購入されたもので鑑定書があれば金銭的な価値は間違いありません。リーマンショック以降イタリアのモダン楽器は値段がググンと上がっています。価値が下がらない資産として注目されるようになったからです。
それに対してウィーンの初期のモダン楽器は値段は全然上がっていません。資産として考えるならペドラッツィーニを買うことで正しいです。
ペドラッツィーニについていた駒も素人のような仕事で職人というよりは商人の手を渡ってきた楽器でしょうね。
これを買った人が弾くのに使うための楽器として私の作っている楽器を買いたいと言っています。あれよりは上質だとは思いますが好みがあるので弾いて試してからにしてほしいものです。

忘れられたフランスのモダン楽器



これは私が2005年に作ったニコラ・リュポーのコピーです。今から見るといろいろ気になるところがありますが、音については私の歴代の楽器の中でも特に評判の良いものです。

これは才能のある学生さんが使っています。とても音量があるのでうちの見習の新人は良い楽器だと思っているようですが、彼の腕前がすごいのであってこの楽器は彼の邪魔をしていないだけです。構造が固すぎる楽器は演奏者の邪魔をしているように思います。
それを言うと驚いた見習が「もしかして楽器と演奏者の腕前と50対50くらいじゃないの?」と聞いてきました。私は10対90くらいだと思います。

初心者は柔らかい楽器はキャパシティが大きすぎて難しいでしょう。
ペドラッツィーニならいきなり強い音が出ている気にさせてくれるでしょう。聞く方は迷惑ですが。

オリジナルのリュポーは表板は全部2.5㎜程度でグラデーションはありません。裏板は魂柱の来る上から20㎝くらいのところだけ横に帯状に厚くてそれ以外はごっそり薄くなっているものです。他のフランスの楽器でもそうです。
理屈から言えば薄い板の楽器は暗い音になるはずですが、不思議とこの楽器は私の作ったものの中では中間的なものです。アーチがフラットで抑え込まれることが無く響きが豊かで明るい響きも加わるからでしょう。同じ時期に作ったデルジェスのコピーはもっと暗い音でした。

実際のモダン楽器に比べるとこの楽器の鳴り方は穏やかで十分音量が出せる演奏者にとってはちょうど合っています。

この楽器はコレクターの人がずっと持っていて全く弾いていなかったものを、半年くらい前に若い学生が買ったものです。またさらに鳴るようになっています。

私はオールド楽器の大ファンでありますが、モダン楽器の優秀さも認めないわけにはいきません。

その見習いが新しく自分でヴァイオリンを作るのに、どのモデルで作るか悩んでいました。会社には歴代の従業員が作った型もありますが、しっくりこないものです。古い楽器に興味が無くわけわからずに作られたものが多いのです。
師匠や先輩がこれまで教えて来たのに、この問題になったら黙り込んでいます。詳しくないことになると黙って何も言わなくなるものです。自分が詳しい分野の話を始めて面目を保つのです。私でも同じです。他の人もそれぞれの視点で情報を広める活動をやってもらいたいです。

それで私が相談相手になってモダン楽器の基礎を教えているところです。改めて見るとリュポーやガン、ヴィヨームやシルベストゥルもいろいろと違いがあるものです。
ヴィヨームはストラディバリのメシアと呼ばれている1716年のものを元にモデルを作っています。完成度はオリジナル以上でずっと綺麗に手直しがされています。メシアは意外と癖があって保存状態が一番いいストラディバリですが、完成度はそんなに高くないようでもあります。私はもうちょっと若い時期のストラディバリのコピーを作ってきました。若いときのほうが綺麗だからです。アンティーク塗装にするならちょうど良いのですが、摩耗が激しくて元の形がよくわからないのも困ったところです。ストラディバリはそれをアドリブのように感覚だけで作っていたのですからとてもマネできません。それで見習いが型を起こすのは難しいのです。

昔は良い資料が無かったからそんなので型を作っていて問題のあるものが多いのです。フランスの楽器のほうが保存状態も良いし、完成度も高いのでやりやすいのではないかと薦めました。

リュポーかヴィヨームかどちらにするか悩んでいましたが、その通りに作れればどちらでも最高レベルの職人です。そこまでは求めていません。品質が落ちても元がハイレベルならまだまだ高い水準だというわけです。ミルクールの楽器もそうです。

さらに有利なのは現代の標準的な寸法はフランスのストラディバリモデルなら一致することが多いのです。現在に伝わる楽器作りの方法はフランスのストラディバリモデルが基礎になっているからです。今では自分がたちが作っているものの元がフランスのものだということも知らない職人が多いです。自分たちの師匠しか知ろうとしないからです。これは普通のことで他の職業でも江戸時代や明治時代の仕事の仕方を調べている人なんて少ないでしょう。