ヴァイオリンの手入れをしないとどうなるか? | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

こんにちはガリッポです。


こんなヴァイオリンが持ち込まれました。
以前音に不具合があって工房を訪れたのですが、裏板を見てびっくりです。
ニスがだいぶはげ落ちていて木材がむき出しになっている部分がかなりあります。
その時は急ぎの用で修理できませんでした。ニスを補修するのに時間がかかるので時間ができたら持ってくるということになって、それで持ち込まれたのです。

表もこんな状態です。

ニスが剥げているだけでなく指のあとが黒くなっています。

指板はひどく摩耗していて弦の通りに溝ができています。ナットの部分は深く溝が食い込み指板のところまで達しています。これで異音が出ないのが不思議ですが、指板が掘れているおかけで指板自体がナットの代わりになっていたのです。
となればおそらく弦長がちょっと短くなっていたはずです。

ペグはあと残りわずかになっています。

話を聞くと所有者はヴァイオリン教師というのですから驚きです。これまでヴァイオリン工房に訪れたことが無いのでしょうか?
仲間同士で楽器を売買してもともとこんな状態のものを買ったのかもしれません。

楽器自体はラベルの作者が本当かどうかは全く分かりませんがそれなりに古い楽器であることは間違いありません。大雑把に19世紀でしょうか?
オールド楽器にしては作風が近代的すぎるのです。ただフランスのモダン楽器のようなものではなくかなり自己流というか癖の強い楽器です。本格的にフランス風の作風が伝わる前か、古い楽器に見せかけてわざとそうしているか、単なる自己流なのか、詳しくは調べてみないとわかりません。

頼まれた仕事は音をちょっと調整するために駒と魂柱を新しくして、弦を張り変えて指板を削りなおし、ニスを補修するというものでした。2週間が与えられたのですが、とてもじゃないです。
夏休みに毎年メンテナンスしている人の楽器でもピカピカにしようと思えば2週間くらいかかってしまいます。ほとんどニスが残っていない部分は新しい楽器を製造するためにニスを塗るのとほとんど変わりません。

特に問題になったのはネックの下がりです。駒がとても低いものになってしまいます。3mmは低いので健康な状態とは言えないでしょう。音を何とかしたいなら駒だけを換えるのではなくネックの角度を調整しなくてはいけません。今駒を新しくして、そのあとでネックの角度を修理すればまた駒を新しくしなくてはいけません。

ネックの角度を修理するにはいろいろな方法があります。指板が薄くなっているなら指板を交換するだけでも駒を高くできます。この楽器ではチェロ以上の厚さの指板にしないと無理です。そうなるとバロックの指板です。

この楽器ではネックが外れる寸前になっていました。ボタンだけがくっついている状態で弦の力で留まっていたのでしょう。いつ衝撃が加わわって裏板の先端と一緒壊れて大惨事になっていてもおかしくない状態でした。


さっきは表板はこのような様子でした。とりあえず状態を知るために掃除をしてみました。

表板も裏板と実際には同じような状態でした。ニスが剥げていたところには汚れが積み重なっていて層ができていました。
右下の部分を見比べてみて下さい。上の写真で黒っぽくなっていたのはすべて汚れでした。

裏板も汚れが取れるとニスがはがれている部分がはっきりとしました。

横板も真っ黒な皮脂などの汚れにはっきりと厚みがあるのが分かりました。

こんなに楽器を汚くするのに何年かかるかというくらい汚れがひどかったです。

ただ意外だったのは掃除をするときれいな木の地肌が出てきました。木材の中までは汚れが浸透していないのです。
私は先人からニスは楽器を保護するために必要なものだと教わりました。しかし実際にはニスが無くなっていても木材にはダメージはありません。
もちろん完全な白木の楽器では無く下地には上に塗るニスが染み込まないように「目止め」という処理が施されているはずです。目止めが行われていれば表面のニスが無くなっても楽器を保護する機能は果たせていたことになります。

このあたりの話は、ニスについてよく言われることです。ニスは無いほうが音が良く楽器を保護し、美しい見た目にするためのもので、音の面では「必要悪」だという説です。
白木の楽器に弦を張った例を何度か知っていますが、なんかピンとこない音で特別音が良かった印象はありません。

「音が良い」の定義の問題もあって、大きな音が出ることを音が良いという人もいます。私はニスがあることで潤いと透明感が出て滑らかな美しい音になるというイメージがあります。見た目から来るイメージなのでしょうか?
実際に木材の振動に一定の影響を与えることで音色が変化することは十分に考えられます。

実際に楽器のニスを塗り替えたことが何度かあり音は変わりました。
したがって楽器の音色のキャラクターの一つの要素になっていることは間違いないでしょう。一方オールド楽器などはほとんどオリジナルニスが残っていないことが多いですが、保護のために修理のニスが塗られています。これは修理人によって違うニスが塗られていますが、オールド楽器の音の良さに重大な影響を与えるほどのものではありません。古くなって音色が変わったり音が出やすくなることに比べたらニスの影響は微々たるものだということです。

今回は時間が無いので作業性の良いニスの配合でニスが剥げた部分を塗るしかありません。十分に古い楽器なので重大な影響はないでしょう。


ネックは外れかかっていた上、角度も狂っていたのでいっそのこと外してしまいました。このほうがニスの作業がやりやすいのです。普通はニスのメンテナンスをするためにネックを外したりはしません。

ネックを入れ直すのは大きな修理です。持ち主に連絡すると1週間納期を伸ばしてくれました。それでも油断できません。何十年もの間メンテナンスする時間もまったくないほど演奏に打ち込んで楽器には全く興味が無かったのでしょうか?

この時点で3回薄い黄金色のニスを塗ったところです。これでもだいぶオールドやモダンの名器っぽくなりました。
この時修理人が全く違う色のニスを塗れば全然違う様子になります。
剥げているので残っているオリジナルのニスと同じ色で塗ってしまう人もいるでしょう。それだと新品のようになってしまい古い楽器の良さが出ません。

オールド楽器がオールド楽器のように見えるのはこのような作業を経ているからです。実際にはそれが何度も繰り返されています。オールド楽器なら19世紀の修理で塗られたニスがさらに剥げています。

これだけはっきりとニスが剥げている様子が分かることは珍しいです。普通はその前に手入れをしてしまうからです。
またアマティや若いころのストラディバリのようにニスの色と古くなった木の地肌の色が似ているとどこニスが残っていてどこが剥げているのか分かりにくくなります。

アンティーク塗装をやっていくうえでも楽器の古くなる様子を理解するとても貴重なサンプルです。

昔の人たちはこのような状態のまま楽器を弾いていたのかもしれません。それが19世紀にパリやロンドンなどで高値で取引されるようになると高級品らしく見せるために補修するようになったのかもしれません。ヴィヨームなどの名器のコピーを見れば当時はストラディバリなどもこの楽器くらいのニスの剥がれ方だったのでしょう。

この楽器では松脂や皮脂が厚く積み重なって層を作っていて木材を保護していたのです。垢でコーティングされていました。
それを良しとするかどうかはオーナーの判断です。

このようなケースは珍しいでしょうが、ヨーロッパではどこの都市にもヴァイオリン工房があります。私のところは20万人の町ですが、何軒もヴァイオリン工房があります。

日本の場合には身近にヴァイオリン職人がいないかもしれません。買って以来全く手入れをしていない人も少なくないでしょう。それでも新品の楽器を買ったのならここまでニスが剥げることは無いでしょう。
新品の楽器の場合は逆にニスの傷や剥がれが目立ちます。ここまで来るとどうでもよくなってしまうのかもしれません。

楽器が何年でメンテナンスしなくてはいけないかは人によって全く違います。一年でもひどい状態になる人もいるし10年でもピカピカの人もいます。
今回のものは表板の端やコーナーに弓をぶつけたりした損傷が無いのです。個人差があります。


このような状態の楽器はプロの職人が経営する楽器店としては売ることはできないものです。個人売買などで「現状引き渡し」で入手されたのかもしれません。
前の持ち主が物置から古い楽器が出て来て楽器工房で最低限の修理で弾けるようにしたものを購入して使い続けてきたような感じです。

これがヴァイオリン教師で曲がりなりにもヴァイオリンの演奏でお金を稼いでいる人ですから多少は楽器に投資してもらいたいものです。
これでは生徒にも楽器の扱いを教えることができません。
修理が終わって音が元気になるか楽しみです。

音楽家と我々の価値観の違いが現れます。我々には無残な姿に見えますが、それを言うと「でも、音は良い」と音楽家は言うのです。音に関しても潜在能力は発揮されていないでしょう。
特に西洋の人は自分に帰属するものに自信を持っています。自分が持っているものをすごくえこひいきします。職人と音楽家が言い争いになります。

日本人はまるで逆、自分の持っているものに自信がありません。ナイーブで職人に怒られることは嫌でしょう。お客様に説教などをしてはいけません。そんな職人の工房には行きたくないでしょう。何でも暖かく受け入れる必要があります。



これもユーザーと職人の葛藤のチェロです。これも同じような状況で古いチェロをたしか個人で譲り受けたものだったと思います。
学生さんが弾いているのですが、先生に指摘されて駒の交換をしてほしいと持ち込まれたものです。しかし、駒でできるのは楽器の表面的なことです。

職人の私が思うのは、これはフランスの19世紀終わりくらいのチェロで作者名もついています。とはいえ一流の職人のものではなくミルクールのレベルのものでしょう。しかしその中ではかなりの上級品で最低300万円はするでしょう。一流のフランスのチェロなら1000万円くらいしますから中級品のこの楽器が500万円くらいしてもおかしくないです。
私が勧めるのは表板を開けてバスバーを交換してネックを入れ直す修理です。裏板がちょっと厚いのが難点ですがそれは考えものです。

その楽器に駒交換だけで済まそうというのはもったいないです。修理に100万円くらいかかってもその値段で絶対にこんなチェロは手に入りません。むしろ学生やプロのオケ奏者が必死になって探しているクラスのチェロです。なのに当の親御さんはたまたま中古チェロをもらってお金がかからなくて助かったくらいに思っているのです。

こちらも同様に「ネック下がり」の問題がありました。指板を交換しただけではるかに高さを稼ぐことができたので今回はそれで駒を交換して終わりです。中途半端な修理ではもったいないですね。

裏板はチェロでは珍しい一枚板です。

プレスなどの安物ではなくちゃんとしたチェロです。


楽器の評価額は修理の値段を差し引いて考えなくてはいけません。修理に100万円かかるなら100万円安く買わなくてはいけません。そして修理をしてその楽器の本来の価値になるのです。
メンテナンスにかけるお金が無くなるなら無理して高い楽器を買わずに安くて音が良い楽器を求めてしっかりメンテナンスするほうが良いでしょう。

今回のヴァイオリンについては作業が続きます。期限の2週間後に続報です。