昔の高級品と今の高級品 | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

こんにちはガリッポです。

楽器作りは時間を忘れてしまいます。すぐに一週間が過ぎてしまいました。
およそ工業製品を作っていると思えないような作業です。

ピエトロ・グァルネリはとても美しい楽器を作った人でビジネスライクでは同じような物を作ることはできません。ストラディバリと同じ時代に楽器を作っていましたが、ストラディバリの影響はなくアマティの弟子の父親アンドレアが基礎となっているでしょう。アンドレアは仕事は綺麗ではなくグァルネリ家らしいものですが、ピエトロだけは完成度の高いものを作っていました。

現代の工業製品とは全く発想が違います。
そのため何年経っても価値が落ちません。これも現代の発想と違うからこそです。


弦楽器を作るのがほかの職人の作るものと違って面白いのは、手の込んだ高価な品を飾っておく、箱に入れて大事にしまっておくものではないことです。道具として使用できること、それも音楽という芸術を生み出すための道具という所にあると思います。

逆に言えば高級品はそれを使用して効能が優れているということではなく、品物自体に価値があり、それを持っていることに喜びを感じえるものだと言えるでしょう。もちろん道具としての機能性に優れたものもあります。全く使用しない高級品もあります。

腕時計などは高級品でなくても、時間は変わりません。高級時計を買えば一日が25時間になるならぜひ欲しい所ですが、そういうわけにもいきません。時間を知るという機能なら電波時計のほうが優れています。
そこで高級時計の価値を信じている人とそうでない人の論争が起きます。

高価な時計をしていると立派な人物だと認められるとか、自分が立派な人物になったと自信を持てるという言い方がされます。またそれに対して、値段やブランドが大事で品物の良し悪しが分かっていないと批判を受けます。

よく考えてみると高級品は本来の意味でそれ自体に価値があって何かに役に立つということは2次的なものだと思います。今の人たちに売るためには何か効能があるということを口説き文句にしているのでしょう。買う方も無駄遣いといううしろめたさを感じていて正当化するためにウンチクが必要です。


伝統的に高級品を売ってきた側としては、名前が有名で値段が高い・・・誰もが高級品だと知っているということが、高級品では重要でしょう。一方現代の消費者のほうは、値段が高いのだから何かが優れているはずだと思い込んでいます。これがギャップになっていて、トラブルの原因になります。

高級品は熟練した職人が作っているので品質が良く、丈夫だというイメージがあるかもしれません。もちろん粗悪品に比べればそうでしょう。しかし、扱いはデリケートで手入れや保管方法を間違えればダメになってしまうようなものも高級品の特徴です。工事現場で使用するような道具のほうが丈夫なのです。ダンプトラックは丈夫で強力なエンジン出力、大きく値段も高価ですが、高級車とはみなされないでしょう。
私は小さいころダンプカーが好きでおもちゃで遊んだものです。高級車などは興味がありませんでした。高級車が分かるのはもうちょっと大きくなってからでしょう。
プロのコントラバス奏者でもなんでコントラバスを弾いているか聞けば、子供の頃デカくてカッコイイと思ったからと言う人がいます。コントラバスの低音は大人になっても魅力的です。


私はお金持ちの家に育ったわけでもないし、両親も無駄遣いをするような派手な生活をする人ではありません。父親はエンジニアで家族はみな理系です。
高級品とは縁のない暮らしをしてきました。しかし、両親はひどく安いものは買いたがらなくて、必要なものはちゃんとしたものを買う感じでした。
実家で30年くらい前に買ったナショナル(現パナソニック)の電子レンジは今でも使えます。当時の日本製品は品質が良かったです。
学生時代には老舗の紳士服店でスーツをしつらえるように言われました。一般の学生よりは高いものを着ていたのでしょう。


中高生の頃「なんでも鑑定団」という番組が始まってとても興味を持って見ていました。BSでやってたイギリスのアンティーク鑑定の番組も好きでした。

もちろん私は高価な品物を所有することに興味があったわけではなくて、職人が作るものに興味があったわけです。お金持ちになることに興味があるならビジネスに夢中になるかもしれません。アメリカの昔の起業家などは子供のころから大人相手に商売していたなんて話もあります。

しかし現実的には自分が物を作る才能があるということも自覚していなかったので、学校の成績で入れる文系の大学に入りました。就職しなくてはいけなくなってもまったくピンと来なくて就職活動に出遅れてしまいました。それで調べていたら弦楽器を作る仕事があるということを知ってこれは面白そうだと思ったわけです。

日本の伝統工芸の職人などは、「時代に合わないから売れないだろうなあ」と感じていました。それに対して弦楽器は実用的な機能があるので、技術を開発すれば良いものができるんじゃないかと考えていました。ストラディバリという存在を知って、どうやって音が良い楽器を作ったのか興味がありました。

むしろ音の方に興味がありました。
修行を始めると、きれいに正確に加工することが求められました。それももちろん面白くて、今でも産業として考えると「きれいすぎる」物を作ってしまいます。今の工房に入ってすぐに職人の仕事というのは「博士の仕事ではない」と言われました。博士の仕事というのは研究者が論文を作るように間違いのない完璧さが求められるという意味です。

それでもどうしても完璧に仕事がしたかったから、いつしか許されて「こいつはそういうやつだ」と師匠からは扱われるようになりました。適材適所で仕事を割り振れば良いわけです。

今また新人に教育していると、そういう事を教えられたのに無視して違うことをやっていたのに気づきます。多くの人は根気が続かなくて、完璧さを求めるのをすぐにギブアップしてしまいます。

自分でも完璧主義では仕事にならないし、オールドの作者もそうでもないので、間違った考えだとは頭ではわかります。それで思いっきり雑な仕事をするとお客さんに出せないものになって失敗になってしまうのです。今でも難しい問題です。


このように腕の良い職人の作るものは品質が完璧だと特徴づけられるでしょう。しかし、一方で非常に正確に大量生産できる機械が開発されたらどうでしょう。弦楽器は難しいですが、一般的な工業製品ではあることです。機械で作ったもののほうが完璧なのです。例えば手打ちうどんなどもそうです。

そうなると今度は「手作りの味」と言い出します。

それを許すと下手な職人の作るものでも、素人が作ったものでも良いことになります。


食べ物などで、高級食材で「柔らかくておいしい」という事があります。一方で「歯ごたえがあっておいしい」というのもあります。何が理想かという決まりはないのです。


職人として生きていると、やはり高級品というのは希少性だと思うのです。




私の勤め先の初代の職人は主に戦後から1970年くらいまでヴァイオリンを作る仕事をしていました。今でも修理や、弾く人がいないからと売却のために持ち込まれることが多くあります。ものすごくたくさんの数を作っていました。

戦後の経済復興で需要が増大したのに職人が少なく供給が不足していたのでしょう。それなりに有名だったこともあって次々と注文が入ったそうです。私が就職したころにはそんなにどんどん注文が入るような状況ではありませんでしたが、それでも常に楽器を作っていました。

それがいつしかお客さんは古い楽器を求めるように変わってきました。それで新しく楽器を作るよりも修理の仕事が多くなりました。

復興期には「作れば売れる」という時代があったようです。先代の社長の80年代でもヤマハの電子オルガンなどを大量に音楽学校に納入するなど羽振りが良かったそうです。トヨタのハイエースを持っていて活躍したようです。ハイエースはその後売却したら買った値段よりも高く売れたなんて言っています。そんなこともあって日本人に絶対的な信頼があってひいきしてくれているのです。


私たちが職人を目指すころには楽器を作ればどんどん売れるような時代ではありません。どうやって楽器が売れるようになるか考えなくてはいけません。

昔は音を試すこともなく注文が入っていたのに、今は試奏して音が良い楽器を選ぶようになりました。そのため音量が得られやすい古い楽器が好まれるようになってきたのです。今売れるためには音が良くないといけません。

20年前と今でも変わっています。うちの工房も老舗のネームバリューで売るのは難しくなってきました。


私が日本で修行を始めたころは、「クレモナの巨匠」がもてはやされていました。買った人の話ではろくに試奏もさせてもらえず、巨匠のものだから良いに決まっているということで買ったそうです。
それが今になって音があまり好きじゃないと相談を受けました。


高級品を買うというのは「有名で高価な品物」を所有することが目的のものだったようです。憧れの名品を手に入れるのが目的なのです。
今の消費者はそうではない考えを持っています。音の良さが評価されて値段が高くなっていると思い込んでいます。高い楽器を買ったのに音が良くないという不満が私に寄せられます。しかしそうではないのです。消費者が変化しているのに売り手が昔のままです。それを話すと「そんな昔の商売をしているのか?」と驚かれました。



うちのところでは完全に弦楽器が道具とみなされるようになってきました。お店に良い楽器は無いかと来るわけですが、いくつか用意すれば、楽器を見ることも説明も聞くこともなくさっそく弾き始めます。日本でまだ20年前の商売が続いていると聞くと時間が止まっているなと思います。

もちろん一定の割合で高級品を所有することに喜びを感じる人はいるでしょう。完全に過去のものとして無視することはできません。特に日本の高級品のビジネスではこの客層を重視した経営をせざるを得ないのでしょう。



そのように時代は変化しているわけですが、教育などは最も変化の遅いものです。我々が楽器製作を学ぶ時には何十年も前の考え方で教わります。師匠の師匠、それまた師匠くらいの時代の考え方を学ぶのです。

最初に基礎を学ぶことは悪いことではありません。しかし、それで作っても自動的に売れた時代ではなくなっています。そのため師匠や先輩の考えと対立することになるのです。



今の私たちは初めから「機械などの製品は性能が良いものほど高価」と知っています。昔の高級品とは考え方が違います。今の人は昔の高級品の考え方を知らないのです。私も技術者なのでそうでした。


よくビジネスの手法で「モノを売るな」ということが言われ聞いたことがあります。ものを売らずに何を売るのかと言えばいろいろありますが例えば「体験を売れ」などと言います。私は物を作る人間なので「モノを売るな」と言われると腑に落ちません。

それで説明を読んでみるとこれからの時代は物を所有すること自体が目的ではなく、それを使用して得られる事が重要だというのです。そのため考え方をこれまでとは変えなくてはいけないのだそうです。

「ええ?」そんなの当り前じゃないかと驚きました。
読んでみると昔はそうではなかったそうなのです。それでうちの会社でも昔はそうだったんだなと歴史を学ぶとわかります。

今なら70歳くらい以上、盛んに言われたのが10年くらい前だとすれば当時の60歳前後の経営者なら、「これまで…これから」ということでビジネスの教えになりますが、私の世代なら「これまで」を知りません。消費者のほうがさらに先を行っているでしょう。



私は初めから音の違いを作り出す技術に興味がありました。師匠に教わった方法で作った楽器の音が気にいらなかったので、研究をしてきました。

ピエトロ・グァルネリなどは現代の楽器とは見るからに違います。それくらい違うものを作らないと音にはっきりとした違いが出ないということが分かってきました。
職人というのは0.2㎜違えばものすごく大きな違いのように感じるものです。魂柱の直径は6.2㎜と比べて6.3㎜だとかなり太いなと感じます。お客さんに、「こんな太い魂柱ではダメです。交換が必要です。」と言ってしまう職人もいるのです。

でもそのような違いは音にははっきりした影響は確認できず、もっとはるかに違うものを作らないと傾向をつかむことができません。創意工夫したつもりでもあまり意味が無いことが多いのかもしれません。職人は自分のこだわりを語ります。話を聞くと音が良い楽器の作り方の秘訣を知っているように聞こえます。細かい違いにこだわっているほど精通しているという誤解があります。

私はそういう事に疑念を持つのは、もっとぜんぜん違うものを作った事があるからです。また今回も同じような違いが出るのか面白いものです。もちろん前回のピエトロ・グァルネリのコピーの音が印象的だったからです。何度でも作れれば技術として確立したことになります。


現代にユーザーに求められる高級品は、売る側、作る側の考えよりも先に行っています。私は皆さんに教えるようなことは無いです。
そうではなくて、我々が時代遅れの考え方をしていることを訴えています。お店の人は分かっていないのです。


今、高級品に求められているものは、名品を所有するというだけで終わりではありません。それなら金庫に入れておくべきです。

一方完全に道具としか考えない人にはもう少し、職人の生み出す物の価値を分かってもらいたいという思いもあります。日本人はまだ、そのような感覚を持っているようです。