アマティ派のデルジェズコピーを作ろう【第1回】コンセプトからです | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

ビオラと少し遅れて同時進行のヴァイオリンもいきましょう。
グァルネリ・デル・ジェズの複製です。

今回は目指す「狙い」、つまりコンセプトについてです。





こんにちは、ガリッポです。

今回はグァルネリ・デル・ジェズの複製を作るわけですが、製品のコンセプトを考えていきます。


デル・ジェズの魅力とは?

音の良さ・・・・

それだけですかね?


職人の目から見るとこれはとても面白いものです。
なぜかというと現代の楽器作りは、ストラディバリのモノマネをいかにうまくきれいに作るかというのが基本になっています。ヴァイオリン製作を学んだ時に先生や師匠から「これはダメだ!」とか「こうしろ!」と教わるのです。それはみなストラディバリモデルの現代のヴァイオリンの作り方であって、デル・ジェズのヴァイオリンでは当てはまらないのです。言い換えるとデル・ジェズのヴァイオリンは現代の工房や製作学校、製作コンクールでは落第点を取ってしまうのです。落第点をってしまうデル・ジェズのヴァイオリンがストラディバリとともに史上最高のヴァイオリンとして最も高い値段がついているのです。

もし現代にデルジェズがタイムスリップしてきたら「ヘタクソ」として埋没してしまうでしょう。

私はこの矛盾に対してどういう答えを出すかということがとても面白いです。


営業マンなら二枚舌を使うことはいつものことなので気にもならないでしょう。今売りたい楽器を適当なことを言って絶賛しておけばいいのです。他社のものやお客さんが使っているものには何かしらいちゃもんをつけて買い替えを促せばいいのです。

職人でもよほど頑固な人でなければ気にならないでしょう。仮に矛盾していも無意識のうちに古い高価なヴァイオリンと自分が作るヴァイオリンとは全く別の種目の競技と考えているでしょう。

私はバカ正直なところがあって同じ土俵に乗せてみてしまうのです。


よくあるパターンはこのようなものです

①現代のヴァイオリン製作のセオリーを絶対的に信じていて、デルジェズなんてものはどうしようもないヴァイオリンだと酷評する
②デルジェズは有名だから優れていると思い、型をデルジェズからそのままとるが作風は現代風
③デルジェズのモデルを現代風にモディファイして作り変える



①現代のヴァイオリン製作のセオリーを絶対的に信じていて、デルジェズなんてものはどうしようもないヴァイオリンだと酷評する
古い楽器には全く興味がなくほとんど見たことがない。自分の師匠や自分の流派のヴァイオリン製作が世界一だと信じ込んでいる。実際には自分が知らないヴァイオリンに音が良いものがいっぱいあるのに認めようとしない。はるかに安いもの、粗雑に作られたものでも音が良いものはあるのですが宗教のように頑なに自分の流派の楽器が最高だと信じているのです。そういう人を何人も知っています。

確かに、有名な師匠について修行するチャンスを得るというのは限られています。現代において有名になっているということは主流派です。また弟子として工房に入れば師匠との人間関係が何よりも大事です。職人というのは弟子が自分の考えと違う楽器を作っていたら気に入らずすねてしまうものです。そこで生きていくためには師匠以外の楽器のほうが優れているなんて言うのはダメです。そんなつまらないことで怒ったりすねたりするのか?と思うかもしれませんが上下関係の厳しい日本の社会なら職人に限らず思い当たることがあるでしょう。

その結果、デルジェズやアマティのように師匠の作り方に適合しないものはダメなものだと否定してしまうのです。


②デルジェズは有名だから優れていると思い、型をデルジェズからそのままとるがタッチはストラド風
①のような盲目的な人もいますが、ほとんどの場合は師匠に叩き込まれてしまった作り方を変えることができないのです。工房を卒業して師匠のヴァイオリンから離れたものを作ってみたいと思うかもしれません、デル・ジェズを見て「いいな。」と思ってもいざ作り始めると師匠に教わった作り方しかできないのです。

もし教えるときに「ストラディバリはこう」、「アマティはこう」、「デルジェズはこう」と教えればそれぞれみな違うんだなと理解するのですがストラディバリモデルの現代のヴァイオリンの作り方ひとつだけを「これが正しい作り方」と教えるのでアマティやデルジェズがストラディバリと違うところに気付かないのです。

もともとストラディバリのモノマネの仕方だったのが高度に洗練されるほどそれを覆すのが難しくなり、もはやストラディバリのモノマネだということも次の代に伝えられず忘れられ絶対的な唯一最高の作り方だと思い込んでしまうのです。

そうなるとストラディバリのコピーの作り方そのままでデルジェズの型のヴァイオリンを作ります。

型やf字孔がデルジェズからとったというだけで仕事のタッチは現代風でコーナーを見てもストラディバリのようなコーナーがついていたりするのです。例えば、フランス風のモダンヴァイオリンを作ったジュゼッペ・ロッカのガルネリモデルなんてまさにそれでデルジェズのモデルにストラディバリのコーナーがついています。

ストラディバリもはじめはアマティに似ていて初期、中期、後期と段々変わってきてストラディバリのコーナーができます。ガルネリ家もアマティに似たものから段々変わっていってデルジェズのコーナーになるわけです。ストラディバリとデルジェズでは当然違うわけです。

「正しい作り方」というのを一つだけしか知らないのでなんでも同じ作り方で作ってしまうのです。

「デルジェズのヴァイオリンを見ているのに?」と思うかもしれません。ただ眺めているのと同じものを作れるというのは全然違うことです。


こういう楽器はよく見ます。デルジェズは仕事が粗くかなりいびつなものです。クオリティもさほど高くないデルジェズと違う特徴を持ったヴァイオリンになります。

これをアンティーク塗装にしたものは私の目には残念なものに移ります。古い楽器に全然見えないので、もし自分がこのようなものを作ったら失敗作と考えます。


ちなみに、このようなものも立派なハンドメイドの高級品として売られています。違いが分かる人が少ないのです。ロッカなんて何千万円もしますから。



③デルジェズのモデルを現代風にモディファイして作り変える
②のようになってしまっていることを敏感な人は気付きます。そうなると今度はデルジェズの型をそのまま使うのではなく、現代の「正しいヴァイオリンの作り方」に合うように変えてしまいます。デルジェズのほうを変えて現代に合わせるのです。

忠実なコピーもあるのかもしれませんがヴィヨームのデルジェズモデルもその時代のストラドモデルの作り方に合うようにデルジェズをモディファイしています。胴体の長さや幅が大きかったりしますし、形も整えてあります。オリジナルのデルジェズとは全く違うものですが、モデルのカーブの特徴やf字孔をデルジェズ風にすることで一目見てもガルネリモデルとわかります。この場合にはモディファイというよりガルネリの特徴を持たせた独自のモデルというのでしょうかね?

以前紹介したハンス・エドラーや兄弟弟子のアンサルド・ポッジなんかも形を現代風に整えたガルネリモデルです。


私も③のような考え方をしていた時期がありました。
たまたま、9年前に作ったストラディバリモデルのビオラがメンテナンスのためにお客様がもっていらっしゃいました。イタリア人の同僚が見て「これは良いビオラだ。」と驚いていましたが、あのころは古いクレモナ派のスタイルを現代のタッチと融合させるという試みをしていた時期です。

したがって単なる現代の楽器とは違って古い楽器の特徴を持ちながらも仕上げのクオリティは現代風にしていました。どうやらそれは現代のクレモナの人たちが理想とする楽器のようで彼は絶賛していました。「クレモナの楽器よりもクレモナらしい。」と言っていました。

クレモナの理想というのは、定規を当てて決められた寸法に均一に正しく加工されているのではなく、虫眼鏡で見て精巧にできているのではなく、離れて見たときに視覚に訴えるような調和とかバランスの美しさということでしょうかね?

私はイタリアの人たちの伝統的な美意識、フランス人の美意識、ドイツ人の美意識などすべて研究していますからお見通しです。


ただ、私はもう飽きていますし、その言うクレモナの楽器がこちらでは売れていませんからその程度ではお客さんに相手にされないのです。ほとんどのお客さんは音にしか興味がないのでイタリア的な美意識で外観を作ったところでわかる人は少ないでしょう。


「クレモナで修行した人に教わったのか?」とまた聞かれましたが、「そんなことはない」と答えました。
私は現代のクレモナの楽器を見れば同じものを作れるし、フランスの19世紀のものを見ればそれと同じものが作れるのです。今夢中になっているのはもっと古い楽器です。イタリアの現代の楽器の偽物を作ろうと思えばいくらでも作れますよ。見分けがつかなくなるので私の手を離れたときにラベルを張り替えられて売られてしまうでしょう。だからこの路線はもうやめているのです。



古い時代の楽器作りは今の職人からすると異質なものです。時間軸で見れば古いものですが、常識からすると「古い時代のスタイルの楽器を作る」というのは新しい試みです。

弦楽器に限らずヨーロッパでよくある考え方は、新しい試みをすると保守的な人が反感を持ちます。それを和らげるために新しい試みと保守的な価値観を融合させるということです。

例えばピラストロが高級ナイロン弦のオブリガートを開発した時、「ガット弦から持ち替えても違和感がないもの」を目指しました。ハイテク素材を未来のものとしてアピールしたのではなく保守的な人たちの感情を逆なでしないように入念に配慮したものでした。

革新性と保守性を融合させるのはヨーロッパ的な考え方でしょう。
トヨタがハイブリッドカーのプリウスを「未来の乗り物」としてアピールしましたがこれがヨーロッパでは全く受けませんでした。わずかな新し物好きが飛びつきましたが5年前に比べて8割も販売数が減っているそうです。ヨーロッパで売るのなら伝統的な自動車と全く変わらない印象と操作感で燃費を飛躍的に改善するという方向性にするべきでした。プリウスに悪いイメージがついてしまったのでハイブリッドカー自体の普及に失敗しました。

こちらで見かけるのはプリウスよりもアメリカの電気自動車のテスラのほうがはるかに多いです。テスラは伝統的な高級車のツボを押さえた外観をしていてガソリン・ディーゼル車の既存メーカーよりも見せかけの「未来っぽさ」を強調していないように思います。テスラはとても高価で電池の性能も高いので実用的にも使える性能を持っています。本当に新しいものは新しさを強調する必要がないのです。受け入れてもらうにはその逆なのです。


私も古い楽器作りと現代の楽器作りを融合させることで自分自身もそうだし親方や先輩の感情を逆なですることなく浸透させることができました。その美しさを見ていつの間にか納得してもらいました。弟子が勝手に師匠の教えと違うものを作ることを許してもらえたのです。

今となってはそんなまどろっこしいことはせずに、容赦なく古い時代の楽器作りをやってしまいます。アンティーク塗装でなくてもそうですし、アンティーク塗装ならむしろ古い時代の雰囲気を出せるほうがポイントが高いですから。

私の師匠はいまだに考え方の違いを理解できていませんが、美しさに関しては認めてもらっています。こんな内部のことはみなさんにはどうでもいいことですが、若い職人にとっては死活問題なのです。

現代の楽器作りを叩き込まれていないお客さんのほうが素直に受け入れることができるでしょう。業界の常識がユーザーの感覚とは別のものになって信仰されているのです。


また「画期的にヴァイオリンの音を良くする方法を発見した!!」ということもよくあります。本当に音が良いのなら黙っていてただ音だけで勝負するべきです。伝統的な弦楽器とは違う方向の音というのにチャレンジするのも良いでしょう。私は画期的なものではなく400年の中で見て、まあまあのものができれば良いと思います、古くなれば音もまあまあのものになるでしょう。



先ほどの話は日本のユーザーが新作の楽器を好むのに対し、ヨーロッパのユーザーが古い楽器を好むこととも関係があるでしょう。ユーザーは古い楽器を好むのでそれと同じようなものを作ろうとしたところ私もおもしろさにはまってしまったのです。

今回のねらい

ただ教えられた作り方で何も考えずに楽器を作っていてどんどん売れるような状況ではありません。ハンドメイドのヴァイオリンは高価なためより魅力的である必要があります。

より魅力的な楽器ができるようにいろいろと考えるわけです。
今回は何を目指していきましょうか?


今回目指すのは「ただヴァイオリンを作る」ということです。

これはグァルネリ・デル・ジェズになりきって通常営業で作るというわけです。
結局ヴァイオリンづくりではいろいろ細かくああでもないこうでもないと考えても思ったような音にはならないです。だったら何も考えずにただ作りましょう。

その結果どんな音になるかはわかりませんが、試してもらって気に入った人がいたらお譲りします。結果オーライです。もし、業者に卸すのであれば「いつもの音」を期待されるかもしれません。

ポイントはデルジェズが作ったようにただ作るのであって、現代の製法でただ作るのとは全然違います。したがって現代の常識に合わせて改良するなどということはしません。



ヴァイオリンの優劣についてはかる尺度を規定するのは大変難しいものですし、そのような見方は楽器の魅力を損なってしまうと思います。例えばアマティやストラディバリが美しいとしても全体から醸し出される雰囲気であって、項目ごとに点数をつけて評価して合計点が高いということではありません。アマティやストラディバリがガタガタに歪んだものではなく滑らかな美しい曲線をしていたとしても、さらにその歪みをなくせばアマティやストラディバリよりも美しいのでしょうか?私には単なる別の雰囲気の楽器でしかありません。

皆それぞれが自分が好きなようにヴァイオリンを作った結果の姿で見ていると面白いです。
それを最も味わうことができるのが同じヴァイオリンを作ることなのです。私の特権です。

デルジェズの複製を作るのはとても楽しいです。
それはアマティの複製を作るときとは違うものです。

デルジェズも必ずしもすごく雑に作られているというわけでもないのです。晩年のものはとんでもないものがゴロゴロありますが、今回作る1730年代前半のものはデルジェズの中では丁寧に作られているほうです。普通に考えれば黄金期ということになるのかもしれません。しかし、黄金期というには平凡すぎる出来です。ヴァイオリン職人だったらまじめにやればそれくらい普通だろうというレベルです。晩年のハチャメチャなもののほうがデルジェズらしいとわかりやすいですね。現代でもこのようなコピーを作る人がよくいます。

今回は平凡な出来のデルジェズをコピーしましょう。

当然ながら私が作るデルジェズのコピーはデルジェズの個性を強調するのではなくアマティ派の基礎に基づいて作られたものです。特徴を強くアピールしすぎるとモノマネのように野暮になります。さりげなく雰囲気を出せるのが本当に上手い複製です。

そういうわけで、デルジェズのヴァイオリンが優れたものだとか劣ったものだとかは一切評価しません。ただそのまま作るだけです。


ヴァイオリンを売る人、買う人にとってはそれがどれくらい優れているのか劣っているのかが気になると思います。しかし私は楽器に優劣をつけることに意味を感じません。「そういうものだ」というだけでありのままに受け入れます。


市場で取引する場合は値段というものを付けなくてはいけません。私はこのようなことにあまり面白さを感じません。業界の慣習として知名度によって値段が決まるわけです。無名なものでは丁寧に作られたものは手間がかかっているので製造原価を考えて高めに値段を付けます。雑に作ってあるものは安くします。この世に存在している楽器では丁寧に作られているものは少なく雑に作られているものは多くあります。丁寧に作られた楽器には希少性があります。

音については「ひどくなければ何でも良い」ということが言えます。実際に弾いて試して気に入るかどうかだけの問題です。楽器の音はみな違いますが、順位を付けるのは難しいです。

また品質については丁寧に作られている楽器のほうが品質が高く故障や劣化などのトラブルが少ないということで長く使えると考えられます。雑に作られた楽器で痛んでいてもお金さえかければ修理によっては健康な状態にできます。雑に作られた楽器は値段が安いことが多いので修理する値打ちがないとみなされることもあります。同じように雑なものでも知名度が高い作者なら値段も高いので修理をする価値があるというわけです。


ハンドメイドの楽器は人間みたいなものでそれぞれに味があるものです。ヴァイオリン製作コンクールの出展作品が一堂に展示されている部屋に行くと、「みんな同じ」ということに驚きますよ、機会があったら一度行ってみてください。
もちろん個性が無くても良質な楽器には十分価値があります。没個性もその人の特徴なのです。個性があるから価値があるとは考えていません、粗悪なもののほうが個性的なことが多いです。
ただ優劣を競いう合おうとすると前回の優勝者とそっくりな楽器ばかりになってしまいおもしろくないと言っているだけです。


こんなことを言いますが私は共産主義者ではないですよ。ただの快楽主義者です。
人生を楽しむためには何が必要か考えています。
貧富の差も時としては重要な役割を担ってきたことを認めています。我々職人にとっては貧富の差はありがたいものです。昔のヨーロッパの遺産を見ていると私向きの仕事がたくさんあってなんとうらやましいことか・・・

1734年製のヴァイオリン


実際に作っていくのはデルジェズの1734年製のヴァイオリンの複製でHaddockという名前のついているものです。
http://www.sarasate.net/kakaku/gibertoni2.html

このヴァイオリンはアンドレア・グァルネリの雰囲気があったのと音響的に良さそうな感じだったので選びました。

結果オーライと言ってはいますが、音は深々として「暗い音」でいかにも新しいヴァイオリンの音とは全く違うものになるでしょう。明るい音の楽器を作る人はたくさんいますから私が作るまでもありません。

群を抜いて音が良い楽器にはならないでしょう。ただ作るだけですから。基本的にはアマティの基礎に基づいたものですから数百年後には今の1000万円を超えるような楽器と同じような音になるでしょうね。