不況になると口紅が売れる -24ページ目

不況になると口紅が売れる

~遊びゴコロで、世界を救おう!~

宇宙人が「地球にはない物質」をひとつ道に落とした。
そのとき、各国民の反応は…という小噺がある。

・フランス人=目の前にかざして、色々な角度から見つめる
・ドイツ人=耳に持っていって振ってみる
・スペイン人=拾ったら叩き潰す
・イギリス人=何日かあれこれ使った上で、投票でこれが何かを決める
・中国人=誰も見ていないのを確かめて袖の中に入れ、保存して後世に託す
・韓国人=舌で舐めてみる
・アメリカ人=コンピュータで解析する
・ロシア人=KGBに報告する

さて、日本人はどうしたでしょうか?


李御寧「縮み志向の日本人」からの抜粋である。

「同じものをつくるが、それを更に精巧で小さくしてしまう」
のだそうだ。

真似するのだけど、元ネタ以上にしてしまうのが日本流の創造作法だ。

詩人の大岡信はこれを「うつし」と呼ぶ。
日本文化史研究の藤原成一は「かさね」という言葉で説明する。
異文化コミュニケーションの大島希巳江は「ジャパニゼーション」と言う。

いずれも、元ネタ超えのモノマネ力のことである。
これを、モノマネタレントのコロッケにちなんで、
「コロッケーション」
と呼んでみたい。


モノマネ芸もいつの日か、「本物以上」になってきている。
本人たちよりモノマネタレントの方が歌は上手いし、努力している風もある。
そして、ヘタすると本人よりも本人っぽいこと語ることがあるし。
「みかん」の松島尚美とか。


こうした創造作法そのものを輸出する、といった意識も必要かも知れない。
「会社」という言葉がカンパニーの翻訳語であることはわかる。

江戸の蘭学者が「騎士団」と「学校」を合わせてつくった言葉であったといわれる。
しかしその後、これを広めた福沢諭吉という人のセンスがなかった。
100年の計はあっても、150年の計がなかったのである。

「会社」が普及する以前は、「社中」という言葉もあって混在していた。
坂本竜馬のつくった「亀山社中」でご存知の方も多いはずだ。

この社中とは本来、「一緒に勉強する仲間」という意味だ。
詩歌や邦楽の師匠の下について、一緒に学ぶ仲間たち、といったニュアンスだろう。

仮に明治期に、カンパニーを「社中」という名称にしておけば、企業は「学習のための組織」という認識で、日本に定着したと思う。

「社中」では、グローバルスタンダードに耐えない、という批判もあろう。
しかし長い目で見て人を幸せにするのは、会社ではなく社中であろうと思う。
逆に、いくら儲かっていても学習しない組織は、やがて内外から愛想を尽かされる。

今日、知識創造主体としての企業に注目が集まっている。
その中で、クラウドとしての外部パートナーや、商品を利用して自己を高めたいと考える顧客まで含めて「社中」と定義できる。

これは、ジェイムズ・ジー(ウイスコンシン大教授)の主張する「アフィニティ・スペース」(社会的活動を通した知識の蓄積や学習を促す場。「関心空間」「共感空間」とも訳される)という概念とほぼ近いところにある。


ただし、社長が教団の教祖になるのは最悪である(笑)。
トップ自らが、社中の掲げる目標を達成するために学び続ける、という姿勢を示すことが大切だと思う。
アナ雪の主題歌「Let it go」を、映画館でみんなで歌うという楽しみ方が話題になっている。

太田光が「気持ち悪い」と批判していたが、確かに今日的な普通の感覚からするとまったくもって気持ち悪い行為であろう。

しかし、スポーツイベントや音楽ライブで騒いだり、歌ったりするのは極めて普通のことである。
映画で同じことをしちやいけない、という道理はない。

実は20世紀初頭の米国で、ニッケルオデオンという安映画館に集まった観衆たちにとって、歌い、騒ぎ、飲み、暴れるのは、ごく普通の楽しみ方であった。
移民が多かったから映画のセリフがわからず、それをわかる奴が口頭で訳してやる、といったタイプの「会話」も許されていた。
のちに女性が観衆に加わったため、てめーら少しは静かにせいよ、ということで今日の「黙って観る」スタイルに変化したといわれる。

クラシックのコンサートだって、もともとは貴族たちのパーティのBGMである。
集まった招待客は、飲食、会話、ゲームを楽しむわけで、まあそちらがメインなわけ。
音楽は、あくまで脇役に過ぎなかった。
プチブルが台頭し、貴族もどきの教養を志向するにあたって、クラシックは「芸術」や「習い事」として君臨し始める。
たかが「昔の音楽」が、黙って静かに聴き、拍手してアンコールしろ、と人々に強制し始めたのは、20世紀の大衆社会が登場してのことだ。

書籍もまた、もともとは声を出して読むのが当然なのであった。
黙読は、「近代的個人」ってのが浸透してからのちの行為である。
ついでにいうと、昔語りにおいて読み手の話に口を挟み、知ってるフレーズを皆で唱和するのはひとつのパターンだった。
静かに本を読むなんてのは、たかが100年かそこら以来のことである。


コンテンツ消費=「観る・聞く・読む」という受動的行為、という固定観念を前提にする以上、もはや面白いビジネスにはなっていかない。
むしろ消費者に「歌わせる」「演じさせる」「創らせる」ことで、新たな地平が見えてくる。
著作権者が主役のビジネスモデルなど、もうとっくに終わっているのだ。
アナ雪は、コンテンツの楽しみ方の転換を示唆する、ターニングポイントになっていくかもしれない。


ただ太田の言い分も、実はわからないでもない。
問題はこれがディズニー映画で、あの絵で、そしていろいろと仕掛けられたものがあって、そのうえで皆が映画館で歌ってる、というところにある。
自由演技のようでいて、実は事業者によって仕組まれたレールの上での不自由演技。
要するにこれは「歌声喫茶」みたいなもんであり、単なるカタルシス効果、みたいなところに落ち着いちゃってるからだろう。

映画の100年前への先祖帰りは、停滞しているコンテンツ産業にとって、ひとつの突破口でもある。
しかし、太田が直感的にキモい、ダサい、ヤバいと提唱しているのは、この歌う姿が新興宗教のミサとかと近似値にある??とか感じるためだろう。
まあしかし、ディズニーってのはそういうもんだと(笑)、割り切って考えるのもいいかも知れないですよ、太田総理。



「大岡越前のテーマソング」
「洋服ダンスの奥の方」
とともに、子供の頃に気味悪かったもののひとつが
「こいのぼり」だ。

なんであんな、魚のバケモノみたいなものを、
しかも三尾も、わざわざ空に上げなくちゃならんのか、
まったくもって不思議でならなかった。

何といってもあの表情…。
「何も考えてないけど必死」な目が、とても嫌だった。
でかいだけ、というところも。

そして、よくみるとおどろおどろしい鱗の色とデザイン…。
日本的な美のセンスがまるで感じられないグロさ、である。

百歩譲って、鯉たちはまあ、よしとしよう。
その上にひらめく、一反もめんのような不気味なアレ。
ありゃ一体、誰が何のために設置し、どんな役目を果たすのか、
不条理の塊のような存在だったなあ、吹き流しってやつ。

最近、こういうイベントが開催されてるようだけど、
汚染された河川に大量に浮かんだ魚のようで(ごめんな!!)、
なんか嫌な気分に誘われるのは、自分だけだろうか?





たぶん、自分にとって「こいのぼり」とは、
おとなが子供に押しつける「子供らしさ」「無邪気さ」の象徴であった。

いつの日かどうでもよくなってきたし、目にすることも少なくなってきた。
いまでは「社会的トラウマ装置」(笑)として、
むしろこいのぼりの不気味さは維持していくべき派に変化している。

皆さんは好きでしたか、こいのぼり?

「経営組織論」という領域があるが、20世紀の初めの話をとうとうとされてもなあ…といった批判もあるようだ。

少なくとも学生たちは、そう文句を言っている(笑)。


いま、経営学が確立しなくてはならないのは「組織外組織論」であろうと思う。


企業が「知識」の運営母体であるとするなら、実はその知識の大半は組織の外部から獲得しているのが実情だ。

「クラウドソーシング」「ユーザーイノベーション」…といった最近のバズワードの文脈において、商品企画アイデアの調達みたいな話ばかりが取り沙汰されているが、実は「卸の営業さんの助言で棚を整理したら、利益が倍になった」みたいな地味な外部知識の導入事例は、数知れずある。


広告代理店はアイデアの宝庫だ、みたいな幻想もあるが、たいていの広告会社は、外部パートナーの提案をそのまま(あるいは多少の焼き直しで)クライアントに持って行ってるわけで、知を生み出す真の組織は外部ネットワークなのである。


「市場」や「ステークホルダー」として企業組織の外部を位置づけていた時代ではなくなりつつある。

スマートフォンのアプリ開発などの事例を見ても、アップルやグーグルは外部コミュニティにどれだけ依存しているかがわかる。


特にネットを通じての組織外組織の運営は、いまや最大級のマーケティング課題のひとつである。

ユーザーやプロバイダーのコミュニティを立ち上げるのはそう難しくはない。

しかし問題は、そのマネジメントである。

下手にマネジメントしようものなら、知の供給元と思っていた相手がライバルに寝返ったり、場合によってはクレーマーとなってサイトの炎上に廻ったり…する危険性すらある。


エイブラハムソン他(須川綾子・訳)(2014)「クラウドストーミング」阪急コミュニケーションズによると、クラウドに対するインセンティブは次のとおりである。


①目的の善行性

②社会的注目度

③参加による経験値の獲得

④明確な報酬体系

⑤透明性

⑥過去の実績

⑦ブランド


このうち、①~③は内発的動機に支えられており、組織内のメンバーにも共通するインセンティブである。

「経験」の中には、社会経験・学習経験に加えて、遊戯性という要素も入っている。


同書では、女性初のノーベル経済学賞受賞者であるエリノア・オストロム の示した「コミュニティ管理を支える8つの柱」を挙げているので、ついでに紹介しておこう。


①モニタリング

②対立を解消するサポートシステム

③コミュニティの立場を代弁する管理者

④参加者に対する価値のフィードバック

⑤規約やガイドライン、違反者に対する制裁

⑥集団的意思決定の仕組み

⑦参加資格の明確な定義(メンバーシップ)

⑧コミュニティの規模の拡大に伴う多層化


上記の①②③⑤については、コミュニティ管理者の役割となるだろう。

組織外組織、とりわけユーザコミュニティにおいては、それなりのコミュニティ管理者の存在が必要となってくる。

おそらくその存在は、組織内管理者のトップ=社長と同じくらいの権限・責任ある立場となるはずだ。

経営者に対して、顧客の立場から経営方針や商品戦略に口を出す人であり、「株主総会」「労働組合」と同じくらいの権限が生じるのではないか。


ただ、ブランドコミュニティ管理者を社内から輩出させるのは、いろいろと難しい面もある。

なぜなら顧客から見て、社員はもはや「中の人」にすぎないからだ。

よって、大半の企業では、これをアウトソーシングする方向にいくかもしれない、と思う。

ということで今後、ブランドコミュニティのアウトソーシングを受託する「何たらコンサルタント」とかが出てきそうな感じもするなあ(笑)。