大学図書館に学生が行こうとしない、という話をよく聞く。
スマホの充電のためにしか行かない、などという笑うに笑えない噂もある。
で、「図書館をどう活性化させるか」みたいなことを大人たちは考えたりする。
しかし、たいていそういう試みは失敗する。
なぜならば、図書館というハードウエアの活性化など、いまや何の意味もないからだ。
こういう考え方は、「問題の立て方が間違っている」類の大間違いである。
アプローチの発端が、そもそもあさっての方向を向いているのだ。
なぜ図書館が存在するのか?
それは蔵書を置くためではない。
本を読んだり探したりするためである。
ではなぜ本を読むのか?
それは一般的には勉強するため、知的好奇心を満たすため、であろう。
だが今日、必要な知識を得るためだけであれば、ネットで検索した方が遥かに早い。
図書館行って、置いてあるかどうかわからない本を探すヒマがあれば、アマゾンで買っちまったほうが利口だし、さらに専門的になってくれば、論文をピンポイントで調べ当てるのが技ってもんである。
つまり図書館どころか、「図書」の今日的なポジションが危うくなってきている。
そうした環境変化を踏まえたうえで、図書館の存在意義を再考する必要がある。
恐らく大半の図書館は、その蔵書レベルからみて、専門的なことを深く勉強する場ではない。
だとしたら「余計なことを勉強したい」という気にさせる場、になることだ。
教科書や授業、専門領域で勉強する以外の、ある意味「余分な」知との出会い頭の衝突の場として図書館を位置づけるしかない。
「贏(えい)学」という言葉があるのだろうか?
贏とは、「余剰の」という意味である。
図書館は、本来勉強するはずではなかった分野との出会いがしらをつくる場、つまり贏学の場であるべきだ。
ではなぜ、余分なことを勉強しておいた方がよいのか?
それに答えられる人は、そう多くないと思う。
「専門性を育てるべきだ」などと、安易な言葉を発するべきではない。
その専門性の足元など、あっという間に解体するかも知れない時代なのである。
「創造的な無駄」という言葉を示してみたい。
ジョブスは、大学を退学した直後「カリグラフィ」を勝手に学んだ結果、それがマックの「フォント」という概念の母体となった。
そのときは試験や授業の邪魔をして、一見無駄な勉強なのかもしれないが、あとあと必ず結びつく知識というものがある。
そしてそうした自分の中の異文化が、その人にとっての個性・独自性となってくる。
学生に「余計なこと」をさせたいと思えば、大人たちが自ら「余計なこと」をして、「一緒にやろうぜ」といわねばついてこないはずだ。
自分だけの仕事の殻、自分の専門の殻に閉じこもる大人に、図書館や図書を語る資格などないと思うのだが、どうだろう。