不況になると口紅が売れる -23ページ目

不況になると口紅が売れる

~遊びゴコロで、世界を救おう!~

東京都議会の野次の問題は、現代日本の政治と民主主義(?)とかの水準、地方自治の緊張感のなさを象徴した痛ましくも情けない事件であった。

あの下品極まりない野次の中身についてはもはや、コメントする気もおきない。
ただ真の問題は、あの程度の野次でも"笑う議員"がいたということにあるように思う。
あの笑いの本質とは、何なのだろうか?

あの人たちの笑いは、中村明(2002)によると、「対象に対する攻撃的姿勢」であり、揶揄・嘲笑の笑いとなる。「優越感(オレたちの方が偉い)」と「卑俗化(お前もオレたちと同じくらい下品なレベルに落としてやる)」という働きかけの行為と分析できる。

一方、英国議会で展開される野次と笑いは「ジョーク・ユーモア・エスプリ」であり、関係の矛盾や違和感の提示、つまり「オルタナティブな視点」を提示するための笑いである。
(下図)

ただ、今日のテレビで展開される笑いの大半は、東京都議会レベルであることも確かなようだ。

「笑い体質の改善」は、あのおっさんたちだけの問題なのではなく、もしかすると国民的課題と認識すべきなのかもしれないなあ。


ちょっと、メモ。


①笑いは人間固有の知的行為である。
 「ホモ・リデンス(Homo ridens=笑う人)」という言葉もあるように、笑いは消費や購買よりも、遥かに根源的・原初的な文化的営為といえる。

②笑いは「文化的な織物(テクスト・タピストリー)」であり、時代を映す鏡である。
 「お笑いは時代や環境、メディアの変化や消費者ニーズによる影響を大きく受ける…社会的構成物(荻上チキ)」であるから、文化記号のひとつとみなすことができる。

③笑いは社会を活性化する仕組みである。
 笑いは組織におけるファシリテーションの役割を果たす。特にこの時代、停滞感や硬直した社会システム、ストレスフルな日常にオルタナティブな視点をもたらす笑いが、強く求められてきている。

④笑いは人の身体に働きかける仕組みである。
 笑いは脳や感情にとどまることなく、身体に働きかける手段である。ネットが浸透すればするほど、人間の身体に響く仕組みが問われてくる。

⑤消費においても、笑いや遊びが求められてきている。
 利便性や機能性以上に、遊戯性・物語性・芸術性・ユーモア性に価値を見出す時代になってきた。優れたユーモアのセンスは、企業やブランドに対する価値を向上させる。

「どうぶつしょうぎ」のヒットもあってか、変り種将棋が大流行である。
一般ルールだともはやコンピュータに勝てなくなってしまったため、人間は違うルールを創り出はじめた(笑)という説もある。

しかし、ゲーム研究家の草場純氏によると「自明でない将棋系ゲームは成立する」という命題がある。
これはつまり、「将棋みたいなゲームを作れば、自明(簡単な必勝法があるなど)でなければ、案外適当に作ってもゲームになってしまう」(「伝統ゲームを現代にプレイする意義」第11回)ということである。

だから、「どうぶつしょうぎ」などが素晴らしい発明だということではなく、どんなルール、どんなバリエーションにしたところで、そこそこ面白くなるのが将棋の宿命なのだ。
これは、他のアブストラクトゲーム(囲碁など)とは異なる性格だといわれる。

そこでひとつ、「ボヘミアン将棋」という新たなゲームを提唱したい。

これは「途中からルールが変更になる将棋」のことだ。
プレイヤーは対局中に1度、必ず「ルール変更カード」を任意の手番のときに引かねばならない。
そのルールは、相手が次回「ルール変更カード」を引くまで継続する。

「ルール変更カード」には1枚ずつ以下の内容が記載されており、トランプのように切っておく。
・二歩をOKにする(三歩はNG)
・駒が成れない(行き所のない駒にしたら反則)
・相互の飛車角がクイーンの動きに
・歩がポーンの動きに(斜め前の駒を取れる)
・桂馬が八方桂(ナイトの動きに)


初手からカードを引いてもかまわないし、影響度が最小限となる最終盤で引いてもかまわない。
将棋は「二者完全情報零和有限確定ゲーム」であるが、そこに一部不完全を取り入れるところに新鮮な面白みと、棋力だけでは勝敗が決まらない運の要素がもたらされる、と思う。

もっとも、カードを引くタイミングの戦略性、新たなルールへの対応力…などが要請されるゲームなので、やはり棋力の高い人が強いということになるのかも知れない。

これは先日、プロ棋士の森下卓九段と「人間は流れで考えるがコンピュータはその場その場で最善手を考える」という会話をしていて思いついたもの。
人間は、「以前からのルール(文脈)」に拘り過ぎるために、目が曇ることもある。
だったらいっそのこと、ルールが途中で変わってしまう将棋はどうだろう、と考えた次第。
政権や法律が変わって、それまでのルールが通用しなくなることもあるし、より現実世界のシミュレーションになりうる将棋かもしれんよ。

ぜひ、ノーマル将棋に飽きた方、限界を感じるという方(?)な方は、ボヘミアン将棋をプレイしてみてください。

ちなみにネーミングは、クイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」(曲の途中で、バラード⇒オペラ⇒ロックと変調する)から頂きました。

大学図書館に学生が行こうとしない、という話をよく聞く。


スマホの充電のためにしか行かない、などという笑うに笑えない噂もある。




で、「図書館をどう活性化させるか」みたいなことを大人たちは考えたりする。


しかし、たいていそういう試みは失敗する。


なぜならば、図書館というハードウエアの活性化など、いまや何の意味もないからだ。


こういう考え方は、「問題の立て方が間違っている」類の大間違いである。
アプローチの発端が、そもそもあさっての方向を向いているのだ。

なぜ図書館が存在するのか?


それは蔵書を置くためではない。


本を読んだり探したりするためである。



ではなぜ本を読むのか?


それは一般的には勉強するため、知的好奇心を満たすため、であろう。



だが今日、必要な知識を得るためだけであれば、ネットで検索した方が遥かに早い。


図書館行って、置いてあるかどうかわからない本を探すヒマがあれば、アマゾンで買っちまったほうが利口だし、さらに専門的になってくれば、論文をピンポイントで調べ当てるのが技ってもんである。


つまり図書館どころか、「図書」の今日的なポジションが危うくなってきている。


そうした環境変化を踏まえたうえで、図書館の存在意義を再考する必要がある。




恐らく大半の図書館は、その蔵書レベルからみて、専門的なことを深く勉強する場ではない。


だとしたら「余計なことを勉強したい」という気にさせる場、になることだ。


教科書や授業、専門領域で勉強する以外の、ある意味「余分な」知との出会い頭の衝突の場として図書館を位置づけるしかない。




「贏(えい)学」という言葉があるのだろうか?


贏とは、「余剰の」という意味である。


図書館は、本来勉強するはずではなかった分野との出会いがしらをつくる場、つまり贏学の場であるべきだ。




ではなぜ、余分なことを勉強しておいた方がよいのか?


それに答えられる人は、そう多くないと思う。


「専門性を育てるべきだ」などと、安易な言葉を発するべきではない。
その専門性の足元など、あっという間に解体するかも知れない時代なのである。


「創造的な無駄」という言葉を示してみたい。
ジョブスは、大学を退学した直後「カリグラフィ」を勝手に学んだ結果、それがマックの「フォント」という概念の母体となった。
そのときは試験や授業の邪魔をして、一見無駄な勉強なのかもしれないが、あとあと必ず結びつく知識というものがある。
そしてそうした自分の中の異文化が、その人にとっての個性・独自性となってくる。

学生に「余計なこと」をさせたいと思えば、大人たちが自ら「余計なこと」をして、「一緒にやろうぜ」といわねばついてこないはずだ。
自分だけの仕事の殻、自分の専門の殻に閉じこもる大人に、図書館や図書を語る資格などないと思うのだが、どうだろう。
 民間シンクタンクのアイドル総合研究所(東京都港区)は、2025年のアイドル・タレント・アーティストの総数が国内で6800万人程度となり、ファンの総数を逆転するという予測を発表した。

 これは、一般に公認されているアイドル、タレントだけでなく、元タレントやプロアスリート、女子アナ、声優、芸能学校に通うチャイドル、頻出するローカルアイドルやローカルヒーロー、芸能事務所に契約しているだけの自称モデル、収入のない劇団員や芸人、アーティスト活動をする主婦やリタイア族、ステージに立つ親衛隊、ママドルやネットアイドル、ユーチューバー…等々をあわせた総数で、「ステージに上って喝采を浴びる可能性のある人」「イベントなどで招聘される可能性を持つ人」全員を指すという。

 ファンクラブだけでも200万を超える数となり、アイドル間の相互ファン化現象も生じる見込み。
 ファン活動をベースとしたSNSやコミュニティが活性化し、撮影会・握手会・サイン会といったミニイベントで公共施設やカラオケショップ、写真スタジオなどはフル稼働となる、といった予測も込められる。
 これまでのサブカル系に細分化されたアイドルに加えて、「学ドル(学校アイドル)」「社ドル(企業アイドル)」「店ドル(店舗アイドル)」「客ドル(来客アイドル)」「裏ドル(裏方アイドル)」「派ドル(派遣アイドル)」「留ドル(留学生アイドル)」など、さまざまな組織・現場でのアイドルが生まれくるものと同研究所は考察する。
 またファンの数のほうが少ないことから、アイドル側の持ち出しによるファンへのオリジナルギフトなどが、ひとつのマーケットを形成する可能性もある。

 世界最大の芸能国家としての可能性には希望が持たれる一方、すべての領域で実力より人気が先行する風潮から、さまざまな社会問題も生じてくると指摘している。
 例えば、私立大学教員や団体スポーツチームなどでは「アイドル枠採用」が過熱化したり、地元ファンクラブを基盤とした政ドル(政治家アイドル)が乱立したりする懸念もある、とする。

 いずれにせよ、江戸期以来の社会階層の固定化が日本人のダイナミズムを奪おうとする中、「全員アイドル」国家への変転を、一縷の希望と位置づけていく工夫が必要である。
 「スター」に富と名声が集中するのではなく、身近な「アイドル」間のやりとりによる互酬経済のシステムづくりもまた、今後の課題のひとつであろう。