今年の将棋・電王戦は、プロ棋士の1-4で終了した。
人間サイドとしては、予想以上の惨敗…という結果となってしまった。
しかも、何局かは終始一方的で、勝負どころすら見当たらなかったようにも映った。
まあ、結果や興行についての話はもういいだろう。
大事なのは今回の勝負内容を踏まえて、将棋における情報処理やトレーニングの方法をどう見直すべきか、専門家同士で議論することなのだと思う。
プロ棋士も「コンピュータの弱み」なんかを見つける勉強法ではなく、コンピュータとの対戦を踏まえて、自らがどうやったらもう一歩強くなるかを、改めて考えてみるべきなのかもしれない。
プロ棋士が敗れる理由として、ソフト側の読み方が、それまでの手の流れや常識に捉われず、「その場その場での最善を追究する」からだ、という指摘があった。
先日から、「妙手」を記号論の視点から考えていた経緯があり、もしかするとここに、ちょっとばかりヒントが隠されている気がしたので、以下勝手な試論を書く。
人間というのは、手の流れや文脈(コンテクスト)をとても大事にする傾向がある。
「攻めて来い、と誘ったくせに同歩と取れないのはおかしい」とか、
「もう終盤に差し掛かっているのだから、駒の損得より速度を重視すべき」とか、
「せっかく我慢してきたんだから、もうちょい受けるべきだ」とか、
「ここは詰めろの連続じゃないと勝てない」とかである。
この文脈を前提に最善手の選択が行われるわけで、これはいわば「その局面の暗黙のルール」となる。
文脈に依存した選択のメリットは、余計な手を読まずにすむということだ。
正解を導き出す最大のヒントが局面の文脈であり、あらゆる場面で応用できる文脈は「格言」ともいわれる。
当然のことながらプロ棋士は、こうした文脈察知能力に長けている。
というか、文脈察知能力がなければプロどころか、アマ有段者にすらなれない。
(これを「大局観」と呼ぶ人もいるが、大局観の定義は曖昧で人それぞれなので、ここでは使わない)
そしてこうした文脈は、盤を挟んだプレイヤーの間で時間をかけて育成され、共有されることが多い。
「棋は対話なり」というのは、その局面における文脈を共有している者同士だから、手の交換が会話として成立する、といった意味である。
「場の空気」ってやつですね。
人間同士の対局においては、この文脈を前提にお互いが手を進める、ということがよくある。
しかしこの共有された文脈は、ときに間違っていることもある。
極端な例として、先手有利・後手不利を双方が認識しながら手を進めていて、後手は形づくりをする。
結果、先手が勝つのだが、あとから調べてみると、実は後手が逆転していた、などのケースだ。
共同幻想の誤謬、というやつだ。
そしてある手を境にして、今までとは違う新たなる文脈が生まれてくる、ということがある。
この「ルールが変わった」のを認めて方針を転換する作業が、人間はわりと苦手なのだ。
で、「おかしいな、こっちが有利なはずなのにな…」というこだわりを引き摺ったりして、負けにする。
(実は自分でもよくあります…)
今回感じたのは、文脈転換への対応力、あるいは文脈破壊力の必要性である。
行方八段が第2局だったか解説に登場したとき、
「自分は手に一貫性がないといわれる」と語っていたが、この一貫性のなさを言い換えると「一手ごとに文脈を考え直せる力」となる。
行方将棋の強さや面白さは、この一手一手方針を変える点にあるのかもしれない。
プロもハッとする妙手とは「新しい文脈に対応した手」であるとすれば、コンピュータはそれを可能にするプログラミングがされているわけだ。
「手の流れに拘泥することなく、常にその局面での最善の考え方(最善手ではない)」を見直すということは、これまでの将棋の常識を革新することにもつながるはずだ。
と同時に、新たなる文脈を創出する考え方も求められてくると思う。
具体的には、形成判断の指標の多様化や、次の一手のミッションの言語化など、いくつかのアプローチが考えられる。
これらについては、改めて考えてみたいところだ。