「遊戯史学会」というユニークな学会があった。
あった、というのは、会長の増川宏一先生の「終活」の一環で、2018年に解散したからである。
しかし、遊びの歴史を探求する活動は大変興味深く、私も専門ではないが会員として参加させてもらっていた。
また、二次会で増川先生から将棋の話を聞けるのが、何よりも楽しかった。
その研究大会で、単に参加して酒ばっか飲んでないで、そろそろお前も何か発表せーよというオーダーを頂戴した(^-^;。
将棋そのものの歴史については増川御大が、さまざまな発表をされている。
大橋家の文書を読み解き、当時の将棋家が家賃収入で暮らしていたとか、ユニークな発見も多い。
しかし見たところ、「詰将棋の歴史」についてはまだ、本学会では語られていなかった。
もちろん『詰むや詰まざるや』などの名著をはじめとする門脇芳雄氏の業績や、「詰将棋の散歩道」を長期掲載されている磯田征一さんらの見識に、私の知識など及ぶべくもない。
しかし、「ちょっと無理かな?」という課題を自分に与えないと全く動こうとしないタイプなので、手探りながらも進めることにした。
詰将棋の歴史といえば、初代大橋宗桂に始まる献上図式であり、もちろん主役は宗看・看寿である。
ただ、江戸期の詰将棋は格調が高い家元・名人たちの図式だけでなく、アマチュアが創作した変な作も残っている。
そしてよく見ると、アイデアだけはこちらが先、という例も多い。
不利先打、銀鋸、馬鋸、遠打、超手数、裸玉などなど。
そこで、こうした趣向は、当時民間棋客が先に示し、それを将棋家の名人たちが採り入れて本格的な作品にするというプロセスがあったのではないか、という主旨の研究発表を志向した。
そして民間の自由奔放な発想を前向きに消化し、現代詰将棋の礎を築いたのは、二代伊藤宗印(宗看・看寿の父)であったことも見えてきた。
研究過程では、詰将棋作家の利波偉氏には大変有益なアドバイスを頂戴した。
しかしこれは翌年開催される「たま研」発表への、恐怖の布石になっていたとは知る由もない。
第27回「遊戯史学会」例会(12月5日)、「詰将棋趣向作の発展における在野棋客の果した役割」と題する発表を行い、この内容は論文として翌年の「遊戯史研究」に掲出した。
2015年の研究発表のテーマといえば、①詰将棋の歴史、②変なエントリーシートへの対応策、③嗅覚・触覚・味覚のマーケティングである。
全く一貫性も何もあったもんじゃない。
こういうところが「研究者に向いていない」とされる点であろう。
先日の某学会では、「あんたの研究発表はテーマが毎年激変しているが、あんたは一体何者なんだ」という有難い?質問を頂いた。
スマホ詰パラではこの年から、「月刊MVPプレイヤー」の選出がスタートしている。