強制的関心拡張装置 | 不況になると口紅が売れる

不況になると口紅が売れる

~遊びゴコロで、世界を救おう!~

 企画者としての資質として大切なもの…みたいなテーマで書いていたら、ひとつ気づいたことがあった。


 それは「担当の企業やブランド」と、「それとは一見関係ない、とんでもないネタ」とを結びつける着想、というものだ。

 その「跳び方」、あえていうと「こじつけ方」こそが、発想力の本質というものであろう。


 しかし、普段の仕事と一見関係ないネタを、どこでどう仕入れるのか、という問題がある。

 私はそれらを「創造的な無駄」と呼んでいるが、いまやこうした無駄をどんどん切り捨てる世の中になっていっているように思う。


 今日のWeb社会では、むしろ自分にとって「関心ある情報」「これまで接していたジャンル」への知識集約が進むばかりだ。

 高度な技術が、「あなたは、こんなことに関心あるでしょ?」的な、余計なお世話をしてくれるものだから、ますますその蛸壷化は促進されるばかりである。

 人は、3日も経てば、別の生き物に変転するのだ。

 過去に関心のあったことが、今も関心あるとは限らない。

 

 だからいまだに、新聞を3紙購読したり、たまに書店を数時間かけてさまよったりもしている。

 こうして、とんでもない知識との偶然の出会い、「未知との遭遇」が生まれることも…ある。

 本来は、異質のジャンルの人と話すのが一番よいのだが、なかなかそうもしてられないので、こんな小さなことで代替しているだけだが、それなりの効果もあるとは思っている。


 最近始めたのが、「高校の国語の教科書を読む」という変な?習慣だ。

 大久保の教科書専門店に行き、高校の「現代文」の教科書を買いこんできて、毎日、頭から少しずつ読んでいる。

 鶴見良行の「ナマコの眼」を絶賛している鎌田慧の文章とか…、そんなものに出会えるのですよ、高校の教科書って。


 そもそも、高校の教科書は安い。1000円かそこらである。

 大学の教科書がむやみに高いのに比べて大変おとくであり、内容も、そりゃまあ一流の人たちが吟味して監修しただけあって、大変充実している。

 作家の川上未映子さんにインタビューしたとき、自分は「教科書フェチ」だったと仰っていたのを思い出す。

 確かに高校の教科書は、自分の関心レベルでは出会えないはずの世界に満ち満ちていると思う。

 山川出版社が「大人になって読む歴史の教科書」を出して儲けたが、他の出版社は「大人のための国語の教科書」を出してみたらどうだろうか?


 いずれにせよ、身辺に強制的関心拡張装置を置いておくくことは、プランナーとはいわず、誰にとっても必要なことだと思うのだ。