「校長先生のお話」は必要か? | 不況になると口紅が売れる

不況になると口紅が売れる

~遊びゴコロで、世界を救おう!~

 「啓蒙」という言葉がある。

 これはたぶん、福沢諭吉あたりがつくった言葉なんだろうが、もうこのあたりで「日本語として終了」にしたらどうか、と思うのだ。

 

 啓蒙の意味は、「人々に正しい知識を与え、合理的な考え方をするように教え導くこと」なんだそうだ。


 真部沖縄防衛局長が、投票を呼び掛けて「訓話」をしていたということ。

 内容は、知らん。

 でも、「訓話をする」という姿勢が、そもそもの間違いではないか。

 そうした時代錯誤をしているというだけで、十分解任される理由になってもよいのではないか。



 小中学校時代、行事のたびに現れる「校長先生のお話」って、果たして必要なんだろうか、と思ったことはないだろうか?

 少なくとも私は、180回くらいはそう感じたもんだ。

 無意味に長い、内容がない、目的がわからん…だけではない。

 本人も「ネタ切れ」で苦労しているのが見え見えであり、聞かされる方だけでなく、喋る方にも迷惑至極な時間なのである。

 校長のための講話ネタ本、なんてものもある。

 つまりは、昔からあるだけあって、誰も聞いてやしないし、本人もイヤで仕方ない制度なのである。

 

 相手が無知蒙昧だから啓蒙する、という上から目線の根底には、「自分の方が優れている」という自覚がある。

 大学というところは残念ながら、いまだにこうした「啓蒙」的な人間がウヨウヨいる。

 しかし、何が優れていて何が優れてないかなんてのは、もはやワケがわからん時代なのである。

 そうした感覚に乏しい人間が学生を見下し、見下すことで自らのポジションを主張しているという状況も、あるんだよなぁ。


 人は、言葉によって価値観をつくりあげる。

 「啓蒙」は、不要というか、もはや「お笑い」な言葉として指定したいのだが…。