とある学会で「物語」について発表した。
「越境/危機/成長/勝利」という構造で、ブランドの物語を再構築してみよう、みたいな話である。
発表後、聴講者の1人から、 「物語の構造が見えてしまうと、消費者はそれを見破ってしまうので、それって逆効果ではないか?」 という質問が出る。
たしか稲増龍夫が1980年代にそんなこと言ってたっけな、とも思って一瞬逆上したが、その場は適当なことを言いながら、答えになっていない答えを返す。
しかし、「物語的な構造が見えるか見えないか」は問題ではない。
例えば、資生堂の企業広告↓。
http://www.shiseido.co.jp/corporate-ad/060828ad.htm
この広告表現は典型的な物語の構造に基づいているし、それは見る側にも十分察知できる。
「途中で、表情変わるんだな、きっと」
「亡くなったお母さんも、きっと資生堂の化粧品を使ってたんだね」
「資生堂は、全ての女性にとってのお母さんのような存在になりたい、ってことだね」
…ということがわかるわけだ。
しかし、それでも感動するし、資生堂を好きになるし、youtubeでは10万回も視聴されている。
つまり、物語の構造が露呈していても、きちんと感動を与えるのが良いクリエイティブ、ということだ。
同じ「ベタ」でも、○と×とがあるだけの話である。
むしろ、質の高いクリエイティブであれば、構造にきちんと則っていたほうが効果は高い。
あるいは、お定まりの構造の上で「勝負」できるクリエーターこそ評価される、ともいえる。
広告が芸術であれば、ロブグリエみたいな主張もありだが、やはり広告は広告、商業芸術なのである。
そのロブグリエ氏も先日亡くなるし、「水戸黄門」も石坂浩二を下ろすわけだし、「ごくせん」は相変わらず高視聴率をキープしている。
物語の構造という、「見えない規定」は、それに縛られる必要はないが、知っておいたほうがよいルールである。
なぜなら、ほとんどのクリエーターは、そうした見えない規定に基づいた規定演技を強いられるわけだから。