【書籍情報】
データ視覚化の人類史
マイケル フレンドリー, ハワード ウェイナー
飯嶋 貴子 (翻訳)
出版社: 青土社 (2021/10/26)
ISBN-13: 978-4791774197
【概要・コメント】
まず結論として,本書は非常に興味深い内容である。
データの視覚化における,人類の苦悩と努力を体系的に理解できる名著である。
本書を通じて,著者らはデータ可視化の
P.279より抜粋「発展はテクノロジーの進化と,視覚化の手法が期待できる科学的問題との間の相互作用」
により生まれていると述べている。
つまり,歴史上,"データを適切に視覚化することによってのみ解決できる問題"に人類が出くわし,その問題に対して適切なテクノロジーが生み出されるという相互作用が,データ視覚化の進歩を語る上で大切だということだ。
具体例としてはデータの可視化において,地図上の自らの経度をより精確に計測することが非常に重要なトピックになった。
遠方に航海する上で自らの位置を正しく認識するというのは,安全上きわめて大切なことであり,そのニーズがデータを様々なアプローチで処理し,可視化するための大きな原動力になった。
この経度問題を適切に処理する過程において,データ視覚化の最大の発明である"散布図"が生み出されている。
P.198より抜粋「散布図をベースにしたグラフによる解決法<中略>極めて重要なステップは,生の観測値を平滑化すること,そして理論は利用可能なデータから大きく逸れることがあるということを理解することだった。」
散布図が生み出される前の人類は,グラフの横軸を時間で表現するのが当たり前であった。
もちろん,今でも科学のお作法として取得した生データを横軸時間の時系列データとして示すことは,大切である。
一方で,データが持つ性質,すなわち相関や因果関係を明確にするためには,時系列データだけではなく,X軸,Y軸各々に何かしらの変数をアサインしたグラフを描くことが大切である。
この二つの変数の関係を可視化するという手法を発明するまでに非常に多くの時間を費やしたと本書で解説している。
また,具体例の2つ目としてイギリス・ロンドンにおけるコレラの蔓延と,その真の原因の分析がある。
1850年中旬に,ロンドンではコレラが蔓延したが,その原因が我々が目でみることができない,菌が原因であると"見て理解する"ことができたのは,そこからだいぶ先(1884年)のことである。
一方で,コレラにり患し,死亡した人数を地図上にプロットすることはでき,そこから,ある井戸の周辺だけ異常に死者数が多いという事実は発見することができた。
この例にように,データ可視化はすべての因果関係を表すことはできなくても,因果関係の途中の過程を描画することはできる。
ただし,描画されたものから「何を読み取るか」は,データを各人に残された問題であり,何を読み取ってほしいかによって,見せ方を変えるという論理的な手法は,かの有名なナイチンゲールがその発展に一役買ったようである。
科学で用いるグラフ(チャート)の基本的な慣習は,1700年代末から1800年代の初めにおいてプレイフェアが確立した。
この慣習のおかげで,我々は異なる事実を統一された視点で分析することができている。
近年では当たり前の3次元データの,立体的な表示であるが,これを可能にしたのも実は散布図の中に用いられているデータの平滑化という考え方である。
近年のビックデータとは異なり,人類の歴史においては大量のデータを取得すること自体に課題があった。
そこで,少ないデータを補完する意味ある近似曲線を引く必要があった。
この近似曲線を地図上にプロットすることが,地図上の等高線へとつながり,地図上の等高線をよりリアルに?見せるために,グラフは立体化されていった。
話はもとに戻って,プレイフェアの功績であるが,
P.153より抜粋「クリエイティブになろうとして新しい形式をそれぞれのデータセットに取り入れるよりも,
それぞれ異なるデータセットで利用・再利用される小さな表示形式のセットを採用するほうが得るものが大きい」
と本書では述べられている。
科学者として技術者として,グラフが示す内容に新しさがあることは大切であるが,グラフの表示方法に新しさがある必要はないと自分も思っている。
人生で初めて見るグラフは,グラフの仕組みを理解するのに多くの力を削がれ,肝心の内容を理解するのに注ぐ余力がなくなってしまうからである。
プレイフェアがチャートの慣習を定めるまでは,多くの科学者が初めて見る表現方法に頭を悩ましていたであろう。
その意味で,本書がプレイフェアの功績をビッグバンと表現するのは適切であろう。
近年,データの取得方法や描画方法に新たな変革がもたらされている。
その原動力となっているのが,カメラを代表とする画像取得装置であり,計算機の中で実現される(自動)描画アルゴリズムである。
まず,カメラの出現によって,これまで人の目には見れなかったものを記録し,見える化できるようになった。
例えば,今日では1/30秒よりも短い現象を連続的に撮影することが可能であるが,物理現象を正しく理解する上で,非常に強力なツールとなる。
また,計算機で(特に多次元の)大量のデータを描画することによって,これまでとは異なるレベルで"データの中にある傾向や集合"を発見することができるようになった。
それにしても,ジョージ・マルサグリアの「乱数は主に平面に落ちる」という論文タイトルは,おしゃれだ。
今日,データをプロットすることがあまりに当たり前になり過ぎたが,データをプロットすることで人間の視覚に訴えかけ,人の分析する力を引き出すということはデータ可視化においてきわめて重要な機能である。
P.322より抜粋「記憶に残るようなグラフィックプレゼンテーションの重要な要素は,ある現象をつくり出すデータと,それらのデータが最終的にそこで表現されるリアルな人間ドラマに与える影響との間に生まれる即時的なつながりなのだ」
この表現を自分なりに解釈すると,我々科学者はグラフを描くことによって,(人間)ドラマの演出をしていることになる。
計算機上で手軽にデータをプロットできるようになった今だからこそ,グラフが持つ演出機能に改めて注目したい。
本書は「詩としてのグラフ」という章で幕を閉じる。
結局,データを可視化するのは,人の視覚に訴えかけ,さらには人の心に訴えかけるためであり,より人の心に響く(共鳴する?)ためには,どのような"魅せ方"をすればよいのか,というのがデータ可視化における根源的な問題となる。
その意味では,データ可視化が目指すところは"詩(ポエム)"に類似する部分があり,人に何を訴えかけたいかを定めない限り,"よいグラフ"は作れないのである。
(特に若い)技術者の皆さんには改めて,「何のために,何を訴えかけたくてグラフを作るのか?」を考えて欲しい。
原著と比較していないので,クレームは適切ではないかもしれないが,日本版の制作過程において本書の価値を下げている推察されるところがあるので,以下にいくつかコメントを書いておく。
Amazonでほかのレビューにも書かれているが,オリジナルの英語の書籍が出版されてからわずか半年ほどで日本語が出版されている。驚異的な早さである。
母国語で最新の書籍を読めるのは非常にありがたいと思う反面,翻訳の品質は必ずしも高いとは言えない気がする。
最近は,翻訳本がすばやく出版されるので,ついつい買ってしまうが,スムーズに読み進められなくて途中でギブアップしてしまうケースもあり,原著の文章表現の品質はどれほどなのかなと,モヤモヤすることも多い。
日本人が扱いやすい書籍サイズにするために,
図表が小さい原著は,16.5 cm × 24 cmに対して
日本語版は,13.1 cm × 19 cmと少しコンパクトになっている。
それゆえ?,図表が小さくなってしまっているので,図の細部を読み解くことができない。
本書は数式を多数含むにも関わらず縦書き(!?)で書かれている。
正直,縦書きの数式では誤解が生まれるので,数式は横書きにしたほうがよいと思う。
そして,できればデータ可視化の専門家に校閲を依頼して欲しい。
と,いろいろと細かな点で気になるところはあるが,読んで損はない名著なので,時間があれば一度目を通してほしい。