朝ドラちむどんどんと沖縄の真実を知って欲しい | 人生を夫婦で楽しむ方法

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食べることが大好きで、一食一食を大切にしております。人生は一度限り、後悔無く暮らしたいです。その為のヒントになるブログにしていきたいです。

昨日は記事を2本UPしたので、この記事から時間が余り経っていないのですが、

 

 


今日の記事をUPします。


今週のちむどんどんで、にーにーに対して、何故、母親が甘いかが分かりましたよね。

にーにーは、これで変われるのか。今後の展開が楽しみです。

ちなみに昨日の回は、最終回かと思っちゃいました。(笑)  9月30日まで続きます。



さて、何回か書いているので知っている方もいるかもしれませんが、

私は、学生時代に、鍾乳洞の学術調査をやっておりました。

             地質や洞内生物を調べ、測量します。
 

大学1年の時に、全国の大学からメンバーが集まり、
          沖縄鍾乳洞の学術調査を1ヶ月半にわたり行ったのです。

これが、私と沖縄の出会いです。 

メンバーといっても9名なのですが、

地元のテレビニュースにも何回か取り上げられ、
新聞にも再三載ったので、沖縄の方は知っているかも。
 

 
さて、我々の調査が何故必要だったかというと。
 

沖縄は元々珊瑚礁でできていますから、島は鍾乳洞だらけなんです。
 

ところが、きちんとした調査はいっさい行われていなかったのです。
鍾乳洞はお墓にもなっている神聖な場所でもあります。

ですから地元の人も街の下にある鍾乳洞がどのようにつながっているか分かりません。
 

私は、測量担当だったので、多くの洞窟を測量して、      



このような、測量図を作ります。(私が書いた測量図です。)
 

実際の街の地図と重ねると、街の下の鍾乳洞の様子が分かります。
 

多くの鍾乳洞を、戦後初めて我々の調査隊が、測量したのです。

 

ちなみに、この鍾乳洞、、、、街から米軍基地までつながっていて、米軍基地に入れちゃうんです。
(今は、どうなっているのかなあ。)

洞口から出たら基地の中にいたので、焦りました。(笑)
 

普天間基地の下にも鍾乳洞があって測量しました。



私が調査に行ったのは、730の半年後です。 

石垣島の離島ターミナルの近くに730記念碑があるのをご存じですか?
 

交差点名も730交差点

 
そもそも、730が何か分かる人が、何人いるのでしょうか。
 
戦後の沖縄は、アメリカに占領されておりました。なので、右側通行だったのです。
 
1972年(昭和47年)5月15日に、日本に返還されましたが、その後も右側通行が続き、
 
1978730日に自動車が右側通行から左側通行に変更されました。
 
たった、一晩で、沖縄本島から離島まで全ての道が左側通行になったのです。
 
一晩で全ての信号、標識を左側通行用にするって、凄い作業だったことでしょう。
 
私は、その半年後の1月に1ヶ月半滞在しました。
 
まだ、道の矢印が、逆を向いていた痕跡もいっぱいありました。

つまり、今週のちむどんどんが、まさに私が鍾乳洞の調査をしていた時期と被っているのです。

だって、沖縄も左側通行になった事が描かれましたよね。

ここから、話はとても重くなります。 

で、調査されていない洞窟の中は戦争が終わっていませんでした。
 

地上戦の行われた沖縄は、鍾乳洞が防空壕ですから、生活痕から、手榴弾まで、

戦争の爪痕が、、、、、そのまま残されていたんです。
 

狭い洞窟をほふく前進で進んでいたら、鉄兜があって、どかさないと進めないので、
 

持ち上げたら、その中には頭蓋骨があり、目が合ってしまった事もありました。(汗)
 

多くの全身白骨も見ましたし、頭蓋骨の上に鍾乳石(石筍)ができはじめていた場所もありました。
 

洞内生物調査もしなくてはならないので、人骨ではないと思われる動物の骨は回収します。
 
1ヶ月半で段ボール3箱の動物の骨を回収し、

国立科学博物館に送り、同定してもらいました。

人骨は、場所だけ記録し、人骨ではない動物の骨だけを回収したつもりだったんですが、


99%が人骨でした。  もちろん、地元に送らせていただきました。
 

洞窟内の人骨や遺品は、1945年の終戦から、

我々が調査した1979年までの34年間も放置されていたのです。

 

また、洞口の石灰石の色が変わっている洞窟がいくつもあったんです。


それは、アメリカ軍が、洞内にいる人を殺すために火炎放射器で焼いた後だそうです。
 

洞窟のヒヤリングのため、地元のお年寄りにお話しを聞こうとすると
「やまとんちゅー(本土の人)の言葉は分からんからあっちにいけ」
                         と何回も言われました。

地元のために調査しているのに、、、、、と思ったんですが、今考えると、

お年寄りの本土の人に対する気持ちって複雑だったのでしょう。
 

私の人生での衝撃の1ヶ月半でした。

人骨のある場所や測量図、遺骨を地元に渡すことができたので、少しはお役に立てたと思っています。

こんな体験もあって、以降40年以上、沖縄は大切な場所になりました。
 

いちろうの独り言

我々の豊かな生活、子供を戦争に行かせなくて良い世の中は、沖縄の皆様の犠牲に上に
成り立っていることを忘れてはいけないと思っています。
 
沖縄の大地には、今でも多くの遺骨と、沖縄の人々の血潮が眠っているのです。
 
そして、戦争を起こした国や人、力で国境線を変更しようとしている国を許しちゃいけない。

今、この瞬間にも占領されて命を落とす人がいる事実を忘れちゃいけない。

 
いちろうのもう一言
 
私は、農学部の畜産化学研究室で、豚肉の研究をしておりました。

ミンチ肉を腐るところまで、数値を調べますので、肉の腐った匂いを知っております。

その匂いが、未だにダメで、ハンバーグやハンバーガーをほとんど食べません。

沖縄の鍾乳洞の調査をしながら、

 

私は、終戦間際の沖縄の鍾乳洞の中の匂いを想像しちゃったのです。

季節は夏、トイレも無く、怪我人の傷口にはウジが湧き、亡くなった方の身体は腐っていく。

そんな死臭立ちこめる空間で、何日も過ごさなくてはならなかった沖縄の方々。

朝ドラでは、簡単に描かれてしまいましたが、洞窟の中の匂いまで想像して、

悲惨な戦争を起こさないために、私たちは最善の努力をしなければならないと思います。