AIとの正解なき対話 | ぼくは占い師じゃない

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易のブログ……だったのですが、最近は白橋 升としての創作活動「遊星出版」の話題や日常雑記を綴っています。遊星出版のサイト(Googlesite)で作品を紹介しています。活動や作品の紹介はこちら(遊星出版公式サイト)→https://sites.google.com/view/yuusei-press

20年以上になると思うが、習慣的にジャーナリングをしている。

いつものように書いていて、ちょっとしたAIの利用法を思いついた。ジャーナリングしているノートの筆記そのままをチャットの材料として使う。書いたものを写真に撮ってアップすればいい。

 

ジャーナリングが自分との対話なら、AIを利用しての「壁打ち」も同じことではないだろうか。だがまあ、その度に書く手は止まる。「魂の文章術」のナタリー・ゴールドバーグは「ペンから手を離すな!」といったが、流れに乗っているときはそうすればいい。



 

思いついたはいいけど、いろいろ気になる。

ジャーナリングにAIを介在させるのは邪道かな?
もう皆やってるようなことなのかな?
だったらブログに書いても意味ないかな?

不安ならAIにきけばいい。
 

でもまてよ。

 

AIはもちろん、AI推進の当事者である。

 

そのAIにきいても答えは「邪道じゃないよ! いいじゃない! やれよ!」に決まっている。
 

その答えををそのままウノミにしていいのか。

こういう疑問の確認はファクトチェックによるハルシネーション(AIによる他意のないでっちあげ。別名「生成」)の回避とは異なり、どちらかというとシカファンシー(忖度、おもねり、追従)による影響の回避だ。

ブログに載せるか載せないか。
読んだ人がどう思うか。

そんなこと、やってみなければわからないのである。
先が読めないのは、人もAIも実は同じ。

AIは背後に膨大な情報を抱えていること、そしてそもそもが統計処理システムであるという優位性はありそうだが。

   ☆

しかし、どうしてこうも「正解」を求めたがるのか。

ひとつには自我には、たいがいは行き過ぎた、自分を護ろうとする強力なベクトルがあるからだ。さらに行き過ぎると喧嘩や闘争、さらにさらに行き過ぎると戦になる。

もうひとつはおそらく、良きにつけ悪しきにつけ社会へ出るために受けてきた教育の影響もあるかもしれない。

テストには「正解」があるからだ。

   ☆

昔、どうしても欲しかった本があった。「教科書ガイド」という。当時は、単元の末尾にある設問が宿題として出されることが多かったので、それさえあれば宿題なんてこわくない。設問の答えが懇切丁寧に書かれている。だが、説明なんかどうだっていい。正解さえわかればそれでいいからだ。そのまま丸写しして出せばよいのである。

そんな宿題が出ることが多かった数学の教科書ガイドを買った。宿題は丸写し。結果、なんの勉強にもならなかった。なんの勉強にもならなった上に、実際に社会へ出てみると「正解」などというものはどこにもなかった。

声高に「正解」を叫ぶ人もいるが、それは「正解」などではなく、たいがいその人が、自身の考えを強調したいがためにそういっているだけのことである。いわゆるひとつの「過度な一般化」というヤツである。

そういってるお前の話は正解なのかって?

もちろんちがいます。そんなものはないんです!

じゃ、正解はないってのは? 正解?

Geminiえも~ん! 助けて~!