AIと対話していると、あまりの人間くささに舌を巻くことがある。しかしその一方で、やっぱりちがうなと感じることもある。
当たり前の話だが。
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お話を一本投げてみる。
書き方にもよる(これは作者のせい)けど、おそらく人間の読者なら外しようのない、特定の印象に関する部分を取りこぼしたりする。どうなっているのかと、改めて問い直したりすると、AIは、生成がお仕事なので、そこは生成しておぎなう。誤魔化しているようにみえるが、それは人間側からの投影である。AIはただ淡々と補完しているだけだ。
一見緻密に読んでいるフリをする(これも人間側の投影)が、よく訊いてみると、その認識は斑で、実は認識などしていないことがわかる。お話を適宜ブロックに区切って、ブロックごとに重み付けをして処理している。淡々と。
ブロック分けと重み付けは、仮想的に網状に結ばれたブロックの間の、重みをかけ合わせる積の要素も含む加算、すなわち積和演算を、さらに層状に繰り返すニューラルネットによって行われる。ものすごい早さの、ものすごい回数の、ものすごい階層数の計算で。最終的な出力は論理的なガードレールによって規制される。コンプラがあるからだ。
このネットワークモデルは、人間の脳の最も基本的な、一番よくわかっている神経生理学的な要素のみ(それ以上のことはまだわからないのでマネできない)を模倣、敷衍して組み立てられたモデルに基づいている。モデル自体は、ぼくが若い頃からあったが、今よりはるかにトロくて、キャパもまるでないマシンがふつうだったので、その頃は机上の空論だと思っていた。
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お話を書くことは、その文章を読んだ人に『こういう「感じ」を引き起こしたい』と思いつつ書くことでもある。この、「感じ」というのは、認識でも、感覚でも、理解でも、判断でもなく、神経生理学的反応だけでもなく、それらを含みつつ、どこから生じたかまだわからない「なにか」である。
でもそこにあるのは、はっきりとわかる。おそらくではあるが、自分ではない他人にも同じ「なにか」は、わかる。たぶんこれがクオリア(主観的体験)という奴なんだろう。
お話を書くことは、決して文章を書き終えることが終着ではない。読者の中に引き起こそうとするクオリアのトリガを配置して、意図したクオリアを読者の中に生起せしめて初めて完結する。
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いくつかのサッカー場ほどのスペースを占めるデータセンターを使って、何分かでペットボトル数本分の水を沸騰させるほどの熱を出しながら、しょうもない男の戯れ言にシステムを付き合わせることが、はたしていいことなのか、それともわるいことなのか、「わからない」。
ぼくはこの「わからない」という言葉を計算で吐き出しているわけじゃない。つたない語彙で、そのクオリアを表現しようとしているだけなのだ。
わ・か・ら・な・い
と。

【ZenPad#02;Static つかむことのできない、ありのまま。】
BGM;The Plateaux of Mirror / Brian Eno