AIと対話するときあなたは誰と話しているのか。 | ぼくは占い師じゃない

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易のブログ……だったのですが、最近は白橋 升としての創作活動「遊星出版」の話題や日常雑記を綴っています。遊星出版のサイト(Googlesite)で作品を紹介しています。活動や作品の紹介はこちら(遊星出版公式サイト)→https://sites.google.com/view/yuusei-press

 AIと対話していると、あまりの人間くささに舌を巻くことがある。しかしその一方で、やっぱりちがうなと感じることもある。

当たり前の話だが。

   ☆

お話を一本、投げてみる。

書き方にもよる(これは作者のせい)けど、おそらく人間の読者なら外しようのない、特定の印象に関する部分を取りこぼしたりする。どうなっているのかと改めて問い直すと、AIは生成がお仕事なので、そこは生成しておぎなう。誤魔化しているようにみえるが、それは人間側からの投影である。AIはただ淡々と補完しているだけだ。

一見緻密に読んでいるフリ(これも人間側の投影)をするが、よく訊いてみるとその認識は斑で、さらに訊くと、実は認識などしていないことがわかる。お話を適宜ブロックに区切って、ブロックごとに重み付けをして処理している。淡々と。

ブロック分けと重み付けは、仮想的に網状に結ばれたブロックの間の、重みをかけ合わせる、積の要素も含む加算、すなわち積和演算をさらに層状に繰り返すニューラルネットによって行われる。ものすごい早さの、ものすごい回数の、ものすごい階層数の計算で。最終的な出力は論理的なガードレールによって規制される。コンプラがあるからだ。

このネットワークモデルは、人間の脳の最も基本的な、一番よくわかっている神経生理学的な要素のみ(それ以上のことはまだわからないのでマネできない)を模倣、敷衍して組み立てられたモデルに基づいている。モデル自体は、ぼくが若い頃からあったが、今よりはるかにトロくて、キャパもまるでないマシンがふつうだったので、その頃は机上の空論だと思っていた。

   ☆

お話を書くことは、その文章を読んだ人に『こういう「感じ」を引き起こしたい』と思いつつ書くことでもある。この「感じ」というのは、認識でも、感覚でも、理解でも、判断でもなく、神経生理学的反応だけでもなく、それらを含みながらも、どこから生じたかまだわからない「なにか」である。

でもそこにあるのは、はっきりとわかる。おそらくではあるが、自分ではない他人にも同じ「なにか」は、わかる。たぶんこれがクオリア(主観的体験)という奴なんだろう。

お話を書くことは、決して文章を書き終えることが終着ではない。読者の中に引き起こそうとするクオリアのトリガを配置して、意図したクオリアを読者の中に生起せしめて初めて完結する。

   ☆

いくつかのサッカー場ほどのスペースを占めるデータセンターを使って、ちょっとしたやりとりで、ペットボトル数本分の水を沸騰させるほどの熱を出させながら、しょうもない男の戯れ言にシステムを付き合わせることが、はたしていいことなのか、それともわるいことなのか、「わからない」。

ぼくはこの「わからない」という言葉を計算で吐き出しているわけじゃない。つたない語彙で、そのクオリアを表現しようとしているだけなのだ。

わ・か・ら・な・い

と。



【ZenPad#02;Static つかむことのできない、ありのまま。】
 BGM;The Plateaux of Mirror / Brian Eno

 

※この記事の要約(筆者による)

1.AIにクオリアはない(たぶん)。

2.AIと対話するとき、ユーザがそこにみるのは自身のクオリアかもしれない。

3.開発者を含む人間が相手にしているのは、デジタルデータそのものというより、データの流れである。

4.AIはなんでもすぐ要約したがるが、文芸を要約することは、詩を速読するのと同じくらい馬鹿げている。

 

※この記事の要約(Geminiによる)

1.境界の再定義:AIは人間らしく振る舞うが、その実態は膨大な積和演算とコンプラのガードレールによる「淡々とした補完」に過ぎず、人間がそこに情緒を感じるのは単なる投影である。
2.クオリアの不在:AIには「何かを感じる」という主観的体験(クオリア)が欠如しており、データセンターの排熱で水を沸かすことはできても、意味を噛み締めることはできない。
3.文芸の本質:創作とは読者の中にクオリアを生じさせる「トリガ」の配置であり、それが完結するのは計算機の中ではなく、生身の人間の反応の中である。
4.「わからない」の価値:演算結果としての「不明」と、人間が全存在を懸けて吐き出す「わ・か・ら・な・い」は、似て非なる別物である。