空鏡録? 易? | ぼくは占い師じゃない

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易経という中国の古典、ウラナイの書を
使いやすく再解釈して私家版・易経をつくろう!
というただそれだけのブログ……
だったんですが、
最近はまた淡々と経文に向かっております。

遊星出版です。

ありがたい話で、何回かイベント(主に文フリ)に出店させていただいる中、「空鏡録」という作品についてご質問・ご感想をいただきました。

今回記事では、それらに応じさせていただくつもりで、「空鏡録」の根拠、注意、タイミングについて書きました。

改めて読み直してみると……
出自に関する説明を除き、「空鏡録」を「易」と読み替えてもイケそうな感じになりました。双方とも卜占のカテゴリに入りますので、卜占一般の原理のようなものと、とらえられなくもなさそうです。

「空鏡録」について、ご興味のある方は拙作ホームページをご覧いただければ幸甚です。
→こちら


【空鏡録、使い方の補足】


1.空鏡録の根拠は?

空鏡録のおおもとは、アクティブ・イマジネーションの手法を援用して書いた「夜の石は天に昇り空ゆく星に会えた」という、長い長いタイトルの物語です。


この物語の章立てを取り出して掘り下げ、拡充した結果が「トモルオン」で、さらに「トモルオン」をオラクル・ブックとして使えるように特化したものが空鏡録です。


「夜の石~」→「トモルオン」→「空鏡録」という順番で、蒸留をくりかえしてエッセンスを取り出していったイメージです。

一連の作品は、人間の意識は、普段自分だと思っている表面的な意識から、普段意識できない深いレベルにあたる潜在意識へと連なっており、潜在意識はさらに、普遍的で非個人的な共通の領域に通じている、というモデルに基づいています。

空鏡録の根拠になるのは潜在意識のレベルで、好き嫌いや期待、思い込みといった表面意識の働きをスルーするために、サイコロを使って回答とするメッセージを選びます。

本(文章)やサイコロ自体に特別な力があるわけではありません。それらは空っぽの鏡のようなもので、貴方があずかり知らない貴方自身を映し出します。「神はサイコロを振らない」というのは有名な言葉ですが、貴方がふだんは気づくことのない「貴方」という「神」がサイコロを振るのです。


2.空鏡録はむずかしい?

執筆時に首尾よく潜在意識からのなにかを受け取れていたとしても、言葉として書き下ろす段階で著者の表面意識によるバイアス(偏り)がかかります。空鏡録を書いているときは、むずかしいことを書いているつもりはなかったのですが、そのバイアスが『むずかしい』という印象をもたらしているのかもしれません。

ストレートに答えがわかることもあります。
ですが多くの場合、質問の回答としてメッセージを読み取るときには、読者が質問した文脈(質問の内容、状況)によって、メッセージを読み替える必要があります。

本の冒頭「使い方」のセクションでは「回答になっていなければ忘れてください」と書かれています。とりあえず捨て置き、忘れることは、最もよくある選択であろうと思ってそのように書きました。
しかし場合によっては、「わかるまで」、あくまでも質問の「回答」として読み取ろうとするアプローチもアリです。「読み替えよう」とする動き自体が、質問に対する新しい断面・視点を切り開くこともあるからです。「読み替え」るときには読者の表面意識のバイアスがかかります。

著者のバイアスと読者のバイアス。

得ようとしている回答が、潜在意識の、個別性に依存しないレベルにおける普遍的ななにかから来ていたとしても、個として生きるものどうしの間のやりとりでは、この二重のバイアスはどうしても避けることはできません。


3.空鏡録はいつ使う?

著者の場合、空鏡録は日々の行動指針を示す日常的な羅針盤です。朝起きて、習慣になっているモーニング・ライティングのついでに、『今日の行動指針は?』とたずねてからサイコロを振ります。もともとは「トモルオン」をそのように利用していました。その解釈の記録の集積が空鏡録の基礎になっています。

著者の場合の、もうひとつの利用法は、見た夢の意味をくみ取ろうとするときに、その参考情報として利用することです。だいたいストレートに『こんな夢を見たんだけど、この夢はいったいなにを意味しているのだろう?』と、たずねてサイコロを振ります。あるいはまた、夢の中に出て来た特定のシンボルについて『これはなに?』とたずねてサイコロを振ることもあります。答えは腑に落ちるときもあれば、そうでないときもあります。

基本的には、いつなにを、どうたずねてもかまいません。貴方独自の使い方をためしてみていただければ幸いです。