ans005_032 物語の始まりと、「物語」。 | ぼくは占い師じゃない

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易経という中国の古典、ウラナイの書を使いやすく再解釈して私家版・易経をつくろう! というブログ……だったんですが、最近はネタ切れで迷走中。

ミケ様

お元気ですか。
にゃんこ先生です。

   ☆

「家」というのは平衡状態です。
そこにいる限りは平和と安定が約束されています。

ですが。

いつまでもじっとしてることなどできません。
娘(または息子)たちが、旅に出る理由はそこにあります。

「かわいい子には旅をさせよ」などと誰かに言われるまでもなく、娘・息子たちは動き出します。

これはもちろんたとえ話で、「ひとつのもの」に生じた「原初の衝動」・「初期微動」のことをいっているわけです。

「原初の衝動」・「初期微動」という娘・息子たちは、「ひとつのもの」という「家」を出て、やがてそれぞれに差異という、旅、物語を紡ぎ始めます。

その様子を描いたのが「旅の先天図」です。


【fig064_3 旅の先天図と「異界」(MAP13 P40より)】

娘・息子たちの旅というのは、「異界への往還(いってかえること)」です。

もう少し詳しくお話しすると「原初の衝動」・「初期微動」とは、のべたんの「ひとつのもの」という海に生じた、「ひとつのもの」が「ひとつのもの」自体を認識しようとする最初の「差」です。

そこから始まるところの、「差」どうしが互いの「差異」を認識するプロセスが「旅」です。

「ひとつのもの」はどう転んでも、どう逆立ちしても「ひとつのもの」しかないので、何かして遊ぼうとすれば、自分で自分の中に差を創りだして楽しむ・遊ぶほかありません。

ある「差」から別の「差」を眺めた場合の「差異」はもとの「差」から観れば異界以外のなにものでもありません。

易ではこれを陰陽、または「両儀」とよびます。
それは根源的な陰陽、すなわち「天地」のことです。

神話的には「異界への往還」は娘・息子という英雄の旅ということになります。

易システムは「異界への往還」はすべて物語の元型・ベースととらえています。

すべての物語は「異界への往還」そのものであるか、あるいはその一部であると観ているわけです。

もちろん物語にはそれこそ無限といっていいほどのパターンがあります。

たとえば。

そもそも最初から出立<しゅったつ>などしない英雄もいるでしょう。

「よろこび、はなれて、ふるいたち(前回記事参照)……すべって、ころんで、ハイおわり」ってな物語もあるでしょう。

異界へいったまま帰ってこない英雄もいるでしょう。

いかなる物語であれ「異界への往還」という大きな輪の一部に乗っている……と、そのように観るわけです。

「異界への往還」のプロセスをすべて踏襲する物語もあります。元型的な神話やそれを模倣したファンタジーなどですね。

こういうのは黙っていてもオモシロイ(*1)。
パターン(*2)が意識の奥底にふれるからです。

   ☆

パターンが意識の底にふれて快く感じるのは、パターンが「記憶の鋳型」だからです。

あらゆる事象は「物語」すなわち「異界への往還」なのです。

昼と夜で一日が成り立っていることも。

毎日床について夢を見ることも。

今ここで今生を生きていることも。

さて次回は……もうちょっと「物語」の話を。

ではまた。


★コトバ

異界への往還、鋳型、記憶の鋳型(「物語」)


★注釈

(*1)
「異界への往還」というパターンを意図的に踏襲して大ヒットした物語で有名なのは「スターウォーズ」のエピソード4でしょう。ルークは家を焼かれて、異界に行きっぱなしですが。
ほかにも「指輪物語」、日本のアニメでは「バケモノの子」などがあります。
たぶんこれからもたくさん作られ続けるでしょう。
パターンは不滅です。

(*2)
パターンといえば水戸黄門。
ところで黄門様は、諸国漫遊という異界への往還に
出たんじゃなかったっけ?
黄門様からみれば、下々の暮らすところはまさに異界。
でも毎回、印籠をさらして、黄門様は旅の空にいながらにして「家」にもどる。
各回ごとにも「往還」が成立しているわけです。


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