88:坤
11:乾
TP04:元素
☆
易タングルでは「後天動因図」の組織に従ってインデックスをわりふった。
後天動因図は易システム(作者独自の易解釈)の集大成だ(ていうほどのものでもないんですが)。
後天動因図では「乾」「坤」「泰」「否」は他の60の大成卦とは別格になっている。
「乾」「坤」「泰」「否」は森羅万象、すべての事象が発生する基底、基盤となる場と、そこからたちあがった運動をあらわす。
易タングルは原則ツイストペア、2枚づつのタングルが組になっているが「乾」「坤」「泰」「否」の場合はちょっと特別で、2枚づつの組(乾/坤、泰/否)であると同時に「乾坤泰否」の4枚でひとつの組になっている。
「乾坤泰否」であらわされるのはやむことのない運動とその母体(ようするにすべて)である。
そこではあらゆる可能性(ポテンシャル)が同等にあるために、どこを見渡しても何もないように観える。
そこは、無とか、虚しいとかいった誤解を受けることがあるが、そんなことはない。
無……なにもないわけではなく、虚しくもない。
沸騰した水に生じる泡のように、そこではあらゆるポテンシャルが、あらわれては消えていく。
この活動には休止も停止も終わりもないのである。
「乾坤」と「泰否」では着眼点がちがう。
「乾坤」では基盤となる母体、マトリクスにそのフォーカスが向けられている。
「泰否」ではそのマトリクスにおける無限の可能性のうちのひとつが発展してできた組織、つまりわたしたちのいるこの宇宙にフォーカスがある。
今回は「乾坤」の話である。
【88:坤】
坤のゼンタングルには線の束でできたパターンだけが描き込まれている。
エネルギーの力線をあらわす筋が束になって、白抜きのリングを取り囲んでいる。
このリングは後天動因図で、本源(マトリクス)から立ち上がった自律的実体の象徴であるトーラスを示している。
【本源とそこから立ち上がるトーラス】
そこが白抜きになっていて、パターンはそれ以外のスペースを埋めているが、それはこのゼンタングルのテーマが、トーラスの方ではなくて、それがもともとあった「地」の本源の方にあるということを意味している。
「乾」のゼンタングルも白抜きのリングを囲む同じストリングで描かれているが、こちらのパターンは「坤」よりもカッチリした、規則的なパターンで埋められている。
「坤」も「乾」も実質同じ基盤を描いてはいるのだが「乾」の方はどちらかというとゆるやかな「坤」のパターンよりも幾何学的なパターンを選んだ。
流れるような「坤」の母体と比べると、より硬質な、結晶化していくように観える母体である。
【11:乾】
中央の円はギザギザの線で構成された「スタティック」と呼ばれるパターン(ゼンタングルの公式パターンには皆、奇妙な愛称がつけられている)で描かれている。
易タングルにおいてはこの「スタティック(Static)」というパターンは、衝動的なエネルギー、動き、といったようなものを、なんとなくあらわしている。
【スタティック】
「乾」の中央の円はスタティックだが、坤の中央の円は「スィーナ(Scena)」と呼ばれる線でできた渦巻きのようなパターンだ。
「乾」においてその運動の中心になるのは衝動的なエネルギーだが、坤においてはあらゆる可能性の海におけるゆるやかな凝り(こごり)またはゆらぎである。易タングルの「坤」における「スィーナ」でもって、そんなことをあらわしているつもり。
【スイーナ】
「坤」のタングルの右上の方を見てみると、泡のような「まる」が線でできたパターンの上に描かれている。
ただの○なのだが、これが集まるとゼンタングルでは「ティップル(Tipple)」と呼ばれるパターンになる。
【ティップル】
銭湯のタイルというか、子供の頃に見せられた色覚診断のパターンというか(どっちも古い話です)、そんなものに似ていないこともないが、「坤」の易タングルに描かれたティップルはバラバラの○だ。
この個別ティップルでもって、分離という幻想に巻き込まれた各個々人をあらわした。
あらわした……とかいっても、なにか明確な意図を持ってそうしたわけではなくて、これを描いた時にはそんなことはぜんぜん考えていなかった。
少なくとも意識的には。
一連のゼンタングルを描いていく中で、このティップルがちょいちょい顔を出し始めて、だんだんそのような……これって……分離した「個人」かしらん、といった感じになっていった。
ゼンタングルを描き続ける旅は、ここで生まれた分離した個人の(個人というのも幻想だが)旅でもある。
それぞれの易タングルに必ずティップルがあるというわけではないが、折に触れ顔を出す、といったところ。
「坤」のティップルには、公式パターンのティップルとちがって、中心にヘソのような点がある。
この点は幻想である各個人の中心に埋め込まれた唯一の帰り道「ゼロポイント」である。
この点を道しるべに各個人は母体、マトリクスへと帰っていく。
64枚のゼンタングルはその旅路をあらわしているともいえるかもしれない。
それはつまり「ティップル(=分離という幻想にとらわれた個人)の旅」ともいえそうである。
旅には始まりがある。
始まりがあれば終わりがある。
理屈ではそうなる。
だけどいつも見えるのは目の前にあるものだけ。
旅とか終わりとか始まりとか。
ほんとうはそんなこと、どうでもいいのかもしれない。
☆





