だけど、その感じは、「占う」ということは結局のところどういうことなんだろうか、ということをもう一度考え直すきっかけになった。
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易システムは、問いとそれに対する回答から成り立っている。
問い(悩み)を抱えた相談者がいる。
占者が卦をたてて、それに対する回答・提案・アドバイスを与える。
もし適切な回答が得られて、それが相談者の役に立てば、それはそれで占者にとっては気持ちのいいことだし、一定の満足感もある。
相談者と占者が一致しているケースである一人占いの場合も同じことだ。
では、ただ単にそれをくり返していくことが、「占う」ということのすべてなのか。
なんかちがう。
それじゃたぶん、いつまでたってもなにもみえてこない気もする。
いったいなんのために「占う」のだろうか。
よりよく生きるため?
では、ぼくたちはなんのために生きているのか。
まさか、問いと答え、ひたすらそれだけをくりかえすためにだけ生きているわけでもあるまい。
だいたい、「よりよく生きる」の「よく」ってのはどういうことなんだ。
一過性の問い、そして一過性の答えは無数にある。
しかし、つまるところ、あらゆる問いはひとつの問いに集約されるのではなかろうか。
「私(人間)っていったいなんなの」
まずはそれがわからなければ、「生きる」意味も、「よい」の意味もでてこない。
易システムを使用する際の「問い」には原則、制限はない。
ということは、先の問い、「私(人間)っていったいなんなの」をシステムに放り込んでもよい、ということになるのではないだろうか。
そうして、システムの回答としてあるひとつの大成卦が得られたとしよう。
この大成卦を、あなたという一人の人間として観たててみる。
「私(人間)っていったいなんなの」という問いの回答としては、当然そういう読みになるだろう。
システムの回答パターンとしては64通りある。
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そのうちのどれが、あなたの、「私(人間)っていったいなんなの」という問いの回答にあてはまるのか。
一生に、ひとつ問い。
一生に、ひとつの回答。
すべての問いとすべての回答を包含する、「問い」を発し、「回答」を得る。
これが「占う」とうことの究極的な意味ではないだろうか。
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占術には命、卜、相、とある。
易は原則、そのうちの「卜」にあたる。
「卜」は比較的スパンの短い問いに対して有効であって、瞬間瞬間における決断を補佐するような、日常生活の一断面をとらえる。
どちらかといえば微分(刹那)的な占術である。
一生の「問い」と「回答」ということになると、それは当然、積分、「命」の領分ということになる。
「相」の方は勉強不足でよくわかっていないが、どちらかというと「命」に近いと思う。「卜」ほど刹那的ではないだろう。
易システムは、筆者独自の解釈による「易」である。
そこではシステム構造の構築という名目で、問いをその根源に向かってたどることによって、いつの間にか「卜」の分野にあった易が「命」の領分に入り込まざるをえなくなってしまった。
いまから占星術や推命や算命のような命占を勉強するにはちょっと手遅れ。
守備範囲を逸脱しているように観えるのは「易システム」のハナシで、そこは、伝統的な「卜」としての易とは切り離して考えてください、ということで勘弁してもらおう。
東洋的(中国)な占術にかぎっていえば、易は、命・卜・相、いずれの領分においてもその基盤に関与しているので、その応用は「卜」に限らなくてもいいのではないだろうか。そんな気もする。
少々いいわけじみているかもしれないが。
さて、「あなたの易卦(OD)」は64卦中のいったいどれだろうか。そして、「私(人間)っていったいなんなのだろうか」。
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「大成卦と正八面体」というテーマを設けてみた。
新しいお話をここから始めてみたい。