ユビキタス・キャプチャリング | ぼくは占い師じゃない

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易経という中国の古典、ウラナイの書を使いやすく再解釈して私家版・易経をつくろう! というブログ……だったんですが、最近はネタ切れで迷走中。

「書棚」のテーマで書き出したので、
とりあえず、本の紹介から。

「情報は一冊のノートにまとめなさい」
奥野宣之
Nanaブクックス

装丁が大学ノートそのままなので、書店で目にした人も多いだろう。
タイトルそのもののハウトゥものである。
アマゾンの書評では例によって賛否両論だが
(すごい、現時点で90もコメントがある!)
ぼくとしてはひさびさにマトモな本を読んだ気がしてよかった。

note

この間もどこかの書店で平積みされているのをみかけたので、
まあ、順調に版を重ねているのだろう。

内容は……

とにかくなんでもかんでも時系列順に一冊のノートに放り込み、
あとで参照に困らないように別途PCでインデックスをつくっておく。

簡単にいってしまえばそれだけだが、
インデックスを作るのがメンドーだとか、
そんな、全部を一冊にするなんて無茶や!とか、
まあ確かにそうなんだけど、この本のいいところは、
そういう「方式」にあるのではないような気がする。

実は大事なポイントは別にあって、それは

「いつもメモできる体制をつくっておく」

ということだ。

いや、「いつも」では弱いかもしれない。
「いついかなるときでも」とした方がいいかも。

たとえば今これを読んでいるあなたに、
「今、この瞬間」、
とてもすばらしい……天啓といってもいい
ヒラメキが訪れたとして、
いますぐそれをひかえておくことはできるだろうか。

これが、そういわれてあたふた紙と鉛筆をさがしているようだと、
その間に「天啓」はぶっとんでしてしまう。

もちろん、上記の本ではそのことについてもふれられており、
だから、「それ用の手帳」を買って構えるのではなく、
どこのコンビニでも手に入る「A6ノート」と、
紙と書くものにはこだわらないことが推奨されているのである。

たとえば、著者はこうしているという例が多数出ているが、
これはそうせよ、ということではなく、
それにこだわれというということでもない。

繰り返すが、大事なのは、
なんでもかんでも思いついたことをすぐひかえることである。

そんなことを考えながら空き時間につらつらとネットをながめていたら、
ユビキタス・キャプチャー
と言う言葉に行き当たった。

まあ、ぼくが考えるようなことはすでに先人が考えているわけだ。

どう整理し、どう検索するかといった「方式」はそのあとの話。
まずはとらえる(キャプチャーする)ことが大事。

こうしてとらえられた記録……とくに想念にはさまざまな種類がある、
と言うのは.2006年1月「祖母とカミサマ 」に書いたとおりだが、
再録すると、

人の頭に去来する想念には、

・自分でつくりだしたもの、
・他者がつくりだしたもの、
・深い自己からあがってくるメッセージ
・別の存在からの情報

となっている。

こりゃおもしろい。

「ユビキタス・キャプチャー」というのは、
とらえかたによっては、チャネリングの方法なのである。

別に自動的に手が動くことばかりがチャネリングではない。
別にいちいち白目をむいてトランスに入ることもない。
どこかで書いたかもしれないが、
こういった「いかにも」といったやり方は、
たぶん、古いやり方である。

書くのは自分、
あくまでもいつも意識しているこの自分である。
そうなんだけど、
浮かび上がってきた想念にできるだけその自分が、
手をくわえないで、バイアスをかけないで記録する。

これがむずかしい。

場合によっては、一時的にそういう想念を別人格ととらえて、
「なにがいいたいのか」ということを質問してみるのも
効果的かもしれない。

ぼく自身は易システムは、
まさにそれを意図的にやる仕組みだと考えている。

まあ、だれだって、刺身は新鮮なのを食べたい。
物流がいくら便利になっても、
魚は産地に近いほうがウマイに決まっている。

もたもたしていたり、
あれこれいじりまわしたりしていると、
全体の姿さえわからないスーパーの切り身になってしまう。

ちなみに「魚」は、ユングによると無意識に
与える滋養・養分のシンボルなのだそうだ。

ベティ・ベサーズの「ドリームブック」をみると、
魚は、精神的・霊的食べ物と書かれている。

ソウルフードというわけだ。

新鮮なお魚をたべましょう、みなさん。