「地球にやさしく」
何の本だったかは忘れてしまったが、
だれかがどこかで同じようなことを書いていた。
なにって、
このコトバが好きじゃないってハナシ。
誰が言い出したのか知らないけれど、
ぼくもあんまりこの言葉が好きじゃない。
なんとなく、
地球と同じ目線で言ったコトバじゃないような気がする。
どっちかっていうと、人間様のほうが上というか、
見下しているというか、どことなく不遜で高飛車な感じがする。
いかにも対岸のなにかを眺めているみたいに、
「地球」といっているが、この感覚も正しくない。
では「環境」といったら?
このコトバにも「自己をとりまく『モノ』」というイメージがあり、
なんとなくワンクッション置いている感じがする。
そりゃ、自分が生きていけなくなるのは困るが、
そうでなきゃ、別に自分とはカンケーない、
といったニュアンスがただよう。
こんなことを感じるのはぼくだけかもしれない。
だけど、よく考えてみると、自分を構成している素材のうち、
なにひとつ、自分が(人間が)無から創ったものはない。
すべてすでにあったものを使っているだけ。
ぼくら自身が、黙っていても地球なのである。
物質は生命を生み、生命は心を生み出した。
物質は生命の土台であり、生命は心の土台だ。
このプロセスもぼくたちが創ったものではない。
ぼくたちが創ったものといえば、いろいろあるが、
目に見えるところでは、技術や文明は間違いなくそうだろう。
技術や文明は心を土台にしている、といってよさそうだが、
どうも、それら自身が土台になっている心や、
心が土台になっている生命をも、
侵害するハタラキもあるようだ。
自分で自分の土台を壊しているわけだから、
世話がないといっちゃあ、世話がないのだが、
「地球にやさしい製品です」
は、やっぱりオカシイ。
ここは正直に、
「ちょっと自己破壊的な製品です」
「すごく自己破壊的な製品です」
「どうしようもなく自己破壊的な製品です」
この3ランクぐらいでいったらどうだろう。
だれも買わない……かな。
完全に自己破壊的「でない」製品を
つくることは可能なのだろうか。
そもそも人間って、
自己破壊的なイキモノなのだろうか。
仮にそうであっても、別に問題はないそうだ。
地球上に何千万種(?)とある生命のパターンは
人間が自己破壊的な選択をしたときの保険なんだそうで。
生命のカタチは別に人間のそれだけではないのである。
……っと、
これもなんかの本で読んだハナシだが、
何の本だったか忘れてしまった。
とまあ、台風一過、快晴の空の下、
かみさんのパンツを干しながら、
ガラにもなく、チキウのことなど
考えてしまうのであった。