グーゼンということ | ぼくは占い師じゃない

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易経という中国の古典、ウラナイの書を使いやすく再解釈して私家版・易経をつくろう! というブログ……だったんですが、最近はネタ切れで迷走中。

大事なことだと思うので、グーゼンの話を続けます。

「グーゼン」という言葉はクセモノです。

「そんなのグーゼンだよ」というとき、その言葉の中には、

『悪いケド、アタクシはその出来事にイミを置いていません』

というメッセージが同時に含まれています。
『イミないじゃ~ん!』ってわけです(古いナ)。

どんなことにイミがあってどんなことに「ない」のか。
それは、ヒトそれぞれですね。

ナニにイミを置くのか?

それはすなわち、この世界についてのものの観方~そのヒトの世界観に直結するハナシで、極端にいうと「すべてに意味がない」ととらえることもできます。
「すべて」って、どこまででしょう。
そういっている、ご当人様も、含まれているんでしょうか。
そーいう、
「意味などない。信じるものなどなにもない……フッ」
というふうに、なにもかもをとらえることを、
ニヒリズムというそうです。

ぼくはあんまりスキな世界観じゃありません。
別にカッコいいとも思わんし。

ある問いが生じた。
もちろん解決するのは自分だけど、
ヒントを得ようと思って、アタマをカラッポにして、
真剣に(「深刻に」じゃないところがポイント)コインを投げた。

その人にとっては、「その時出た」コインの裏表は、
コインの裏表以上のイミを持ちます。

考えてみたらアタリマエか。
だって最初から、そのつもりで投げたんだもんね。

当然、彼または彼女は真摯に、
真剣にその回答を受け入れるでしょう。
「深刻に」じゃないところがポイントです。