いちかの事件簿Ⅰ | さ・い・お・その隠し部屋

 

『天使さん。ちょっと......』

 

『は、はい......』

 

手招きに従って、わたしは社長室へ入室した。

ブラックオークのローテーブルを囲む、4脚のソファを避け、社長の座るデスクの前まで、おずおずと歩みを進める。

 

この部屋に入ると、心中は穏やかではいられない。

たぬきのような可愛らしいお腹と、親戚のおじさんのような、優しくも頼りない表情を形成するその口元から、今度はどんな言葉が飛び出すのか、戦々恐々とする。

 

これまで個別に呼び出されたことは何度もある。その度に、ろくでもない話しか聞かされてこなかった。

 

無謀な補助金がほしいだの、フィットネスクラブにFC参入したいだの、社員の誕生会を毎月やりたいだのと、親におもちゃをせがむ子供のように、我儘を申し付けられ、その都度、頭を抱えてきた。

 

ある日、ソフトバンクグループ代表の孫正義さんの講演を観たあとには、うちもAI化を進めたいとおもう。金魚になるな、と意気込む。

 

それは構わないんだけど......。

 

『ハァ......社長。AI化はいいとして、なにをどうAI化にするつもりですか? 技術開発はどうするんです? 打診先の選定リストのご用意は? その予算をどう組むつもりなんですか?』

 

『......ChatGPTを使おうとおもう。無料だっていうじゃない!』

 

 

 

は?

ちんぷんかんぷんである。

 

 

また別の日には、不要になった業務用のプリンターを、どう処分するかを検討させると。

 

『このあいだの件、木下くんが提案してくれたメルカリで売ることにしたよ』

 

『えっ、30台もですか?』

 

『そうだよ。現金にしたほうがいいからね!!』

 
『それだれがやるんです? 言っておきますけど、うちはやですよ?』
 
ばかなの?
ねぇ、ばかだったの?💢
 
コイツの脳みそは、ホルマリンに漬かっているのでは?

そう疑いたくもなった。前後左右のことを考えられないほどに、老いぼれてしまっているのか、そもそもの性格なのか、どちらにしても、わたしのあいた口は、顎がはずれるほどひらいてしまう。

 

わたしだって全て否定したいというわけじゃない。

できる限り意思決定に沿うよう考えてあげたい。

でも、無理なものは無理だし、無駄なものは無駄だと伝えないといけない。それがわたしの業務でもあるから。

 

だけど、この老いぼれには、わたしの言葉が理解できないようだ。数字やデータを提示してもなお、なかなか、理解を示してもらえない。目先の利益だけハイライトされて見えているのか、その裏に隠されたリスクや労力に対しては、無頓着を極めているから、目に見えない利益と損失を天秤にかけることを知らない。

 

だから、先走った判断をするし、間の抜けたことを口走る。そうして大恥や大損を晒しても、自分が間違っていたと認められない頑固者で、さらには知ったかぶる。

 

AIと聞けば、うわごとのようにAIAIと口走り、メルカリと聞けば、なんでもかんでもメルカリで売ろうとする。物事の本質どころか、上皿さえも理解していなくて、生産性の向上や、業務効率化などを口にするけど、逆行した発想に、どうしたらいいのかわからない。

 

つい先月も生産性の向上を謳う社長の意思と、今後の雇用計画の立案を加味して、リモートワークやフレックスタイムの制度の導入を推進するも、規則正しい時間に出退社が行われないという、無意味な常識に捕らわれ、何度も差し戻された。一向に前へ進めさせてくれないのに、はやく草案を作成しろと催促してくるのだから、ノイローゼになりそうだった。

 

あとから知ったことだけど、この社長のいうAI化というのは、chatGPTを活用することを差している。さらに、そのchatGPTと言っているAIは、なんとbirdだった。どうりでまったく話が噛み合わないはず。孫正義さんの話の、いったいなにを聞いていたんだろう。もうただのクソジジイじゃん。

 

わたしの出向先は老人ホームでした。

 

 

『いい話と悪い話があるけど、どっちにしようか?』

 

わたしは耳を疑った。

なにを言われるかと構えるわたしの目の前で、ユーモアを交えてきた。これが現実に起きていることだ。震えが止まらない。

 

ジョニー・デップかブラッド・ピットか知らんけど、ドヤ顔でハリウッド好きのクソジジイがなんか言ってるのだ。Dr.デイビッド・バーンスタインの著書、Youre Oldをぶん投げてやろうかと、拳を強く固めた。

 

『......えと、じゃあ、悪いほうで』

 

ピクリとも表情を動かさず、冷静を装いそう告げる。

この手のジョークは悪い方から聞くのがセオリーだとおもう。あとに控えている良いニュースがもっと悲惨だったり、考えようによってはマシみたいな内容だったりもするから、そのフリといったところだろうけど、わたしはそのお決まりごとを忠実に守ったわけじゃない。きっとジジイはジョークだということにも気付いていないとおもうから、本気でいいニュースと悪いニュースを用意してるに決まってる。なら、せめて、心臓に負担の大きい方から先に聞いておきたい。

 

『佐山さんがセクハラしましたよと』

 

次から次へと、人を飽きさせない。

この会社はディズニーランドかなにかですか。

 

『相手は?』

 

『渡辺さんだよ』

 

『はぁ!? まじですか?』

 

『あぁ......よわったね』

 

......to be continued