最近、流行りの映画やドラマを見ていると生きづらさを抱えた登場人物が出てくる作品が多くなっている。
それらを見ていると、もしかしたら時代は今病んでいるのかと心配にもなってくることも多い。
まあとはいうものの、私の若い頃にも自分探しなんていうのが流行っていたりして、年配の論者からは、あれくらい恥ずかしいものはないなどと言われていたのを思い出したりもするものだが。
そういう意味では、いつの時代も若者は生きづらさを抱えていて繊細なものなのかもしれない。
ただ気になるのは、今の時代、スマホなどの急速な普及により、身体を使わずに頭だけを働かせるような社会に段々となってきている点だ。
ああいうのに子供の頃からどっぷりと浸かっていると、それだけで育った子供たちは一体将来どんな大人になってゆくんだろうと要らぬ心配をしたりする私ではある。
話は変わるが、子供の場合、外で遊ぶというのはその子の成長にとって極めて大事なことだと思うのである。
例えば鬼ごっこなどなら、鬼に捕まりたくない一心で、夢中になって駆け回る。
危ない時には全力で走り、危機がそうでもない時にはゆっくり走るなど、緩急自在に身体を動かす術を自然と身につけることができる。
遊びの中で自然と体力の涵養が行われ、長い時間走り回っても疲れないだけの技術と体力を養うことができるのだ。
そして全力で走ってもこけたりしなくなるような身体の使い方も自然と身に付いてゆくわけで。
例えば、サッカー大国ブラジルでは、ドリブルなどの基礎技術を学校やサッカースクールなどで特に教えるわけではないという。
そのようなサッカーの基礎技術は子供の時からの遊びの中で自然と身に付いてゆくものだというのだ。
そこが学校体育でサッカーを教わる日本人との技術の差なんだと以前に聞いたことがある。
これはサッカーだけの話でもないだろう。
様々な面において、子ども時代における遊びの効能というものは十分に考えられるように思う。
例えば、年齢の多様な子ども同士が一緒になって遊ぶことで社会的能力、ひいては政治的能力というものも自然に身についてくることになると思う。
何も無理して論語や政治学などを覚えさせなくても、遊びの中で自然と自分より体の大きい子には力では敵わないことを知ることができたりするわけで。
で、そのような経験を通して、力の強い弱い、先輩後輩といった長幼の序を子供たちは学んで行くことになるだろう。
また、ガキ大将なんてのに遭遇すると、ひとまずその前では折れておいて空気を読んで上手く立ち回る術を覚えて行ったりとか。
またいじめなどの体験を通して、世の中には随分ひどい人間もいて、社会とは不条理に満ちたものだという現実的な認識も深まっていくに違いない。
しかしそれでも、人を傷つけるのも人なら、一方で人を救うのも人だと言うことも自然と分かっていくようにもなるだろう。
全てが理想通りにきれいに回って行く世の中というものがもしあったとしたら、それは相当気持ちの悪い世の中であると思うのだが。
まあ、一皮むいたら汚いのが人間。
その汚い人間が集まって形成されているのがこの社会。
だから、その汚さに耐えられないのは、むしろ人間の弱さなのであって。
清濁併せ吞むではないが、本当の政治力とはそのような汚いものに対する耐性の強さの中にこそあるように思う。
そのような厳しい認識もまた遊びの中で培われてゆくものかと思う。
政治学概論なんてのを読んでも子供の頭の中には何も残らないが、遊びを通じて得た倫理や振る舞い、政治的な立ち回り術などは一生の財産として子供たちの身体の中に深く刻まれて行くはずである。
かように子供にとって遊びとはあらゆる要素を含んだ自然発生的な学習の場であることがお分かり頂けたかと思う。
我々大人たちはこのような素晴らしいものを子供たちから奪うべきではない。
それをせずに幼い頃からスマホを持たせて身体を媒介しない頭だけの遊びを覚えさせるのは子供たちにとって有害なだけではないのかとも思う。
子供にはやはり外で身体を思いっきり使った遊びをさせるのがあらゆる点から考えて一番いいように思うのだがどうだろう。
それをせずに学校などで、覚えることもままならないような詰まらない授業で時間と頭脳を浪費しているのは実にもったいないことだ。
それよりはまず遊びだろう。
子供にとってはそれが一番。
学校の授業で真に必要なのは、とりあえず読み書きそろばんだけかとも思う。
大人もまた身体を使わずに頭だけを使っているとどこか身体の調子がおかしくなってくるように思うのだが、どうなんだろうね。
今の時代の生きづらさ、精神的な疾患の大半は身体を動かさずに頭だけをフル回転させていることからくるもののようにも筆者は思っているのだがどうなんだろう。
例えば筆者も昔、若い頃、鬱っぽい症状で苦しんでいた時、ただひたすら散歩をして遠くまで歩いていくとたったそれだけのことで不思議とその時間だけは症状が改善していたことを思い出す。
案外、人間とはそういうもので、身体を積極的に動かすと心の抑鬱的な症状は軽減していくようでもある。
後はとにかく喋ることだろうか。
誰かに自分の不安や愚痴を聞いてもらうこと。
それに関しては、どこかで読んだのだが、たしかお寺さんが最近は民の悩みや愚痴を聞かなくなったということが書かれてあった。
そしてその分、精神科医の仕事が増えることになっていると。
一説によると日本全国のお寺の数はコンビニより多いというのも何かで見たようなことがある。
それだけの数のお寺さんが、自分たちの受け持ちの檀家さんに寄り添い、悩みや愚痴を聞き、帰りには寺の本来の販売物である「法」をほんの少しだけ持って帰ってもらえばどうなるか。
それだけのことでも全国単位で実行してもらえれば、日本の社会は随分とよくなっていくはずである。
現代の民が悩みや愚痴を吐き出せるのは精神科医やバーテンダーや美容師理容師だけというのも淋しい話で、本来ならそこにお寺さんという宗教的な軸を持った人が入ってこなければならないはずである。
そのために、坊さんは一般庶民が出来ないような修行をし、そんな修行を通して、不完全な人間には到底完全には実行しきれない仏教倫理の厳しさを学び、人間の弱さを学んでいるはずなのである。
そのような体験、見地から人々の悩みの本質を見抜き、大所高所から物を言えるのが本当のお坊さんというものであろう。
時には傾聴に徹し、アドバイスはあえてせず、またある時は積極的に意見を言って人々を導く。
そのようなカウンセリングを通した仏の教えの実践活動、それを是非これからのお坊さんたちにはやって行って欲しいと思うのだ。
そして分業体制の社会の中で本来のお寺さんの受け持ちである「法」を売ることをやっていってくれれば、我らが日本国の将来は明るいはずなのである。
なんだかとりとめのない話になったが本日はこれまで。
同志の皆さん、一灯照隅の志を以て、これからもこの国と社会に貢献し精進して参りましょうぞ。
それでは。
本日も最後まで読んで頂きありがとうございました。