本日は書評です。

 

 

「しょぼい生活革命」、内田樹、えらいてんちょう(矢内東紀)、中田考、2020.1.25初版、晶文社、税別1500円。

 

この本に出会ったのは善通寺の古本屋でのこと。

立ち読みして、その内容のあまりもの面白さに痺れて、そのままレジへと直行した。

700円で購入。

 

著者の内田樹さんは1950年生の仏文学者。

仏現代思想に詳しく、一方で合気道の有段者でもあり自分の道場も持っているという人。

えらいてんちょう、矢内東紀さんは、1990年生のユーチューバー、経営者。

両親が全共闘の生き残りで、左翼コミューンの共同生活の中で育ってきたと言う人。

かなり特殊な出自を持った人だ。

でも面白いのだ、この人が。

中田考さんは1960年生のイスラム法学者。

本書では司会を務める。

 

前書きより。

「東大全共闘だった両親の下で、共産制のコミューンで育ったという驚嘆すべきライフヒストリーをうかがい、朝起きられないので定職に就かず、「しょぼい起業」をしたり、ユーチューバーとして収入を得ているという話を聴いて、「ほんとうに新しい世代」の人なのだと思い知りました。

 

一番驚いたのは、彼は僕たちの世代が口角泡を飛ばしてその理非を論じ、身銭を切って学習したり、あるいは批判してきた知見を、「生まれたときからそこにあったもの」としてやすやすと、手になじんだ道具のように扱うことができる、そういう世代の人だということでした。」

 

続いて本文より、えらいてんちょう(矢内東紀)さんの発言から。

「僕の家においては、革命的か反革命的かということが測られていて、僕は革命的であろうとしたのですが、すると現実には、個人主義の否定が行われるのです。

個人主義の否定とは具体的に言うと、ある団体やある党では、一つであることが求められます。

 

私はそれをたぶんある種、身体化していたので、結果、何が起きるかというと、他人のことを自分のように扱ってしまう。

要するに他人も私と同じように思考して行動できるのだと思ってしまう。

それに基づいて行動して、失敗したことがあるんです。

最近ようやく個人主義というか、個人という単位がある種の意味を持っているとわかってきました。」

 

本文より内田樹さんの発言。

「僕は60年代の終わりから70年代にかけて学生運動、全共闘運動の渦中にいて、活動家たちを間近で見ていたんですけれども、彼らに決定的に欠けていたのが身体性だったと思います。」

 

「でも、今にして思うと、中途半端であったり、葛藤していたり、いくつかの原理が拮抗していて、にわかには答えが出し難い状態こそが「身体を持っている」ということであって、そこからしか、多数の人間が、それぞれの個別性を維持しながら共生できる環境って生まれないと思うんです。

 

だから全共闘運動って、いきなり始まって、いきなり終わりましたね。

生身の身体のうちに根拠を持った運動や組織だったら、もっとゆっくり始まって、運動が限界に当たっても、かたちを変えて、生き延びたんじゃないかと思います。

それができなかった。

それは(全共闘運動が)身体性を持っていなかったからということに尽きるんじゃないかと思います。」

 

まさに左翼運動の最大の限界がここに言い尽くされていると感じる。

私が左翼より右翼、ひいては伝統的な東洋思想に魅かれる理由もここにある。

古い東洋思想には何より身体性に基づいた自然発生的な思考が展開されているのだ。

人間の現実、実際に即した思想というのか。

 

西欧近代の学問をやると、やればやるほど心が渇いていくのが分かるが、東洋思想は反対にやればやるほど、その根源的な心の渇きのようなものが癒えていくのが分かる。

長い間、ずっとその差は一体何なんだろうと思っていたのだが、この本を読んでそのことの意味が初めて理解できた。

それは思想に含まれている身体性の有無にあったのだということ。

長い歴史と人間の現実に裏打ちされた伝統的な東洋思想の素晴らしさ、人間学の素晴らしさ、改めてそのことを思った次第。

 

駆け足で本書の魅力を紹介してきたが、ここに挙げたのはこの本のほんの一部。

本書にはまだまだ、刺激的で魅惑的な論考が目白押しで、読んでいて本当に楽しく、面白かったなあ。

興味のある人は是非手に取って読んでみて欲しい。

 

 

最高の本を書いてくれた、内田樹さん、えらいてんちょう(矢内東紀)さん、中田考さんに感謝。

その本を出版してくれた晶文社さんに感謝。

その本を売ってくれていた善通寺の古本屋さんに感謝。

その他、関係者の皆さん方に感謝。

そして今日も最後まで読んでくれたあなたにありがとう。