<ドラマ ミスターサンシャイン>
 
6章 朝鮮の人物-56 近代7
独立協会と万民共同会 リサンジェ李商在
 
 

 

1896年〜1898年に我が国でも自由民権運動が吹き荒れました。
今回はその運動を主導した「独立協会」と、その影響を受けながらソウルで起こった自由民権運動で有る「万民共同会」運動を主導した人物について、特にリサンジェ李商在を取り上げたいと思います。
 
まず「独立協会」ですが1896年7月に設立された社会政治団体です。
 
<リサンジェ>
 
リサンジェ李商在、ナムグンオク南宮檍と、その後親日派に堕ちたユンチホ尹致昊、ソンビョンフィ孫秉熙や親米派のソジェピル徐載弼らが大きく関与して居る為、共和国で余り評価されない団体です。
李承晩李完用など元親露派なども所属して居ました。
韓国でも最近では活動内容が知られるにつれ評価は下がって居ます。
 
<ナムグンオク>
 
立憲君主制自由民権運動を進めました。
 
甲申政変でアメリカに亡命した徐載弼1895年親米派になり下がり帰国して、これまた親日派になり下がり帰国した朴泳孝と共に独立門の建設を主張しました。
 
<独立門>
 
以後朴泳孝はクーデター陰謀容疑で追放され、1896年2月俄館播遷アグァンパチョン親日派は排除されましたが、独立門の建設を主張する徐載弼だけは残り、独立協会の前身である「独立門推進委員会」を設立します。
 
<ソジェピル>
 
これは当時清国への事大主義の象徴だった迎恩門を壊し独立門を立て、慕華館を潰し独立館を建てようと言う運動です。
 
↓↓↓迎恩門についてはコチラ↓↓

 

<独立協会と独立新聞>
 
 「独立門推進委員会」は王室の資金も入った政府系団体で、1896年4月独立門を作る為、広報兼開化広報用に独立新聞を発刊、独立門を作るために独立協会を作りました。
 
↓↓↓独立新聞はコチラを参考↓↓

 

1898年3月高永根などがソウル鍾路通りで万民共同会を主催して、一般市民の世論を集め政府の圧力団体となりました。
全国各地に支部を設置し、約4千人の会員数を持つ団体となり、万民共同会に朝廷の官僚を参加させ「官民共同会」を開き、近代議会で有る「中樞院チュンチュウォン」を開設許可が受け入れられるなどの成果を挙げました。
 
<迎恩門>
 
ロシアに利権を譲る事を反対して同じく1898年3月には大規模なデモを行って計画を白紙化させて居ます。
 
高宗はこれを非常に不快に思った為、官民共同会の前に徐載弼は会長を解任され、徹底した親露派でその後乙巳5賊になる李完用が第2代会長に、その後尹致昊が3代会長、リサンジェ李商在が副会長になります。
 
<リサンジェ>
 
ここで、共和国でも比較的評価されて居るこの運動の重要人物リサンジェ李商在の生涯について見ましょう。
彼は1850年生まれ1927年没と比較的長寿で、その後の独立運動家としての面貌も備えて居ます。
 
幼くから神童と呼ばれましたが1867年科挙に落選、一生在野で過ごす覚悟を決めるも親族の勧誘で当時大臣だったパク・チョンヤン朴正陽の個人秘書を務めました。
 

<紳士遊覧団>

 

1881年、パク・チョンヤンの推薦でキム・オクキュン金玉均など10人余りで構成される紳士遊覧団の修行員として日本に渡ります。
この時、日本の新しい文物と社会の発展を見て大きな衝撃を受け開花運動に身を投じる覚悟を決め1884年に新設された郵便局の重責に任命されるもその年のカプシン甲申政変の失敗によって故郷に下りました。
 
1887年パク・チョンヤンによって官吏に任命、その年6月初代駐米公使となった彼の書記官としてアメリカとの国交締結に尽力しました。
 
帰国後、学問機関で有る『学務衙門參議兼学務局長』となり新教育制度を創案して師範学校・中学校・小学校・外国語学校を設立、本人も外国語学校校長をも兼ねるなど教育事業を精力的に進めました。

 

 

<郵政局庁舎>

 

1896年内閣総務局長に上がり貪官汚吏などの駆逐に力を入れ、この年7月、ソジェピル徐載弼・ユンチホ尹致昊などと上記の『独立協会』を組織し、会が主催した『万民共同会』議長などを務めました。
 
「万民共同会」が鍾路で開催された時、斥外・皇権確立などの6つの条項を議決し、2度上訴を上げ警務庁に拘禁されましたが、周囲の上訴で10日ぶりに釈放されます。
 
<近代議会 中枢院>
 
しかし、1898年12月25日、「独立協会」が政府の弾圧と「皇国協会」の妨害で解散、「万民共同会」運動は失敗に終わりました。
 
彼はすべての役職を投げ捨て政府を弾劾しました。
そのため政府大臣の憎しみを受け、1902年6月政府転覆を陰謀したと言ういわゆる『改革党事件』により再び拘禁され、1904年2月にようやく釈放されます。
 
1905年に『乙巳条約』が強制締結された後、高宗
の切ない要求によりしばらく議政府副参謀にとどまり1907年法部大臣の交渉を受けましたが固辞し、軍隊解散があった後政府職を断ちました。

 

<イサンジェとYMCA>

 

1902年、拘禁されていた時キリスト教信者となり、釈放された後共に刑務所にいた金貞植、兪星濬などと共に、『キリスト教青年会(YMCA)』に加入し、初代教育部長になって民衆啓蒙に勤しみます。
 
1910年植民地化を迎え日本は武力で抑え付ける『武断政治』を強行し、1913年に上記「青年会」組織も破壊。
幹部たちは追放・拘禁・国外追放や海外亡命の憂き目に会いましたが、彼は総務に就任して死滅直前の
青年会を死守し、1914年には全国の学生YMCAを網羅した『朝鮮キリスト教青年会全国連合会』を組織しました。

 

<三一独立運動>

 

この時、すべての民間団体は解散、集会・出版・言論の自由を完全に奪われましたが、ただYMCAだけは解散されずに国内の唯一の民間団体として残存し、1919年『3・1運動』の重大な足場になりました。
それ以降もYMCA代表として各種講演会・討論会・日曜講座・農村運動・地方巡回講演など幅広い民族運動を主導し、1922年には『朝鮮教育協会』を創設して朝鮮民立大学既成会の会長として行動します。
 
1927年2月15日、民族主義陣営と社会主義陣営が合同で「民族の単一戦線」組織を結成し、日本と闘うことを目標に『シンガンフェ新幹会』を組織する際、創立会長に推薦されますが暫くして亡くなりました。
この様に彼の業績は1900年代以降、特に2020年以降の現代がメインとも言えますが、教育啓蒙活動に勤しんで生涯だったと言えるでしょう。
 
<万民共同会を提唱>
 
話しを1898年に戻しましょう。
 
中枢院の設立を求める600人の上訴を上げ、議会設立運動に乗り出し、王朝500年来初めて民衆のパワーでそれを勝ち取りました。
 
 
その頃反逆事件が起こり、廃止された筈の連座制が適用されると群衆のデモが連日続き、高宗は恐れ大臣7人を全て更迭、パクチョンヤン朴定陽内閣を誕生させました。
バクチョンヤンは独立協会の代表を呼んで朝鮮史上初めて宮廷内で官民会議をしました。
これらの議論の末、中枢院(議会)を設立して官制(議員)を構成する事が決定し、独立協会は中枢院議官の半分25人を選出する強大な権限を得ます。
 
<ユンチホ>
 
続けて万民共同会は群衆を動員してデモを続け、万民共同会の大会に大臣が参加する事を要求、10月にパクチョンヤンなどが群衆の歓声を受け万民共同会に参加の上、皇帝の専制権力を制限する内容の『憲議6条』を採択しました。
 
しかし、この事態に危機感を持った守旧派高宗は、独立協会万民共同会が君主制を廃止して共和政を立てる陰謀を図って居るという内容の匿名文書を提出します。
 
この匿名文書を名分に高宗は独立協会など全ての団体を解散させる命令を下しました。
そして『憲議6条』を支持した大たちを更迭しました。
 
11月6日、高宗は再び解散命令を下しリサンジェ李商在、ナムグンオク南宮檍をはじめ13人を逮捕しました。
結局万民共同会運動は失敗に終わりました。
別記事にて万民共同会運動の顛末を記します。
 
万民共同会独立協会の行動の限界は今の観点で見て明らかです。
この万民共同会運動は自然発生的に始まり、なし崩しで、弾圧を跳ね除ける準備も無く脆弱でした。
 
独立協会の行動のまずさも際立って居ました。
そもそもこの団体は独立門建立の為設立された団体で有り、凡そ自由民権運動を主導して行く指導者も戦略・戦術も持ち得て居ませんでした。
上に見たリサンジェも役不足だったと言えるでしょう。
 
 
いつものタラレバですが、この時我が国に孫文の様な指導者が居れば運命はまた違って居たでしょう。
 
万民共同会がメディアで描かれる事はまず有りません。
高宗を英明な君主として描きたかったドラマ「ミスターサンシャイン」では方向性が違ってしまう為かこの運動は黙殺されました。
そもそもこの運動自体が長くダラダラ続くので
これをメインにしないと 描けないかも知れません。
 

1984年にドラマ「独立門」が有りますが筆者未見です。

 
<ドラマミスターサンシャインの高宗>
 
<参考文献>
나무위키 
한국민족문화대사전
 
#韓国ドラマ #韓国時代劇ドラマ #韓国映画

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