<ドラマ ミスターサンシャイン>
 
ワンポイントコラム
<韓国朝鮮 歴史のトリビア>
独立協会と万民共同会
 
 
 
 
近代史で触れましたが、1896年〜1898年に我が国でも自由民権運動が吹き荒れました。
今回はその運動を主導した「独立協会」と、その影響を受けながらソウルで起こった自由民権運動で有る「万民共同会」運動について見たいと思います。
 
まず「独立協会」ですが1896年7月に設立された社会政治団体です。
 
<リサンジェ>
 
リサンジェ李商在、ナムグンオク南宮檍と、その後親日派に堕ちたユンチホ尹致昊、ソンビョンフィ孫秉熙や親米派のソジェピル徐載弼らが大きく関与して居る為、共和国で余り評価されない団体です。
李承晩李完用など元親露派なども所属して居ました。
韓国でも最近では活動内容が知られるにつれ評価は下がって居ます。
 
<ナムグンオク>
 
立憲君主制自由民権運動を進めました。
 
甲申政変でアメリカに亡命した徐載弼1895年親米派になり下がり帰国して、これまた親日派になり下がり帰国した朴泳孝と共に独立門の建設を主張しました。
 
<独立門>
 
以後朴泳孝はクーデター陰謀容疑で追放され、1896年2月俄館播遷アグァンパチョン親日派は排除されましたが、独立門の建設を主張する徐載弼だけは残り、独立協会の前身である「独立門推進委員会」を設立します。
 
<ソジェピル>
 
これは当時清国への事大主義の象徴だった迎恩門を壊し独立門を立て、慕華館を潰し独立館を建てようと言う運動です。
 
↓↓↓迎恩門についてはコチラ↓↓

 

<独立協会と独立新聞>
 
 「独立門推進委員会」は王室の資金も入った政府系団体で、1896年4月独立門を作る為、広報兼開化広報用に独立新聞を発刊、独立門を作るために独立協会を作りました。
 
↓↓↓独立新聞はコチラを参考↓↓

 

1898年3月高永根などがソウル鍾路通りで万民共同会を主催して、一般市民の世論を集め政府の圧力団体となりました。
全国各地に支部を設置し、約4千人の会員数を持つ団体となり、万民共同会に朝廷の官僚を参加させ「官民共同会」を開き、近代議会で有る「中樞院チュンチュウォン」を開設許可が受け入れられるなどの成果を挙げました。
 
<迎恩門>
 
ロシアに利権を譲る事を反対して同じく1898年3月には大規模なデモを行って計画を白紙化させて居ます。
 
高宗はこれを非常に不快に思った為、官民共同会の前に徐載弼は会長を解任され、徹底した親露派でその後乙巳5賊になる李完用が第2代会長に、その後尹致昊が3代会長、李商在が副会長になります。
 
中枢院の設立を求める600人の上訴を上げ、議会設立運動に乗り出し、王朝500年来初めて民衆のパワーでそれを勝ち取りました。
 
 
その頃反逆事件が起こり、廃止された筈の連座制が適用されると群衆のデモが連日続き、高宗は恐れ大臣7人を全て更迭、パクチョンヤン朴定陽内閣を誕生させました。
バクチョンヤンは独立協会の代表を呼んで朝鮮史上初めて宮廷内で官民会議をしました。
これらの議論の末、中枢院(議会)を設立して官制(議員)を構成する事が決定し、独立協会は中枢院議官の半分25人を選出する強大な権限を得ます。
 
<ユンチホ>
 
続けて万民共同会は群衆を動員してデモを続け、万民共同会の大会に大臣が参加する事を要求、10月にパクチョンヤンなどが群衆の歓声を受け万民共同会に参加の上、皇帝の専制権力を制限する内容の『憲議6条』を採択しました。
 
しかし、この事態に危機感を持った守旧派高宗は、独立協会万民共同会が君主制を廃止して共和政を立てる陰謀を図って居るという内容の匿名文書を提出します。
 

<イサンジェ>

 
この匿名文書を名分に高宗は独立協会など全ての団体を解散させる命令を下しました。
そして『憲議6条』を支持した大たちを更迭しました。
 
11月6日、高宗は再び解散命令を下しリサンジェ李商在、ナムグンオク南宮檍をはじめ13人を逮捕しました。
 
<万民共同会を提唱>
 
独立協会に割り当てられた議官25人を選出する為に集まった群衆は、独立協会の指導部が逮捕されたとの報せを聞いて怒り警務庁を包囲し、その場で万民共同会を開いて指導部の釈放を要求しました。
 
万民共同会は11月5日から開かれていましたが、11月12日中枢院官制を選出します。
高宗は万民共同会と中枢院を最小限制御可能な範囲に置こうとし、11月21日配下の商人の団体で有るポブサン褓負商団をけしかけ万民共同会を襲撃、群衆を無差別暴行しました。
 
<万民共同会>
 
次の日の11月22日、再び褓負商を中心にした御用団体の皇国協会万民共同会を襲撃しました。
この事件で1人が死亡する事態となり、怒った漢陽の民衆が石と棒で武装して路上にあふれました。
 
ソウルの街路を掌握した群衆は万民共同会を再度開き、恐れた高宗はこの事件について一部の指名手配を解除し洪鐘宇、キルヨンスなど実行者を流刑に処しました。
 
 
11月26日に再度万民共同会が開催され高宗がここに直接乗り出し、万民共同会代表200人と証人としての各国領事、公使及び朝廷の大臣たちが集まりました。
高宗は万民共同会代表に自分の言葉で「落ち着く様に」と語り、自由な意見を求めました。
 
独立協会万民共同会側は独立協会の復活と褓負商団の解散、5人の大臣の処罰を高宗から約束され、その代わりに政府を煩わせない事を約束し陛下万歳を叫んで退きました。
 
その後も混乱は続き国内では万民共同会への賛成•反対の世論が錯綜します。
これに対し高宗は煩わしそうな態度で接し、裏で万民共同会の弾圧準備に取り掛かりました。
12月より彼は貞洞など漢陽主要部に軍隊を配置して弾圧準備を整えます。
 
<近代議会 中枢院>
 
その混乱の中でも中枢院の設立が優先して進行しました。
12月21日中枢院を構成し、最も多くの支持を受けたユンチホが中枢院副議長に任命されます。
 
そして12月23日、中枢院の最初の案件が討議されました。
しかし、この議会(中枢院)は最初で最後の議会となってしまいました。
 
独立協会が自己の権限を超えた11人の大臣推薦と任命の投票を提案し、それを議題にしてしまったのです。
これは明らか越権行為でした。
 
<独立館>
 
そして、その任命した大臣に、高宗により追放された徐載弼と反乱容疑で追放された朴泳孝が含まれて居たのです。
 
そしてこの件を口実に、着々と弾圧を狙って居た高宗はこの日、万民共同会を軍隊で包囲させ、万民共同会会員たちは鍾路に押し出されました。
 
 
最終的に彼らは徹夜座り込みを中断して解散させられました。軍隊の包囲により既に参加人員が急減し始めた後でした。
 
そして1898年12月25日、高宗独立協会万民共同会の両方を解散させる命令を下し、議会設立と言う最大の課題は水泡と化しました。
これによって我が国の独立自強の可能性はとうとう潰(つい)えてしまいました。
 
<ドラマミスターサンシャインの高宗>
 
万民共同会独立協会の行動の限界は今の観点で見て明らかです。
この万民共同会運動は自然発生的に始まり、なし崩しで、弾圧を跳ね除ける準備も無く脆弱でした。
 
独立協会の行動のまずさも際立って居ました。
そもそもこの団体は独立門建立の為設立された団体で有り、凡そ自由民権運動を主導して行く指導者も戦略・戦術も持ち得て居ませんでした。
 
いつものタラレバですが、この時我が国に孫文の様な指導者が居れば運命はまた違って居たでしょう。
 
この先我が国は日本とロシアの『縄張り争い場』と化し、日露戦争の結末で運命は決まりました。
 
<万民共同会のデモ>
 
万民共同会がメディアで描かれる事はまず有りません。
高宗を英明な君主として描きたかったドラマ「ミスターサンシャイン」では方向性が違ってしまう為かこの運動は黙殺されました。
そもそもこの運動自体が長くダラダラ続くので
これをメインにしないと 描けないかも知れません。
 

1984年にドラマ「独立門」が有りますが筆者未見です。

 

 

<参考文献>
나무위키 
한국민족문화대사전
 
#韓国ドラマ #韓国時代劇ドラマ #韓国映画

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