ワンポイントコラム
<韓国朝鮮 歴史のトリビア>
32.近代新聞について
前回、前近代新聞で有る「朝報」が朝鮮初めての近代新聞で有る「漢城旬報」ハンソンスンボ発行により終焉を迎えた事を述べました。
↓↓↓それ以前の朝報についてはコチラ↓↓
<漢城旬報>
漢城旬報は1883年10月に創刊されました。
旬とは10日間と言う意味で、
10日に一度出版される新聞と言う意味です。
<ドラマ朝鮮ガンマンの金玉均キムオクキュン>
この新聞は日本の協力の元、박영효朴泳孝パクヨンヒョら開花派主導で進められ、政府機関である博文局박문국で印刷発行、A4、24ページの冊子形式でした。
<のちの親日派 박영효朴泳孝パクヨンヒョ>
主に開花思想の普及に目的が置かれ、
朝報の内容など国内記事、議会制度など
外国文物の紹介や外国新聞の翻訳などを
扱いました。
一部50文と高価で、
国漢文での発行を目指すも活字準備が追いつかず純漢文で発行されたので
人気はイマイチでした。
<漢城週報>
1884年12月に起こった甲申政変で博文局が
火事で燃えた為、1年間40部で終刊、
1886年に漢城週報한성주보ハンソンチュボとして復刊され1888年まで発行されました。
我が国初の民間新聞は1896年4月7日創刊の独立新聞독립신문トクリプシンムンです。
独立新聞は、徐載弼서재필ソジェピルにより1896年に創刊され、漢文を用いずウリクル(ハングル)のみで書かれました。
初めて現在の様な分かち書き(띄어쓰기)で書かれ、タテ33cmヨコ22cmの4面構成、3面まではウリクルで4面は当初英語で書かれました。
<独立新聞 トクリプシンムン>
論説、官報・外国通信・雑報、物価・広告などを載せ、当初週3回、のちに日刊となりました。
当初の300部から3000部まで伸ばしましたが、
独立協会解散後に政府により1899年12月廃刊させられました。
余談ですが、朝鮮で初めてクリスマスを祝い休刊日としたそうです。
<皇城新聞 ファンソンシンムン>
1998年9月には皇城新聞황성신문ファンソンシンムンが創刊されました。
남궁억南宮檍ナムグンオクと장지연張志淵チャンジヨンが代表を務め、
旧韓末の知識人を対象に国漢文混用で書かれました。
<南宮檍ナムグンオクと張志淵チャンジヨン>
乙支ウルサ保護条約(朝鮮を保護国化)締結の際、시일야방성대곡(是日也放聲大哭シイルヤパンソンテゴク:この日声を上げて大きく哭(な)くと言う意味)と言う論説を書き拘束され停刊させられた事でも有名です。
<시일야방성대곡(是日也放聲大哭シイルヤパンソンテゴク の記事>
1910年日韓併合後、題号を한성신문漢城新聞に強制的に変更させられ9月14日終刊しました。
他にも대한매일신보大韓毎日新報テーハンメーイルシンボ、만세보万歳報マンセーボ、
대한민보大韓民報テーハンミンボなど国民意識高揚と独立精神涵養の為、
多様な新聞が出刊されましたが植民地化と共に全て終刊させられました。
余談ですが、地域新聞としては
경남일보慶南日報キョンナムイルボが
1909年10月15日創刊され幾度も停刊処分を受けながら、現在も一番古い地域新聞として気を吐いて居ます。
<경남일보慶南日報キョンナムイルボ>
3·1独立運動後、 総督府の文化統治문화정치のスローガン標榜の元、朝鮮日報조선일보チョソンイルボ, 東亜日報동아일보トンアイルボ, 時事新聞시사신문シサシンムンなどの民間新聞が許可され創刊しますが、度々押収、停刊処分を受けました。
30年代以降、上記の新聞は植民地政策の水先案内人の役割を果たす存在となりますが、
戦争本格化と共に1940年8月10日強制廃刊で解放を迎えることになりました。
解放後は紆余曲折の上、保守、革新入り乱れ競っています。
<独立新聞のロゴが>
末尾になりましたが、
ドラマミスターサンシャインで主人公の元婚約者ハンヨハンが新聞社を設立します。
独立新聞のロゴが見えます。
モデルが居るそうです。
この時期民間で様々な新聞社が作られ、新聞が創刊されました。
ドラマはその様な事実を反映して居ます。
<参考文献>
현대사 가시밭길 헤쳐온 한국 신문의 역사
신문의 역사로 살펴보는 한국 신문의 특성
위키백과 한국의 신문
한국민족문화대백과사전
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