<ハンソッキュ>
 
第6章 朝鮮の人物ー21 近世5
世宗と集賢殿学者たち
 
 
 
 
近世朝鮮王朝に入り、中心人物とその周辺人物をひと塊(かたまり)にして見ようと思い付き、まずはリソンゲ李成桂こと太祖にまつわる人物として前々回チョンモンジュ鄭夢周、前回リバンウォン李芳遠こと太宗を扱いました。
 
<ドラマ 根の深い木>
 
今回は世宗を中心とした群像を描きます。
彼については歴史篇を含め多く語っているので即位前に限って述べる事にします。
 
↓↓歴史篇の記事はコチラ↓↓↓
 
彼は朝鮮王朝4代目の王ですが、以前の3人は元々高麗王朝の軍人で、易姓革命で国を覆し王位に上がった人物たちです。
 
それと違って世宗は朝鮮王朝時代に生まれて王位に上がった最初の王でも有ります。
 
世宗は朝鮮王朝が建国された1392年から5年が過ぎた1397年に生まれました。
一言で誰も否定する事が出来ない正当性と名分を持って即位した王だと言えます。
 
 
世宗王が創製したウリクルは現代も南北朝鮮の公用文字として通用しており、またその時代に確立した国境も現在の国境として今日まで維持されて居ます。
 
それだけ世宗の治世は、現代の我が国の文化や生活に大きな影響を与えており、最も尊敬される歴史上の人物の1人と言えます。
 
彼は1397年5月太宗ことリバンウォンの6男として生まれました。
3人が早逝したので実際には3男として育って居ます。
1408年12歳でチュンニョン忠寧君になり、父が王位に上がった後の12年後の1412年に大君になりました。
 
 
幼い頃から1度手に取った本は擦れて形が無くなる迄読んだと言います。
世子以外の王子は政治に参与する事が出来なかったので、優れた才能が埋もれるのを惜しんだ父の太宗は息子の趣味を全面的に支援したと言います。
 
おかげで学問はもちろん美術、音楽など多様な趣味を嗜(たしな)み、むしろ大君だったので制限されず様々な分野を勉強し、様々な才能を発展させる事が出来たと言えます。
この様に優雅な生活が多目的な王としての実力を育てる原動力となった訳です。
 
<ドラマ大王世宗>
 
太宗は肉親同士骨肉の争いで王位に就いており、王統を立てようとしましたが、最終的には子弟の教育が意のままにならず、長子継承の原則を捨てなければなりませんでした。
 
太宗は長子ヤンニョン譲寧大君を王位に上げようとしましたが、譲寧大君の手に負えない行状にあきらめてしまったと言うのが「朝鮮王朝実録」による事実です。
 
長子継承の原則を捨てた結果我が国最高の聖君が出現したという点が歴史のアイロニー(皮肉)ですが、それもその筈、太宗自身が外戚、親戚、功臣問わず障害になりそうであれば皆除去して置いたので、そうならない訳有りません。
太宗が上王として王位だけ退き世宗の保護者の役割をした事も追い風となりました。
 
一方、次男のヒョニョンテグン孝寧大君は仏門に入りました。
彼が次男だったにも関わらず弟世宗に押された理由は、正式にはお酒を飲めなかったせいとなって居ます。
 
 
太宗によると「お酒はあまり飲んでもいけないが飲めな過ぎても問題で有り、前に使者が来た時にヒョニョン孝寧大君は酒をよく飲めなかったが、チュンニョン忠寧大軍は飲めた」という(?)不可思議な理由でした。
それでも元々仏門に興味が有り、継承に興味が無かったとの事なので異論は無かったのでしょう。
 
所が、実際には世宗も焼酎1〜2杯位しかお酒を飲めなかったと言う所がミソです(笑)。
 
通常、世宗が王子時代にただ勉強だけ頑張って太宗のお眼鏡に叶い王となったと思われがちですが、実際には王子間の熾烈な心理戦が潜んでおり、世宗も王になる為に作戦行動を行った事が窺えます。
 
 
例えば、世子の言動について世宗は皆の前で直接本人に苦言を呈して居ます。
皆の前で恥をかかせ、太宗と大臣たちが世宗の言い分を支持する事により、世子の立場は一層まずくなって行きました。
 
色々な逸話を見ると世宗の言動にも確信犯的な言動が多く見えます。
 
実際、建国初期の頃はまだ嫡長子が王位に上がった事例が一度も無かったので能力か野心があれば誰でも王位に上がる事が出来たと言えます。
 
こうした様々な要素が絡まって世宗が第4代の王となりました。
彼の治績中ウリクル創始と共に有名なのが集賢殿の拡充運営です。
 
 
集賢殿チプヒョンジョン高麗から朝鮮王朝初期にかけて存在した、国家及び王室の為の研究機関です。
 
元は中国で以来設置された機関ですが、朝鮮でも古くからこの制度を導入しました。
 
1136年延英殿ヨンヨンジョンを改名して始まりました。
高麗から李氏朝鮮初期までは何の職務も有りませんでしたが、1420年世宗集賢殿を再編し拡大させました。
これまでは省庁を持たず職務も無かった集賢殿には官庁が与えられ、経典の編纂や様々な分野の研究から王の諮問機関にもなりました。
 
世宗代の様々な研究成果はこの集賢殿からなされて居ます。
 
集賢殿の代表的な学者を紹介します。
 
1.カンフィアン姜希顔(1417〜1464)
 
1441年(世宗23)文科に合格した後、1454年(端宗2)集賢殿の直提学となり1455年(世祖1)に謝恩府使として明にも行きました。
1456年(世祖2)に端宗復位運動に関連した容疑で審問を受けますが、成三問の弁護により難を逃れました。
 
<集賢殿の様子>
 
彼は詩書画に優れ「三正」と称えられ、後述の鄭麟趾などと一緒に「訓民正音」の28字の解釈、「龍飛御天歌」の注釈を書きました。
 
2.パクペンニョン朴彭年(1417〜1456)
 
朝鮮初期の文臣で死六臣の一人です。
1434年(世宗16)科挙に合格した後、成三問と共に世宗の寵愛を受け、1455年世祖端宗から王位簒奪して即位すると忠清道観察使に下がり、世祖を王と認めず、朝廷に送る公文書にも臣と称さなかった非常に剛直な性格を持って居ました。


彼は1456年に刑曹参判として成三問ソンサンムン、河緯地ハウィジ、李塏リゲ、兪応孚ユウンブ、柳誠源リュソンウォンなどと一緒に端宗の復位計画を練って居た途中、金礩キムジルの密告で発覚して投獄されました。
彼の才能を惜しむ世祖の懐柔を最後まで拒絶して死刑にされ、
父と弟そして息子までも処刑されました。
 
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3.ソンサンムン成三問(1418〜1456)
 
朝鮮王朝初期の著名な学者で同じく死六臣の一人です。
1447年(世宗29) 壯元(首席)合格し集賢殿修撰を務め、常に世宗の近侍としての寵愛を受けました。
他の学者らと共にハングル創始の為に明に複数回渡り、音韻の制度を研究するなど、訓民正音の頒布に大きく寄与しました。
 
世宗は晩年、温泉に行く時も彼らを同行させました。
 
 
1455年世祖が王位に上がると、彼は国璽を抱えて号泣し、翌年他の死六臣端宗の復位を協議して、4月に明の使臣の送別宴会で世祖を殺しハンミョンフェ、 クォンラン、チョンリンジなど一派を消す計画を立てるも失敗しました。
 
彼は極刑を受け、父と弟三人、そして赤子の4人の息子も殺害され滅門の禍(わざわい)を受けました。
 
4.シンスクチュ申叔舟(1417〜1475)
 
1439年(世宗20)に文科に合格して1441年集賢殿の直長になった彼は、  1443年に通信使として日本に行って名を轟かせました。
 
1454年(端宗2)世祖が即位すると積極的に補佐して功臣1等に就き、兵曹判書など要職を務め、成三問などの死六臣による端宗復位計画が発覚すると端宗の処刑を強く主張し、悲劇を呼びました。
 
 
1458年右議政、1459年に左議政に昇進、1662年には領議政にまで上がりました。
 
彼は優れた学者として6代の王に仕えながら様々な書籍を編纂しましたが、世宗の寵愛を最も多く受けた学者の 一人だったにも関わらず、癸酉靖難(世祖の王位簒奪)に加担した点で後世に多くの非難を受けています。
 
5.リゲ李塏(1417〜1456)
 
李穡のひ孫であり、死六臣の一人です。
1436年(世宗18)文科に合格して訓民正音の創製にも参加しており、1456年(世祖2)直提学となった後、成三問、朴彭年 などと一緒に端宗の復位を図り発覚し、過酷な拷問の末に処刑されました。
 
 
彼は本来世祖とも親交があり、彼を惜しんだ世祖は彼に真相を明らかにせよと執拗に迫りましたが、「不事二君」を守り最後まで操を曲げず、最終的に死刑を受けました。
 
彼はこの様に忠臣だっただけでなく、 詩文にも精達し、字も名筆だったと言います。
 
6.チョンリンジ鄭麟趾(1396〜1478)
 
朝鮮の文臣で、1414年文科に首席で合格して各官衙を勤めた後、1418年(世宗1)兵曹佐郎に選任された彼は、その後世宗の寵愛を受けて礼・吏曹の正郎を経て集賢殿学士に登用され1425年に集賢殿直提学に上がりました。
 
その後1452年(文宗2)兵曹判書に選任された彼は1453年(端宗1)癸酉靖難の時首陽大君を助け右議政に昇進して靖難功臣1等河東府院君に封じられ、1455年世祖が即位すると領議政になって居ます。
 
 
朝鮮初期の代表的学者の一人ですが、申叔舟と同様、「不事二君」を守らない人として非難を受けて居ます。
 
他にも色々な人物が居ますが、書ききれないのが残念です。
ドラマや映画も多数有ります。
コチラは沢山紹介して居ますので省略しますが、世宗とチャンヨンシルの友情を描いた映画のレビューを書きましたので、よろしければ。
チャンヨンシルの生涯も辿って居ます。
 
↓↓記事はコチラ↓↓↓
 
<参考文献>
한국민독문화대백과사전 
나무위키 
조선조 집현전의 대표적인 학자들
 

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