社会に出てから出来た友人はいるようでいない。
が、居ないわけでもない。
京都で行動を共にした同じ職場の友人がいる。
しかし全行程を共にしたわけではなく夜の祇園と朝ごはんを一緒にしただけである。
だから互いに一緒に何かしたい部分のみを共に楽しむ間柄も友人の形の一つだと思う。
彼女とは旅の楽しみ方や飲み方やお金のかけどころが同じなのである。
お金を出してお座敷遊びに抵抗がない人。
それは価値観でありお金の有無では無い。
確かにお金はかかるが私も彼女もそれなりの仕事を持つ立場である。
年一での楽しみだし何にも遠慮は必要ない。
その部分の価値観が同一でない人と私は共に行動することは無理である。
私は彼女に有名料亭の食事に誘われた。
朝定食だったが味も価格も高級だった。
彼女と一緒でなければ経験しなかった場所である。
味はもちろんもてなしもしつらえも歴史ある名店らしいものだった。
1人では行きにくいお座敷や料亭に。
互いに普段は行かない場所へお付き合いしてもらって感謝である。
上記の友人とは職場の同僚であるが全て合うわけではない。
彼女は独身であり子供が居ない。
そして人生や仕事上の弱音を吐ける相手ではない。
どうしてもその部分は噛み合わない。
経験していないことは想像するにも限界があるし悩みのシーンが異なるからである。
私が悩んだ子供の進路も彼女に話したところで共有出来るものでは決してない。
大人の人間関係は相手を選ぶことかもしれない。
友人とは何ぞや?
何でも話し何でも共有出来る相手。
こんなふうに長く考えてきた。
しかし大人になってからは立場の違いや利害関係などもありなかなかそうもならない。
学生時代は立場や利害関係などは関係ないので、気さえ合えばすぐ仲良くなれた。
社会に出て30年余り。
社会に出てから学生時代のように気心しれる友人は出来なかった。
私は職場外に楽しむ場所を求めてきたので、その場面毎に楽しみはあり、濃く付き合う友人は作ってこなかったこともある。
そのシーンごとに合う友人が居ればそれで良いと思う。
瓢亭別館の青葉眩しい店内で朝食を頂きました。