鎌倉時代に後鳥羽上皇と後醍醐天皇が配流された日本海に浮かぶ隠岐を訪ねて、9/28~10/13までの16日間にわたって、ゆかりの地や史跡名勝を車中泊しながら巡りました。
1~3日目(9/28~30)は、後鳥羽上皇と後醍醐天皇の隠岐への配流ルートを辿って岡山県から島根県へ
4日目(10/1)は、七類港からフェリーで隠岐・知夫里島へ移動後、後醍醐天皇ゆかりの地、赤壁
5日目(10/2)は、知夫里島からフェリーで西ノ島へ移動後、国賀海岸の観光
6日目(10/3)は、西ノ島の焼火神社、後醍醐天皇行在所、脱出ルート、由良比女神社
7日目(10/4)は、西ノ島から中ノ島へ移動後、後鳥羽上皇の資料館、隠岐神社、行在所、火葬塚
「後鳥羽院資料館」の向かいにある「隠岐神社」です。
「隠岐神社」の由緒です。
祭神は後鳥羽天皇
第82代・後鳥羽天皇は、鎌倉時代初期の承久3年(1221)隠岐国海士に御遷幸、御在島19年の後、延応元年(1239)旧暦2月22日都への御還幸の望みも空しく、崩御遊ばされた。
御遺骨は北面の武士・藤原能茂奉持し京都の大原の里に納め奉ったが、その大部分は行在所源福寺境内の一角に納め奉った。(現在の御火葬塚の処である。)
昭和14年(1939)、後鳥羽天皇七百年祭を期に由縁深い聖地に隠岐神社を創建した。
鳥居の先には参道の桜並木があり、隠岐随一の花の名所となっています。
隠岐神社に掲示してあった、「後鳥羽天皇関係 系図」です。
平家の棟梁・平清盛の孫である「安徳天皇」が源平合戦で都落ち(その後壇ノ浦で祖母・時子(二位尼)に抱かれて入水)したため、その弟の「後鳥羽天皇」が三種の神器なしに寿永2年(1183)に即位されました。
その後、建久9年(1198)土御門天皇に皇位を譲られ上皇となり院政を開始しました。よって隠岐へ配流されたときは上皇でした。
ちゃんと手入れされている土俵がありました。
「隠岐国一宮」である西ノ島の由良比女神社(ゆらひめじんじゃ)の土俵は壊れて無残な姿をしていました。
狛犬が見守る中、石段を上がっていきました。
参道横にある後鳥羽上皇の歌碑です。
和歌の才能に優れており「歌聖」と称えられている後鳥羽上皇に敬意をこめ、隠岐神社周辺には御製(歌)の碑がたくさん建てられています。
「人もをし人も恨めしあぢきなく 世を思ふゆゑにもの思ふ身は」
(ある時には)人をいとおしく思い、(またある時には)人を恨めしく思う。面白くないとこの世を思うがゆえに、さまざまに思い悩む私は。(百人一首 後鳥羽院)
社殿が見えてきました。
左手には社務所があります。
右手は手水舎です。
手と口を清めて参拝しました。
石段を上がった左手に納経所があり御朱印を書いてもらいました。
「隠岐神社」だけでなく、翌日参拝予定の「宇受賀命神社」と、3日前に参拝した知夫里島の「天佐志比古命神社(一宮神社)」の御朱印も書いてもらいました。
合計1500円でした。
島の人からは「ごとばんさん」と呼ばれている隠岐神社です。
拝殿の奥にある本殿は、隠岐地方独特の「隠岐造」です。
大きな注連縄です。
刀剣に対する思い入れの深い後鳥羽上皇は、刀剣に菊花の紋を入れられて(菊御作)おり、皇室の御紋は、この菊花の紋が起源とされています。
後鳥羽上皇ゆかりの隠岐神社の紋は、菊をモチーフにした「菊浮線(きくふせん)」でした。
例によって、旅の安全と、ピンピンコロリと逝けますように!!、とお願いしました。
納経所に掲示してあった「後鳥羽天皇御年譜」です。
「隠岐神社」の御朱印です。
このあと、後鳥羽上皇の「行在所跡」へ行きました・
ーーー つづく ーーー















