うるう年の逆打ち遍路はご利益が3倍あるといわれる四国八十八ヶ所を、夫婦で車中泊しながら3/26~4/15の21日間かけて巡礼し、ついでに日本100名城、続日本100名城、道の駅、温泉に寄りました。

 

1日目(3/26)は、岡山県の自宅から瀬戸大橋経由で四国へ渡り、香川県の道の駅「ながお」で車中泊

2~6日目は、香川県(涅槃の道場)の88番→66番札所(23ヶ所)と愛媛県(菩提の道場)の65番札所(1ヶ所)参拝、日本100名城の高松城と丸亀城の見学

7日目は、愛媛県(菩提の道場)の64番→60番札所(5ヶ所)参拝後、道の駅「今治湯ノ浦温泉」で車中泊

8日目は、59番→54番札所(6ヶ所)参拝、日本100名城の今治城、道の駅「風早の郷風和里」で車中泊

9日目は、大雨のため53番→52番札所(2ヶ所)参拝、道の駅「風早の郷風和里」で連泊

10日目は、51番→48番札所(4ヶ所)、日本100名城の松山城と湯築城跡、道の駅「なかやま」で車中泊

11日目は、47番→44番札所(4ヶ所)参拝、道の駅「内子フレッシュパークからり」で車中泊

12日目は、日本100名城・大洲城、43番→41番札所(3ヶ所)、道の駅「虹の森公園まつの」で車中泊

13日目は、続日本100名城・河後森城跡、日本100名城・宇和島城、40番→39番札所、道の駅「大月」

 

13日目(4/7)は、前夜車中泊した愛媛県松野町の道の駅「虹の森公園まつの」を出発して、続日本100名城「河後森城跡」の次に、日本100名城「宇和島城」へ行きました。

 

 

9:30 愛媛県宇和島市の日本100名城「宇和島城」の登城口(城山下駐車場)に到着(駐車料金は100円/時間)しました。

続日本100名城「河後森城跡」から30分でした。

登城口にあるのは「桑折(こおり)氏武家屋敷門」で、筆頭家老の桑折家屋敷跡に残されていたものを昭和27年(1952)に移築しています。

 

 

城内マップです。

天守までは長門丸経由で770mです。

 

現存12天守の1つが聳え立つ日本100名城「宇和島城」は、江戸時代の慶長20年(1615)に伊達政宗の長男・伊達秀宗が入城後、明治を迎えるまで『西国の伊達』9代の居城でした。

伊達本家は東北の仙台藩です。私の母校は東北大学で、学生時代にはハンドボール部の練習でグラウンドから、青葉城の伊達政宗の像までランニングしていました。

 

 

城内で一番長い(約50m)石垣「長門丸石垣」です。

「長門丸」の由来は、藤堂高虎配下の重臣の名前だといわれ、伊達家の居城となったあとも、そのまま使用されました。

 

 

17世紀後半ごろに築かれ、角の部分にノミできれいに整形した長方形の石材を交互に向きを変えながら積み上げていく「算木(さんぎ)積み」技法で築かれているので、伊達家2代藩主・宗利による寛文4年(1664)から寛文11年(1671)にかけての大改修のものと考えられています。

 

 

城内最大の郭である長門丸は、現在は児童公園として整備されています。

桜が満開ですが、曇り空のためイマイチ映えません。

 

 

天守へ上がる途中にある「藤兵衛丸石垣」です。

築城の名手・藤堂高虎の創建時期となる慶長6年(1601)頃の古い石垣の特徴をとどめた「野面積み」の石垣です。

城内では2番目の高さとなる約13m、築造当時は日本有数の高さでした。

 

 

幕末に修理したことが分かる「本丸石垣」です。

左の方はノミで加工した「切込(うちこみ)ハギ」で隙間なく積み上げられており幕末に修理された部分で、右の方は自然石を用いた「野面(のづら)積み」で17世紀初頭に築かれました。

 

 

二之丸から眺めた本丸です。

二之丸は、天守の建つ本丸の最終防衛施設として、その直前に置かれた郭です。

 

 

本丸に建つ三重三階の天守です。

現存12天守の1つで、宇和島伊達家2代藩主・宗利が江戸時代の寛文6年(1606)頃に建築したものです。

藤堂高虎が慶長6年(1601)に建築した天守がありましたが、幕府には修理の名目で届け出をして、天守台の石垣を含めて全面的に立て直してしまいました。

 

 

説明板にあった天守の断面図です。

前日の雨で散った桜の花びらがくっついてしまって見づらくなっています。

藤堂高虎が岩盤上に建築した望楼型天守を撤去して、石垣の天守台を持つ当時の最新型となる層塔型天守として建築しました。

各階の装飾性の高い破風や懸魚などから、太平の世を象徴する造りとなっています。

 

 

シニア料金一人160円払って中へ入りました。

天守の模型や甲冑が展示されていました。

 

 

江戸時代のままの急な階段を登っていきます。

幕末の万延元年(1860)と昭和35年(1960)に大修理が行われていますが、昔のままの姿を残しています。

 

 

天守3階からの眺めです。

満開の桜の向こうには宇和島湾が見えます。

宇和島城は、水城として築かれ、総郭の一部は海に面していました。

藤堂高虎は、慶長2年(1597)の慶長の役(秀吉の朝鮮出兵)の際、宇和島から水軍を率いて出兵したとされています。

 

 

宇和島の町並みです。

人口約6.5万人の旧城下町で、闘牛が有名です。

 

 

江戸時代の元禄6~8年(1693~95)頃の「宇和島城下絵図屏風」複製です。

2辺が海に面し、3辺が海水を引き入れた堀となっている五角形の縄張は、幕府隠密が四角形と見誤って報告したという史実から、のちに藤堂高虎の巧みな縄張りとして語られました。

 

 

天守からの帰りは、段差のきつい石段を「井戸丸」経由で下りました。

左の格子が井戸で、深さ約11mあり、城内の水場を守るための堅牢な造りの郭でした。

 

 

日本100名城のスタンプです。

宇和島城は83番でした。

 

このあと、40番札所「観自在寺」へ行きました。

 

     ーーー つづく ーーー