酸っぱい葡萄 | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

「不登校の子はずるい。修学旅行とか楽しいことだけ参加しようとするのはずるい」

というつぶやきが流れていくのを見た。

なんだかしんどいつぶやきだった。

これって、前提として「みんな嫌なのに我慢して学校へ行っている」「修学旅行は楽しいものである」という感覚があるからだよな。

「嫌だけど我慢している」という感覚はわからなくもない。私も昨今の不登校の話題を見るとつい、「今は行かないっていう選択ができていいな」と思ってしまうところがあるから。

行きたくないなーと思っても、行かないなんて許されないから(自他ともに)しかたなく学校へ行っている。だから苦しい。苦しいから、「学校へ来ない」選択をした(ように見える)人のことが腹立たしい。私は我慢してるのに、って。私は許されないのに、って思う。

ほんとは、なぜ苦しいのか、なぜ行きたくないと思っているのか、なぜ許されないのかを問題にすべきなのに、そこはスルーされる。結果として、実際に登校しているかどうかだけが取りざたされてしまう。

行かなきゃいけないと思っても、どうしても行けないという人もいるのに、ただ楽して甘えてさぼっているだけだと思ってしまう。

ほんとに学校へ行かないことは楽なことなのか? ということは考えない。

 

「甘え」はほんとに憎まれる。甘えてんなよ、というのが強い非難の言葉になる。

みんな嫌いだよね、「甘え」。許せないと思ってる。特に自分が我慢していることを免除されている人は許せない。それってほんとは自分も免除されたいからだよね。自分も免除されたいのにされないから怒ってる。

 

「修学旅行とかそういう楽し気なイベントだけに参加しようとするのはずるい」っていうのも、実質はどうなんだろうと思う。

普通に登校を続けていたって、修学旅行などのイベントが楽しいかどうかはわからない。

確かに、ふだんいない人が突然参加してきたら、周囲はとまどうだろう。ましてや、その「周囲」がふだん我慢して登校している人たちばかりだったらなおさらだ。

イベントなら参加できるかもしれない、というのは、それが非日常の状態だからだ。ふだんと違うことをやってる、ふだんと違う雰囲気になる。そこでなら、もしかしたら居られるかもしれない。イベントってそういう力がある。だからそこから参加してみたらどうだろうという発想になるんじゃなかろうか。

とはいえ、修学旅行は宿泊と団体行動を伴うイベントだから、ちょっとハードルが高い。

ふつうに学校へ通っている人でも躊躇するようなイベントだ。にもかかわらず、修学旅行とは無条件に楽しいものだという前提が暗黙の裡に成立している。そこがどうにも不思議だなと思う。

 

特に不満も不安もなく学校へ通えている人は、案外不登校の人のことは気にならないんじゃないかとも思う。気にするのはたぶん、限界ぎりぎりのところにいて、ものすごく我慢して登校している人なんじゃないか。私は我慢してるのに、という気持ちが、不登校はずるいという気持ちに転化する。しんどいんだろうな、と思う。

 

「我慢する」というのは、つまりは無理をしているということだ。ほんとは嫌なのに、ほんとはつらいのに、それを表に出すことが禁じられていて(あるいは禁じられていると思い込んでいて)無理やり抑え込んでいる状態のことだ。

なんか日本だとその「我慢」が賞賛されがち。美化されがち。

みんな我慢している、って、実はなんの保証にも担保にもならないのに、なぜか通用してしまう。つらい、苦しいと表明することはよくないこととされる。だからみんな苦しい。つらい。

その状態のままが続く。苦しさを、つらさを解消しようとはしないんだな。解消しようとすると反対される。ずるい、っていう。ずるいってなんだ。素直にうらやましいっていえばいいのに。

 

修学旅行が、運動会が、楽しいイベントになるかどうかは人による。楽しい人もいるだろうが、楽しくない人だっている。それこそ、我慢して参加している人だっているだろう。なのになんでひとまとめに「楽しいこと」になってしまうんだろう。

 

他人に対して「それは甘えだ」と非難する人は、自分の中にうらやましさが潜んでないか探ってみたほうがいいんじゃないか。だいたいは、ほんとは自分もそうしたいのにできないという事情が隠されているような気がする。