昨日久しぶりにYAMANBA企画の稽古があった。
8月に上演予定の芝居の稽古をやったんだけど、合間に雑談していたときふと、「私が芝居をやる理由」について話してしまった。
最近ちょっと自分の感情や思考についての解像度があがって、言語化できるようになってきた気がしている。ここでいろいろ書いてたのが功を奏したのかもしれない。
私が演技することが好きなのは、「そこにいてもいいという圧倒的な安心感がある」からなのだ。
話すことが決まっていて、相手も決まっていて、筋書きも決まっている。私は、本来の私自身の言葉で話さなくてもいいし、相手との関係も現実の自分とは無関係。舞台の上の世界はそれなりに完結していて、逸脱(ふいに現実に戻るようなこと)がない。
そこでなら私は自分が発した言葉や相手との関係性について悩まなくてもいいし、不安にならなくてもいい。なにより、役としてそこにいる以上は、絶対に私はそこにいていいのだ、と思える。そのことがいちばん、私にとって大事なことなのだ。
演劇とはなにか、とか、演劇界の行く末だとか、観客の存在とか、何かを伝えるとか、そういうことはたぶん二の次、三の次になっている。
こういう利己的な思いはたぶんあんまりよろしくないのだろうとは思う。
でも、自分を見てほしいとか、誰かに認めてほしいといった、いわゆる承認欲求はまだ自覚できていない。そりゃ、誰にも見てもらえない舞台は悲しいけど、もしかしたらちゃんとした上演(お客さんが入った状態)じゃなくてもいいのかもしれない、とすら思う。
以前、諸事情で公演ができず、関係者のみのお披露目みたいな形で芝居をしたことがある。
ほかの人たちはそれをとても残念がっていたのだが、私自身はそれほど残念だとは思っていなかった。まったくできないかもしれないという状況から、せめて関係者だけでも、という形になって、それでもちゃんと舞台をしつらえて最初から最後まで芝居をすることができた。私はそれで充分満足だった。だって、私は芝居ができたらそれでよかったから。
だから私はきっと、演劇についてとか、演劇の行く末について語る資格はないんだと思う。
そんな広い視野は持ち合わせていないのだった。
昨日の稽古でも、私はとても楽しかった。新しい台本で、新しい役。一人芝居じゃないから相手がいる。その相手とのやりとり、空気感の作り方。演出の指示をどうかみ砕いて自分のものにするか。求められているものをどうやれば出せるのか。手探りで、ああかこうかと試している時間はとても楽しくて幸せだった。
ちゃんと勉強したわけじゃないから、私の演技なんて吹けば飛ぶようなものだ。ちゃんと演技できているのかどうかすらわからない。でも、私の言葉じゃない言葉を、なんとか自分の中から出てくるものにしていく作業はいつだって楽しい。(だから、自分が書いた台本で自分が演じるのはとても難しい)
お芝居が好きだと思う気持ちがどこからくるのか、どうしてへたくそなのにしがみついてしまうのか、ようやくわかってきた気がする。欲を言えばうまくなりたいけど、まあそれは夢みたいなものなのでね。世に存在する名優の演技を見ればよくわかる。私にはそういう力はない。
だからまあ、謙虚にいこうと思うよね。私は私のできることをやるしかない。
いつまでやれるかわからないけど、もうしばらくは芝居にしがみついていこうと思う。
そこには絶対的な安心感があるのだから。