10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう


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      片山るんのページ



昨日久しぶりにYAMANBA企画の稽古があった。

8月に上演予定の芝居の稽古をやったんだけど、合間に雑談していたときふと、「私が芝居をやる理由」について話してしまった。

最近ちょっと自分の感情や思考についての解像度があがって、言語化できるようになってきた気がしている。ここでいろいろ書いてたのが功を奏したのかもしれない。

私が演技することが好きなのは、「そこにいてもいいという圧倒的な安心感がある」からなのだ。

話すことが決まっていて、相手も決まっていて、筋書きも決まっている。私は、本来の私自身の言葉で話さなくてもいいし、相手との関係も現実の自分とは無関係。舞台の上の世界はそれなりに完結していて、逸脱(ふいに現実に戻るようなこと)がない。

そこでなら私は自分が発した言葉や相手との関係性について悩まなくてもいいし、不安にならなくてもいい。なにより、役としてそこにいる以上は、絶対に私はそこにいていいのだ、と思える。そのことがいちばん、私にとって大事なことなのだ。

演劇とはなにか、とか、演劇界の行く末だとか、観客の存在とか、何かを伝えるとか、そういうことはたぶん二の次、三の次になっている。

こういう利己的な思いはたぶんあんまりよろしくないのだろうとは思う。

でも、自分を見てほしいとか、誰かに認めてほしいといった、いわゆる承認欲求はまだ自覚できていない。そりゃ、誰にも見てもらえない舞台は悲しいけど、もしかしたらちゃんとした上演(お客さんが入った状態)じゃなくてもいいのかもしれない、とすら思う。

以前、諸事情で公演ができず、関係者のみのお披露目みたいな形で芝居をしたことがある。

ほかの人たちはそれをとても残念がっていたのだが、私自身はそれほど残念だとは思っていなかった。まったくできないかもしれないという状況から、せめて関係者だけでも、という形になって、それでもちゃんと舞台をしつらえて最初から最後まで芝居をすることができた。私はそれで充分満足だった。だって、私は芝居ができたらそれでよかったから。

だから私はきっと、演劇についてとか、演劇の行く末について語る資格はないんだと思う。

そんな広い視野は持ち合わせていないのだった。

 

昨日の稽古でも、私はとても楽しかった。新しい台本で、新しい役。一人芝居じゃないから相手がいる。その相手とのやりとり、空気感の作り方。演出の指示をどうかみ砕いて自分のものにするか。求められているものをどうやれば出せるのか。手探りで、ああかこうかと試している時間はとても楽しくて幸せだった。

ちゃんと勉強したわけじゃないから、私の演技なんて吹けば飛ぶようなものだ。ちゃんと演技できているのかどうかすらわからない。でも、私の言葉じゃない言葉を、なんとか自分の中から出てくるものにしていく作業はいつだって楽しい。(だから、自分が書いた台本で自分が演じるのはとても難しい)

お芝居が好きだと思う気持ちがどこからくるのか、どうしてへたくそなのにしがみついてしまうのか、ようやくわかってきた気がする。欲を言えばうまくなりたいけど、まあそれは夢みたいなものなのでね。世に存在する名優の演技を見ればよくわかる。私にはそういう力はない。

だからまあ、謙虚にいこうと思うよね。私は私のできることをやるしかない。

いつまでやれるかわからないけど、もうしばらくは芝居にしがみついていこうと思う。

そこには絶対的な安心感があるのだから。

昨日はあわただしい天気だった。

午前中はよく晴れていたが、大きな雲のかたまりも流れていた。

そのうちにどこからか、ゴロゴロと低い音が聞こえてくるようになった。

飛行機の音? なんて思っていたんだけど、どうやら雷の音だったようだ。

空の高いところ、雲の中で雷が発生していたらしい。

しばらく空を見ていると、濃い灰色の雲の塊がゆっくりと近づいてきている。

あの雲の中で雷が発生しているのか。

それでも、空全体を覆うほどの雲ではないので、青空は見えているし、日の光も明るく輝いている。きれいな青空のBGMに不穏な雷鳴。

 

天気予報では午後ににわか雨があるかもしれないといっていた。

予報どおり、昼を過ぎたら雲の量が増えてきて、あっという間にあたりが薄暗くなった。

やっぱり降るのかと思って、部屋の明かりをつける。

 

ふと気づくと、家の外でバラバラと音がしている。ボツボツと割と大きなものが屋根や窓に当たっている。

ずいぶん大粒の雨が降り出したんだなと思っていたら、その音の中にやけに硬質な音が混じっていることに気づいた。

コツン、というか、ゴツン、というか。

石でも投げつけられているかのような音がする。

猫も不安そうな顔できょろきょろしていた。

玄関のドアをあけてそっと外をうかがってみると。

白いマジックで描いたような線を描いて何かが空から落ちてきていた。地面にあたると、大きなクラウンを描いて何かが飛び散る。よくよく見ると、小さな氷の粒だった。雹だ。

 

ニュース番組の映像で見たことはあったけど、肉眼で雹が降っているのを見たのは初めてだった。

金平糖のような白い粒がひっきりなしに落ちてきて、地面に跳ね返る。そのたびにあちこちで不穏な衝突音が響く。

昨日見たのは直径1㎝に満たない小粒の雹だったけど、これがもうちょっと大きかったらどうなっていたことか。

車に傷がつくことは容易に想像できた。

さいわい、ほんの数分で雹はおさまったけど、そのあともしばらく、青空の向こうで雷鳴が聞こえていた。

 

スマホには、車の保険会社から「降雹にご注意ください」というメッセージが届いていた。

 

 

今朝のテレビで、関東の方ではもっと大変だったらしいことを知った。もっと大粒の雹が降って、川のように流れていったらしい。雨、つまり水滴なら当然と思うことでも、それが氷の粒となるとなんだか別の事象のように思える。

 

きっぱりと晴れた青空と、絵にかいたような白い雲。なのに低く響く雷の音。

なんだか不穏だ。

ツイッターを流し読みしていてちょっと驚いたツイートがあった。

「最悪を想定し続ける癖があると精神が弱くなる」

なんですって?って感じ。

だって、どんなことだって最悪の事態はあるわけで、何も準備しないで最悪の事態に陥ったら大変なことに(自分の心が)なるじゃない? だから先に最悪の事態を想定して心の準備をしておくことが安寧につながると思ってきたのだ。そうなったらこうやってあきらめよう、こうやって自分を落ち着かせようとシミュレーションすることで、ようやく「そのこと」に向き合える。

すごく楽しみにしている観劇の予定があったとする。渋滞やら駐車場の混雑やら道に迷うことやらを想定して出発の時間を決める。持ち物に不備がないかを何度も確認する。そうやって準備して家を出ても不安は消えないので、最後に「もし間に合わなかったら縁がなかったと思ってあきらめればいい」と唱える。

そこまでやってようやく、少し心が落ち着くし、まあたいていの場合は逆に早く着きすぎて時間を持て余しちゃったりするんだけど。

 

たいていのことは、「うまくいかないかもしれない」と思っておけばいいと思ってた。

うまくいくことのほうが珍しいんだから、だめでもともと。

そういうふうに思えばダメージを減らせると思ってた。

人は裏切るものだし、というかそもそも他人は私の都合のいいように動くわけがないと思ってる。たまたま利害や好みがそのとき合致しただけ、だと思うようにしている。

 

予防線を張る。これ、いつからやるようになったのかなあ。

気づいたらそうしてた。

たぶん、何度もうかつに期待して痛い目に遭ってきたんだろうなあ。もういちいち思い出せないけど。自分がパニックになったり、落ち込んだりするのがつらいから、先回りするようになったのかもしれない。

親に共感を求めても無駄だということをはっきり自覚したのは最近になってからなのだが、自覚する前は何度もぶちあたって玉砕していたものだ。馬鹿すぎるw

 

リスクマネジメントだと思っていたよ。危機回避。

似ている部分はあるらしいんだけど、常に最悪の事態を想定していると脳が疲れるらしい。

常に想定して疲れるのと、無防備でいてダメージをくらうのとどっちがいいかの問題なんじゃないかしらね。

私はうっかりさんなので、ぼーっとしてると想定しそこねて痛い目に遭う。最近はそれの回避方法も編み出した。それは「まあ、そんなもんだよね」と思うこと。うっかりしていた自分が悪いので、痛いところをさすりながら「そんなもんだ」と思うようにする。これは楽観視とは違うのだろうか。世の中、いいことなんてあるわけないよねーって思いながら生きる。ある種の楽観のような気もするんだけどね。

 

中島みゆきの「明日天気になれ」っていう歌が好き。

ほんとは明日天気になれって素直に言いたいんだけどね。素直に願うのは怖すぎるから、雨が好きですって言っちゃうんだよ。雨なんか大嫌いなのに。

 

自分に言い聞かせるのに必死だなー、毎日。ごくろうさんなことだ。