10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう


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      片山るんのページ



今日は朝から稽古。


午前中は「unknown」

相方のちえりさんの芝居が劇的によくなってて、とても楽しい稽古になった。ちゃんとその役としてそこにいるから、リアクションがしやすい。

途中から楽曲提供してくれる「月光冥利」さんが来てくれた。素敵な曲を作ってくださったので、本番が楽しみである。


午後はYa-maさんと「給湯室の30分」の稽古。

いろんな話をしつつ、だんだんいい感じになってきてる。そして、こちらも稽古が楽しい。


夜はなんと静岡演劇人と飲み会なのだ。どんな話が出るのか楽しみ。

いつの間にか7月が終わる。

2026年が始まってもう7か月も過ぎたのかと思うと、なんだかぞっとする。

最近、年度初めの予定が少なくなってる気がする。

4月に「春なのに」が終わると、そのあとの予定がスカスカになってる。

夏が過ぎるとまた稽古の予定が入ってきて、秋から冬はバタバタと忙しくなるんだけど。

 

先日ふと、2015年の手帳を見たら、予定がぎっしり書きこまれていた。

おもに読み聞かせ関連の予定だった。このころは読み聞かせの活動が充実してて、学校へ行ったり幼稚園に行ったり、その打ち合わせをしたりで、毎日何かしらの予定が入っていたのだ。

今はもうそちらの活動は縮小していて、学校の読み聞かせは年に2~3回、決まった月に集中している。地域でやっていたお話し会はもはや風前の灯で、ほぼ形骸化している。

昨日、10年という時間の長さについて考えていたけど、こうやってみると案外10年というのは変化が大きいものなのかもしれない。万物は流転する。

 

私はいまだに生きていることが怖くて、現状何不自由なく暮らせているから目を背けていられるけど、非常事態に陥ったらと思うととても恐ろしくなる。

「生きてさえいえれば」とか「命があればそれでいい」とはどうしても思えなくて(自分限定)、苦しくてつらい状況の中で生きるなら、いっそのこと終わりになってしまえばいいのに、といつも思う。世の常識に反することだから表立ってそれを口にすることはないけれども。

長寿だとか不老不死がいいことだとは思えない。少なくとも自分に対してそれを望むことはない。そりゃ生命の危機に直面したらじたばたあがくとは思う。それは苦痛に対する恐怖だから。

苦痛なく終わるならそれに越したことはない。問題はその手段を自分で選べないこと。

結局なすすべもなく日々が過ぎていくのを茫然と眺めているしかないのだ。

 

たぶん暇だからこんなことを考えてしまうんだろう。

早く8月になって忙しくなればいい。

今年の12月にはちょっと大きな舞台に関わることが決まっているので、そっちの稽古で忙しくなればいい。そうやって目先のことでごまかしていないと虚無に飲み込まれてしまう。それはあんまりいいことではない。答えの出ない、出口のない思いだからね。

私は写真を撮られるのが嫌いだ。

中学の修学旅行の時は徹底的にカメラを避けたので、どっかでとった集合写真と卒業アルバムくらいにしか写ってない。親も写真を撮りたがる人ではなかったから、子供のころの写真はうんと幼いころをのぞいてほとんど存在していない。

高校に入ってもやっぱり嫌いで、その後もずっと嫌いだったから、自分が写っているものはとても少ない。

そのくせ演劇なんていう、人前に出るようなことをしているのだから矛盾しているけど、演劇は生だからね。その場にいる、というだけのことで、生きている以上は避けられないことだと、なんとか自分を納得させている。

容姿にコンプレックスがあるから静止画は見るに堪えないのだ。

鏡を見るのも好きじゃないんだよなあ。

いつだって写真の中の私は不細工である。

 

インポスター症候群というものがあるそうだ。

自分を過小評価する心理傾向だそうで、いっとき自分もそうなのかと思いかけたことがあるが、これは「実績があるにもかかわらず自分の能力を認められない」という心理のことらしいので、やっぱり違う。私には実績も能力もない。これは過小評価とかではなく、現実のことだ。

等身大の自分を冷静に見たらどうしたってそうなる。

 

自分の親が毒親なのか、私は毒親育ちなのか、ということについて最近よく考えるんだけど、いろんな条件?みたいなのを見ていると、そこまでじゃないなあということばかりで、やっぱり違うのかと思う。

自分が本当に好きなことはなにか、とか、本当にやりたいことはなにか、とか、いまだによくわかっていない。何が好きなんですかと聞かれるのがいちばん困る。

そりゃ自分の中にはうっすらそういうものがないわけじゃないけど、果たしてそれを「好きだ」と言ってしまってもいいものなのかがよくわからない。

ましてや、特技だの得意なものだのなんて、たとえ思いついたとしても人に言える気がしない。

たぶん、否定されるだろうと思ってしまうからなんだろうな。

とすれば、育ってくる過程のどこかで、自分の「好き」や「得意」を否定されてきたんじゃなかろうかと思うのだが、明確な記憶がないので、結局そういうものはもとから存在していないんじゃないかという結論になってしまう。

 

14歳くらいのときに、なぜ自分は生きているのかがわからなくて悶々としていた。

そこからずっと、「生きててすみません」という気持ちが消えなくなった。今でもある。

あー、そのわりに長々と生きてるじゃないか、というツッコミはもう自分でしているよ。

 

なんとか自己肯定感ってやつを持ちたいと思って、あれこれあがいてきたけど、やっぱり難しいね。いてもいいんだ、と思うことがとても難しい。周りの人に悪いからがんばってそう思うようにしているけど、根っこのところはなかなか変われない。

まあこれが現実だよな、とあきらめるようにはしているけど。

 

人間あきらめが肝心ですわ。