10月の蝉 -2ページ目

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

もう季節のせいにしてしまおう。

自分が空っぽすぎて、その空虚さに吐き気がする。

なんでなんにもないんだろう。

それは自分が積み重ねてこなかったからだということはわかっているんだけど。

 

「寂しい」という感情がよくわからない。

友達がいなくて、基本的に一人でいるんだけど、それは「さびしい」ことなんだろうか。

てか、寂しいって具体的にどういう感情なんだろう。

考えだしたらますますわからなくなってきた。

一人でいるほうが気楽なんだよな。誰かがいると無意識に気を遣う。だってそれは対人関係においては基本的なことだろう? その労力を厭うのだから、一人でいればいいんだよ。しごく当たり前の理屈だ。

でも、こんなことを考えてしまうということは、実は寂しいと思ってるんじゃないか?という疑いが首をもたげてくる。でも私にはわからない。どういう感情が「寂しい」なんだろう。

 

なんで生まれてきてしまったんだろう。なんで生きてきてしまったんだろう。

どうして死ぬのがほかの人で、私じゃないんだろう。そりゃいつかは私の番が来るけど、なんでまだ順番が来ないんんだろう。そんなことばかり考える。

 

すごい人をみて、ちょっと落ち込んでいるんだと思う。

私なんて全然だめだなあって、なんだか思い知らされてしまって、どうして私が演劇なんかやってんだろうって思ってしまったから。

ま、6月病ってことで、なんとかやりすごすしかないね。

ドラマ「リボーン」が昨日最終回を迎えた。

主演の高橋一生さんのすさまじい芝居が見どころのドラマだった。

どこがどうと指摘するのが難しいのに、明らかに中身が光誠の英人と、中身が英人の光誠は別人だった。それが堪能できただけで、このドラマには価値がある。

 

時の流れというものを意識するのは人間だけなのだろう。

過去から未来へと流れていく川のようなイメージだから、フィクションの世界では「過去へ行く」とか「未来へ行く」という設定が使われる。それが実際に可能なのかどうかは、結局は人間の頭で考えることで、いろんな理屈が生まれてくる。

ドラマ(特にテレビドラマ)には制限があるから、その中でなんとかつじつまを合わせようとするんだけど、どうしたってほころびは出てくる。

「リボーン」にもいくつかほころびはあって、だからたくさんの人が「あれはどういうことだ」「あれはどうなった」と言いたくなるけど、きっちりつじつまを合わせることなんて無理なんだから、そこは考えても(文句を言っても)しょうがないんじゃないかなあ。

 

過去はどこへいってしまうんだろう。未来はどこにあるんだろう。

きっとどこにもないのだ。あるのは今だけ。そしてその「今」も刻一刻と過ぎ去っていく。

過去は人の記憶の中にしか存在しない。そして人の数だけ「過去」がある。

 

今日、読み聞かせで「100万回生きたねこ」を読んだ。

よく「100万回死んだねこ」とタイトルを間違われるお話だ。

この間違いはよく考えるとなかなか興味深いものがある。

まず、正しいタイトルは100万回「生きた」ねこ、であるということ。

生きる、ではなくて、生きた、と過去形であるがゆえに、連想で「死んだ」が出てくるんじゃなかろうか。実際、冒頭で100万回生きて、100万回死んだ、と出てくるわけだし。

そしてお話の最後で、ねこはもう生き返らない。死んでしまって終わりなのだ。

これをどう受け止めるか、でこのお話の印象は変わってくる。

読みながら思ったのは、これは転生の物語だということだった。

ねこはいろんな人生(猫生?)を送る。王様に飼われていたり、船乗りの猫だったり、サーカスの手品使いの猫だったり、泥棒やおばあさん、小さな女の子の猫だったりする。そしてねこはその誰もを嫌いだった。100万回の猫生の中にはもっといろんな人が飼い主だったのだろうが、たぶんねこはどの飼い主も、どの猫生も嫌いだったと思う。

最後にのらねことして生きた時に初めて、ねこは自分のことを大好きになった。あ、ちがうか、もともと自分のことが大好きだったから、誰かの飼い猫であることに満足できなかったということなのかもしれない。

このねこは、自分の過去を覚えている。のらねことして転生したあとに、過去を自慢する。

ほんとに自慢だったのかな、なんていう感想も浮かぶ。そうとでも言わなければ、100万回生きた時間の流れに押しつぶされてしまいそうだったのかもしれない。

自分の過去にこだわらない白いねこに出会って、ようやくねこは今の猫生を生きることができるようになった。だから満足して終わりにすることができたんじゃないか。

さて、このねこの上に流れた「時」は、どういうものだったんだろうね。

全部記憶があるということは、うんざりするような長さだったんじゃないだろうか。

ラストのページの「ねこはもうけっしていきかえりませんでした」という一行が、ねこの解放感を伝えてくるような気がして、今日はそんなふうに読んでみた。

 

私は転生することも、やり直すこともごめんだから、一度きりの人生はすっぱりと終わってほしい。問題はそれがいつくるかわからない、ということだけだ。

「寂しくないなんて強がってるだけよ」

なぜかそういうふうに言われることがある。

若いころにもよく言われたのだが、最近また言われてしまった。

この通りに言われたわけじゃないんだけど、「あなたのことが心配で」という体で言われたことの真意を探った結果、どうもそういうことじゃないかと思ったわけで。

私は一人でいることが好きで、気楽で、好んで一人でいることもあるのだが、その様子がなんか無理をしているように見えたらしい。そんなこと言われても私にはわからないんだけど。

 

なぜ芝居が好きなのかが分かった気がしている。(芝居であって演劇ではないところがミソ)

芝居にはセリフがある。決まった筋書きがある。そしてなにより、役にはそこにいるべき理由がある。というかむしろそこにいなくてはならない。どんな役であっても、その芝居を構成す要素であるかぎり、たとえ一場面しか出てこなくても、ほとんどセリフがなくても、そこにいる理由がある。それがいいのだ。

私は芝居の中でなら相手の目を見て言葉を発することができるし、安心して動くことができる。自分の演技に対する反省はあるけど、自分がしゃべった言葉に関してあれこれ思い煩うことはない。だって決められたセリフなのだから。行動に関してもそうで、笑おうが泣こうが、怒ろうが喜ぼうが、それに関して思い悩むことは何もない。だってそういう脚本なのだから。

現実の世界ではそうはいかない。ずっと続く即興劇だから、次に相手がどう出るかはわからないし、自分の言動に対して相手がどう反応するかもわからない。相手の言動をどう受け止めたらいいのかもわからない。常に手探り。正解を出そうと、誤答になろうと、答え合わせはないし、幕も下りない。ほんとに現実世界は恐ろしい。

もしかしたら私は、生育過程において「無条件に受け入れられる」という経験をしたことがないのかもしれない、と最近気づいた。明確に条件付けされた記憶はないのだが、自分の好みや思いがすげなく打ち捨てらた記憶はけっこうある。いつの間にか私は、自分の趣味や好みややりたいことには価値がないのだと思うようになっていた。これは、本当に価値がないのか、そう思い込んでいるだけなのか、いまだにわからない。

価値があると思っていいのだという風潮に乗っかって肯定してみようとするんだけど、すぐに否定的な気持ちがわいてきてしまう。

はやりの「ありのままの自分」という考え方も、理屈としてはわかるのだが、体感としては受け入れがたいところがある。

つまり、私は私のままではよろしくないのである。よろしくない、という感覚がなくならない。

だから現実世界では身の置き所がなくて、落ち着かないのである。

 

それに引きかえ、舞台の上はいい。目的も役割もはっきり決まっている。

私は私ではない人になって、誰かが書いた言葉を話す。たとえ自分が書いた脚本だとしても、そこに書かれた人物は私ではないのだから、セリフは常に他人の言葉である。

ときに、自分の心情と重なることもあって、まるで自分の気持ちであるかのようにふるまえることすらある。でも、あくまでも言っているのはその役である、という一線は崩れない。

役をまとっている限り、私は舞台であがるということがあまりない。芝居を始めたころは、「大勢の視線にさらされる」という状況に慣れなくて緊張したものだが、その状況には慣れるものだ。「忘れたらどうしよう」という不安も、場数を踏むうちになんとかできるようになって、減ってきた。

うまいと思われたいとか、観客を感動させたいと思ったことはない。(あ、うそ。うまいと思われたいというのはちょっとある。)

お客様に何かを届けたい、なんてすごいことは実は一度も思ったことはないのだ。私にはそんな技量はないことはわかりきっているから。ただ私は、私じゃない人になって、安全(心理的に)な世界で生きていたいだけなのだ。

 

芝居をしているときだけは人に気を使わなくても済む。それは裏を返せば、現実世界では常に人に気を遣っているということだ。いい意味で気を遣えているならいいんだけど、私の場合は問題回避のためだから、実に利己的な理由である。

もうこれは性分のようなもので、人と相対すると自動的に何かしらの気を遣ってしまうのだ。

その場を維持するためにいろんなことをする。ときにはやりすぎてしまったかと冷や汗をかくこともある。人との関係なんてそんなものだといってしまえばそれだけなのだが、毎度毎度自動的に脳内反省会が開かれてしまう、あるいは開きそうになってしまう状態がしんどい。

だから、最初から積極的に人と関わらないようにしているのだ。拒絶するというのもこれまた攻撃力の高い反応だから、そういうことはしない。去る者は追わず来る者は拒まず。そういう姿勢である。そのやり方が「一人で寂しいのに無理をしている」という風に見えてしまったのだとしたら、見解の相違ですねというしかない。

 

ただ最近ちょっと心配なのは、情緒が死にかけているような気がすることである。

泣けない、感動できない。実生活で気持ちがあまり動かなくなっている気がするのだ。

ドラマを見て、たいていの人が感動して泣いている場面でも、なぜかしらっと冷めた気持ちになっていることがある。ああまあそういうものよね、なんて、傍観者みたいな感想になったりする。それがちょっと怖い。そこだけは、大丈夫かなと心配しているところである。