10月の蝉 -3ページ目

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

知り合いに、とある新興宗教を信仰している人がいる。仏教系のわりとおだやかな一派らしい。

積極的な勧誘はしてこないんだけど、ちょっと長く話しているとやんわりとお誘いを受ける。

私は「はあ、まあ」などと曖昧に笑いながら受け流しているんだけど、そのたびに不思議な気持ちになる。

この人とは、ちょっと似たような経験をしたことがきっかけで個人的に話すようになったんだけど、それ以来やけに私のことを気にかけてくれる。

先日も、ある会合で私がほかの人から離れて一人で座っていたのを見かけて、心配になったと電話をくれた。なんか孤立していると思ったようだ。私にしてみれば、周囲は顔見知りばかりではあったものの、別に話すようなこともなく、なんとなくちょっと離れた席に座っていただけのことなのだが、その人にしてみると、私がそれまで仲良くしていた人がいなくなったことで周囲に溶け込めなくなっている、というふうに見えたらしい。

気にかけてくれることはありがたいのでお礼は言ったものの、なんだかなあとも思ってしまった。その話の流れでまたその宗教にふわっとお誘いを受けたからだ。

その人がその宗教に救われたのは事実なのだろうけれども、私にはどうにもピンと来ない。

宗教とか信仰ってなんなんだろうなあと改めて考えてしまった。

 

人はすべてのものに理由を求めてしまう。そういう生き物なのだろう。

世界は広大で、知らないことわからないことに満ち溢れている。

突然の災害や不幸は、時も場所も人も選ばずに訪れる。たぶん人間が理解しやすいような理由はないのだ。でもそのことがどうしても受け入れがたい。だから人は宗教を作り出した。それは「世界の見方」である。超越者みたいな存在がいて、なにかしらの理由でさまざまな事象(災害とか不幸とか)を引き起こす。そういうふうに世界を規定する。神様とか仏様とか、まあそういうやつ。時には一個人がそれを名乗ることさえある。「人生の真理」だとか「世界の真理」みたいなもので物語を作る。その物語が自分にしっくりくると思えばその宗教を信じることになるのだ。

人間の世界の見方、とらえ方なんて、要するに刷り込みなので、生まれた時からその世界観に染まる人もいれば、途中で物語を変更する人もいる。誰かすごい存在に答えを教えてもらって、その答えをもとに生きようとする。世界の神話や昔話をみると、いかに様々なとらえ方があるかがよくわかる。人はみな、自分に都合のいいように世界をとらえる。

 

だからこそ、私には信仰というものがわからない。ある教義を信じるという心のありようがわからないし、なんならちょっと怖いなとすら思う。

その考え方をうまく利用して生きやすくする、というならまだわかるんだけど、心底信じてしまうというのはどういう心理なんだろう。

 

私はたぶん科学を信じている。長い時間をかけてたくさんの人が考え、実証してきた科学。

科学のいちばん信じられるところは、「常に仮説であり、疑いが存在する」というところ。

これが最終的な唯一無二の答えです、とは言わないのが科学だと思っている。いつだって「現時点では」という注釈がつくところがいい。

たぶんに宗教には思考停止の側面があると思っている。自分の苦しみやつらさの理由がその教えで説明がつくと思ったときから、理解や思考が止まる。

自分の気持ちを安定させるには有効だろうとは思うんだけど、そこに一分の疑いも残さないところが怖い。

私がお誘いを受けても断るのは、自分がそういう状態になるのが嫌だからだ。そりゃ、すべてをゆだねてしまえば楽になるだろう。その人は、対人関係で苦しんでいたときにその宗教に出会って救われたといっていた。同じ人物との関係に苦しんでいた私を見て仲間だと思ったのかもしれない。だから私を誘うのだ。しかし私は、その人物との関係をすべてばっさり切り捨てたことで問題を解決してしまった。合わない人はいるよね、の一言で終わりだ。人には人の事情があり、他人の事情なんて私にはどうすることもできないのだから、関係を断つのがいちばんいい方法である。まあ、大人だからさ(笑)会えばあいさつくらいはするんだけども。

 

ユニークポイントの「王国で殺して」という作品に、新興宗教を信仰する人が登場する。その人はもろもろの苦しみをなんとかしたくてその宗教にすがった。そうしたら、どんな苦しみもすべてうまく転化することができた。多少つじつまが合わなくなっても、その教義にすがることで切り抜けようとする。そういう宗教は実にうまくいろんな口実を用意しているので、どんな事態にも対応してしまえるのだ。あれを見た時に、「そうか、宗教というのは世界の見方であり、一つの物語なのだな」と思った。どういうふうに世界を切り取るか、どういうふうに受け取って解釈するかの一手段なのだなと。

全部自分を手放して、誰かにゆだねてしまうのはとても気持ちのいいことなのだろう。でも私はどうしてもそういうのが嫌なのだ。

酒を飲むという行為が嫌いなのは、下戸のせいもあるんだけど、アルコールを摂取することで自分の意識があいまいになるのが嫌だからだ。

宗教にはまるのってちょっと酒に酔うことに似てる気がする。

 

人の言葉を100%信じることができないのは、まあ寂しいっちゃあ寂しいことなんだけど、やっぱりこれは自衛だと思うのだ。だって本心なんてわからないもんね。

表層部分は受け取るけど、疑いの部分は必ず残す。昔は表層部分ですら受け取れなかったから、それを思うと多少は成長しているのかもしれない。

人間関係をうまくやっていくということは、受け取る部分と疑う部分のバランスをうまくとっていくということなんじゃないかと思う。そうすれば「裏切られた!」なんていう悲劇は多少は避けられるんじゃなかろうか。

若いころはまだよくわかってなくて、うっかり信じてしまって痛い目を見たこともある。

信じるというか、たぶん何も考えてなかったんだろうな。その結果、けっこうつらい結末を迎えたことが多々あって、それ以来信じることに慎重になった。

そもそも親が信じられないで育ってきたから気を付けていたはずなんだけど、友達や恋人は違うってなぜか思ってしまった。何も違わないのにね。

疑心暗鬼にはならないように気を付けてはいる。そうなってしまったら、それはそれでつらいことになってしまうから。でも、100%全身全霊を投げ出すようなこともしない。

 

そんなふうに思っている私にとっては、宗教やそれを信じている人はとても不思議で理解が難しい存在である。

一応社会とのつながりはあるから、厳密にいえばひきこもりではないのかもしれないけど。

家から出ない。どこかへ出かけないという意味で、出ない。

日常の買い物ですら、なんとかまとめて一度で済ませようとしてる。消耗品は、消耗というくらいだから毎日少しずつなくなっていて、物によってなくなるタイミングがバラバラである。それをなんとかひっくるめて、まとめて済ませたいと切望している。一人で暮らしているからできることではあるんだが。

それ以外の外出は、事前に決めていた予定(読み聞かせだとか、稽古だとか、観劇だとか)以外はめったにしない。

ふらっと散歩に出るとか、どこかへ遊びに行きたい、という気持ちがない。

一日中家にいたい、と思う。それも、一人で。

 

誰かに会いたい、という気持ちは、ないわけではない。

会ってしゃべりたいと思える人は何人かいるんだけど、どうしてもこちらから声をかけることができない。向こうから誘ってくれたら二つ返事で出かけるんだけど。こういう態度はよろしくないと思うんだけど、どうしても気おくれしてしまう。

会って話したらとても楽しいんだけど、同時に一人になったときにいつも不安な気持ちがわきあがる。あれでよかったのかな、なんかまずいことしなかったかなと。最近はあえて考えないようにはしているけど、基本的には常に脳内反省会が開かれてしまう。

 

「そんなことしてどうなるんだ?」という声が今でも消えない。

絵を描こうか、何か作ろうかという欲求が生まれることがあっても、ふいに「そんなことして何の意味があるんだ?」という声が聞こえて、しゅるしゅるとその欲求が消えていく。

意味なんかなくてもいいんだ、やりたいと思ったらやればいいのさ、と自分を励ましても、「まあ、それをしたところでどうなるものでもないしな」と思ってしまう。

以前、美術展によく行っていた。絵を見るのが好きだったから、興味のある美術展があればちょっと無理をしてでも出かけていた。でもいつの間にか、まあいいか、と思うようになってしまった。私が絵を見たからといってなんになるんだ、と思ってしまったから。

なんでこんな損得勘定をするようになったのかな。たぶん、私の中で内在化されてしまった価値観のせいなんだろう。元は親から来たものだったと思うんだけど(子供のころにたいていの興味はそれでつぶされてしまっていた)、この年になってもまだその価値観が残っていて、行動を制限してしまう。お金も使うしねえ。これがいちばん大きいかもしれない。

自分の行動が経済的価値を持たない、というかむしろ損失にしかならない、という気持ちが強すぎる。この気持ちに縛られすぎるとほんとに何もできなくなるから、芝居を観たり映画を観たり本を買ったりするときはあえてそれに逆らうような気持ちを持つようにしている。で、また、逆らうことで気力が削られたりするのだ。

 

今はこの家に一人でいるから、家にいるのがいちばん安心する。

必要に迫られてちょっと外出するくらいがちょうどいいのだ。

「働くこと」に関しても、どうしても気が進まないのは外に出なくてはいけないからなのだと気づいた。家にいて働くこと(=報酬が得られる仕事をすること)ができるならそれがいちばん好ましい。かろうじて家の維持という主婦業はこなしているけど、目に見えて報酬があるわけじゃないからなあ。夫の扶養で生きているから、生活は切り詰めないといけない。私個人のことでお金を消費してしまうのは申し訳ないというか、いけないことだという感覚がある。これもまた内在化してしまった呪いなのかもしれないんだけど、このあたりの折り合いはまだうまくつけられていない。

懐かしい絵描き歌。

6月6日、今日は雨は降ってない。

 

一本の棒から連想が広がることがある。

例によってTwitterをだらだら眺めていたら、「親に言われて今でも覚えていること」みたいなお題が流れていった。主に悪いほう、傷つけられた方の言葉が対象だったような。

高校生の時に「ごくつぶし」とののしられたことはたぶん死ぬまで忘れられないんだけど、もう一つ、呪いの言葉を思い出した。

最初の結婚をしたときのことだ。

母と話してて、どういう流れなのか忘れたけどさらっと「あんたに主婦が務まるとは思えない」と言われたのだ。結婚おめでとうとかそういう雰囲気はなくて、あらあら結婚するの、なに専業主婦なの? それは無理じゃない? みたいなニュアンスだった。

家事の手伝いとかしたことがなかった。気が利かないというのもあったし、なまじ手伝おうとすると母の機嫌を損ねることが多かったせいで次第に手を出さなくなったということもある。

自分だってちゃんと主婦(家庭のきりもりという意味で)がつとまるかどうかは不安だった。

一応一人暮らしもして、家事の真似事はしていたけども、一家の主婦となるとまた違うんだろうなとも思っていたし。

それでも、すぱっと「あんたに務まるとは思えない」と言われたのはちょっとしたショックだった。そうか、と納得する気持ちと、なにくそ、という反発心の両方があった。

当時はちゃんとそれを認識していなかったんだけども。

だから私はムキになった。意地でも専業主婦を勤め上げなくてはならないと必死になった。

家をきれいに保つこと、洗濯や炊事も手を抜かないこと。子供が生まれたあとは完璧な育児(布おむつの使用、全部手作りの離乳食など)を目指した。

まるで学校の勉強でいい成績をとるかのように、調べて勉強してきっちりやろうとした。

「理想の家庭」みたいなものを作ろうとした。それが結婚というものだと思っていた。

結果からいえば、その目論見は全部崩れた。

なんていうかなあ、内からあふれ出る熱意でもって「主婦」をやってるんじゃなくて、こういうものだろうという型から推し量った主婦業だったから、ある意味空回りしてたんだと思う。

主婦の炊事っていうのは、単発のお料理作りのことではない。冷蔵庫にある食材の回し方、調味料の管理、こまごました掃除など全部を含む。限られたお金でどう食材を見繕って食事を用意するか、毎日の献立をどうするかを管理運営することである。

しかし当時の夫は仕事柄時間が不規則で、突然飲み会で食事がいらないと言うこともあったりして、しょっちゅう予定が狂っていた。子供だって、機械じゃないからこっちの思い通りになんて動かない。私は「ちゃんとした主婦」であろうとしてうまくいかず、ずっとイライラしていた。

なんとしても母の呪いを跳ね返さなくてはいけない。心のどこかでそう思っていたんだろうな。

失敗したら母の言うとおりになってしまうのだから。

 

それが呪いだったのだと認識できたのは最近のことだ。

本来の私はとても怠け者で、利己的で、人のために動くことができない人間である。ずっと一人で過ごすほうが気楽でいいと思っている。なのに、全部それに反するようなことばかりしてきて、なんでこんなに苦しいんだろうと思っていた。苦しくて当たり前だった。

 

「あんたに主婦はつとまらない」という母が引いた一本の棒。

そのまま投げ捨ててしまえばよかったのに、私はそこに線を書き足して「ほめられる自分」の絵を描こうとした。書き上げたところで褒めてもらえるはずもなかったのに。

 

私の母は本来の意味での「毒になる親」なのかもしれない。

衣食住は保証してくれたし、学校にも行かせてくれた。経済的にも助けてもらった。

でも。実家は心が休まるところではなかったし、会いたいとも思えない。

家を出てから、実家に帰ることや母親に会うことはいつも憂鬱なことだった。

父に関しては思うことが何もない。思い出もほとんどないし、私の中ではほぼ存在していない人なのだ。お金を出してくれたことだけがありがたかったかな。世の中には自分の子供にお金を出さないという親もいるからね。こういうのが毒になるのかどうかはわからないけど、私の中の父親像とか家庭観に大きな欠陥があるのはたぶんにそこに理由があるとは思う。

 

自己理解が進むのはいいんだけど、なかなかにつらいものはあるねえ。