知り合いに、とある新興宗教を信仰している人がいる。仏教系のわりとおだやかな一派らしい。
積極的な勧誘はしてこないんだけど、ちょっと長く話しているとやんわりとお誘いを受ける。
私は「はあ、まあ」などと曖昧に笑いながら受け流しているんだけど、そのたびに不思議な気持ちになる。
この人とは、ちょっと似たような経験をしたことがきっかけで個人的に話すようになったんだけど、それ以来やけに私のことを気にかけてくれる。
先日も、ある会合で私がほかの人から離れて一人で座っていたのを見かけて、心配になったと電話をくれた。なんか孤立していると思ったようだ。私にしてみれば、周囲は顔見知りばかりではあったものの、別に話すようなこともなく、なんとなくちょっと離れた席に座っていただけのことなのだが、その人にしてみると、私がそれまで仲良くしていた人がいなくなったことで周囲に溶け込めなくなっている、というふうに見えたらしい。
気にかけてくれることはありがたいのでお礼は言ったものの、なんだかなあとも思ってしまった。その話の流れでまたその宗教にふわっとお誘いを受けたからだ。
その人がその宗教に救われたのは事実なのだろうけれども、私にはどうにもピンと来ない。
宗教とか信仰ってなんなんだろうなあと改めて考えてしまった。
人はすべてのものに理由を求めてしまう。そういう生き物なのだろう。
世界は広大で、知らないことわからないことに満ち溢れている。
突然の災害や不幸は、時も場所も人も選ばずに訪れる。たぶん人間が理解しやすいような理由はないのだ。でもそのことがどうしても受け入れがたい。だから人は宗教を作り出した。それは「世界の見方」である。超越者みたいな存在がいて、なにかしらの理由でさまざまな事象(災害とか不幸とか)を引き起こす。そういうふうに世界を規定する。神様とか仏様とか、まあそういうやつ。時には一個人がそれを名乗ることさえある。「人生の真理」だとか「世界の真理」みたいなもので物語を作る。その物語が自分にしっくりくると思えばその宗教を信じることになるのだ。
人間の世界の見方、とらえ方なんて、要するに刷り込みなので、生まれた時からその世界観に染まる人もいれば、途中で物語を変更する人もいる。誰かすごい存在に答えを教えてもらって、その答えをもとに生きようとする。世界の神話や昔話をみると、いかに様々なとらえ方があるかがよくわかる。人はみな、自分に都合のいいように世界をとらえる。
だからこそ、私には信仰というものがわからない。ある教義を信じるという心のありようがわからないし、なんならちょっと怖いなとすら思う。
その考え方をうまく利用して生きやすくする、というならまだわかるんだけど、心底信じてしまうというのはどういう心理なんだろう。
私はたぶん科学を信じている。長い時間をかけてたくさんの人が考え、実証してきた科学。
科学のいちばん信じられるところは、「常に仮説であり、疑いが存在する」というところ。
これが最終的な唯一無二の答えです、とは言わないのが科学だと思っている。いつだって「現時点では」という注釈がつくところがいい。
たぶんに宗教には思考停止の側面があると思っている。自分の苦しみやつらさの理由がその教えで説明がつくと思ったときから、理解や思考が止まる。
自分の気持ちを安定させるには有効だろうとは思うんだけど、そこに一分の疑いも残さないところが怖い。
私がお誘いを受けても断るのは、自分がそういう状態になるのが嫌だからだ。そりゃ、すべてをゆだねてしまえば楽になるだろう。その人は、対人関係で苦しんでいたときにその宗教に出会って救われたといっていた。同じ人物との関係に苦しんでいた私を見て仲間だと思ったのかもしれない。だから私を誘うのだ。しかし私は、その人物との関係をすべてばっさり切り捨てたことで問題を解決してしまった。合わない人はいるよね、の一言で終わりだ。人には人の事情があり、他人の事情なんて私にはどうすることもできないのだから、関係を断つのがいちばんいい方法である。まあ、大人だからさ(笑)会えばあいさつくらいはするんだけども。
ユニークポイントの「王国で殺して」という作品に、新興宗教を信仰する人が登場する。その人はもろもろの苦しみをなんとかしたくてその宗教にすがった。そうしたら、どんな苦しみもすべてうまく転化することができた。多少つじつまが合わなくなっても、その教義にすがることで切り抜けようとする。そういう宗教は実にうまくいろんな口実を用意しているので、どんな事態にも対応してしまえるのだ。あれを見た時に、「そうか、宗教というのは世界の見方であり、一つの物語なのだな」と思った。どういうふうに世界を切り取るか、どういうふうに受け取って解釈するかの一手段なのだなと。
全部自分を手放して、誰かにゆだねてしまうのはとても気持ちのいいことなのだろう。でも私はどうしてもそういうのが嫌なのだ。
酒を飲むという行為が嫌いなのは、下戸のせいもあるんだけど、アルコールを摂取することで自分の意識があいまいになるのが嫌だからだ。
宗教にはまるのってちょっと酒に酔うことに似てる気がする。
人の言葉を100%信じることができないのは、まあ寂しいっちゃあ寂しいことなんだけど、やっぱりこれは自衛だと思うのだ。だって本心なんてわからないもんね。
表層部分は受け取るけど、疑いの部分は必ず残す。昔は表層部分ですら受け取れなかったから、それを思うと多少は成長しているのかもしれない。
人間関係をうまくやっていくということは、受け取る部分と疑う部分のバランスをうまくとっていくということなんじゃないかと思う。そうすれば「裏切られた!」なんていう悲劇は多少は避けられるんじゃなかろうか。
若いころはまだよくわかってなくて、うっかり信じてしまって痛い目を見たこともある。
信じるというか、たぶん何も考えてなかったんだろうな。その結果、けっこうつらい結末を迎えたことが多々あって、それ以来信じることに慎重になった。
そもそも親が信じられないで育ってきたから気を付けていたはずなんだけど、友達や恋人は違うってなぜか思ってしまった。何も違わないのにね。
疑心暗鬼にはならないように気を付けてはいる。そうなってしまったら、それはそれでつらいことになってしまうから。でも、100%全身全霊を投げ出すようなこともしない。
そんなふうに思っている私にとっては、宗教やそれを信じている人はとても不思議で理解が難しい存在である。