10月の蝉 -4ページ目

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

懐かしい絵描き歌。

6月6日、今日は雨は降ってない。

 

一本の棒から連想が広がることがある。

例によってTwitterをだらだら眺めていたら、「親に言われて今でも覚えていること」みたいなお題が流れていった。主に悪いほう、傷つけられた方の言葉が対象だったような。

高校生の時に「ごくつぶし」とののしられたことはたぶん死ぬまで忘れられないんだけど、もう一つ、呪いの言葉を思い出した。

最初の結婚をしたときのことだ。

母と話してて、どういう流れなのか忘れたけどさらっと「あんたに主婦が務まるとは思えない」と言われたのだ。結婚おめでとうとかそういう雰囲気はなくて、あらあら結婚するの、なに専業主婦なの? それは無理じゃない? みたいなニュアンスだった。

家事の手伝いとかしたことがなかった。気が利かないというのもあったし、なまじ手伝おうとすると母の機嫌を損ねることが多かったせいで次第に手を出さなくなったということもある。

自分だってちゃんと主婦(家庭のきりもりという意味で)がつとまるかどうかは不安だった。

一応一人暮らしもして、家事の真似事はしていたけども、一家の主婦となるとまた違うんだろうなとも思っていたし。

それでも、すぱっと「あんたに務まるとは思えない」と言われたのはちょっとしたショックだった。そうか、と納得する気持ちと、なにくそ、という反発心の両方があった。

当時はちゃんとそれを認識していなかったんだけども。

だから私はムキになった。意地でも専業主婦を勤め上げなくてはならないと必死になった。

家をきれいに保つこと、洗濯や炊事も手を抜かないこと。子供が生まれたあとは完璧な育児(布おむつの使用、全部手作りの離乳食など)を目指した。

まるで学校の勉強でいい成績をとるかのように、調べて勉強してきっちりやろうとした。

「理想の家庭」みたいなものを作ろうとした。それが結婚というものだと思っていた。

結果からいえば、その目論見は全部崩れた。

なんていうかなあ、内からあふれ出る熱意でもって「主婦」をやってるんじゃなくて、こういうものだろうという型から推し量った主婦業だったから、ある意味空回りしてたんだと思う。

主婦の炊事っていうのは、単発のお料理作りのことではない。冷蔵庫にある食材の回し方、調味料の管理、こまごました掃除など全部を含む。限られたお金でどう食材を見繕って食事を用意するか、毎日の献立をどうするかを管理運営することである。

しかし当時の夫は仕事柄時間が不規則で、突然飲み会で食事がいらないと言うこともあったりして、しょっちゅう予定が狂っていた。子供だって、機械じゃないからこっちの思い通りになんて動かない。私は「ちゃんとした主婦」であろうとしてうまくいかず、ずっとイライラしていた。

なんとしても母の呪いを跳ね返さなくてはいけない。心のどこかでそう思っていたんだろうな。

失敗したら母の言うとおりになってしまうのだから。

 

それが呪いだったのだと認識できたのは最近のことだ。

本来の私はとても怠け者で、利己的で、人のために動くことができない人間である。ずっと一人で過ごすほうが気楽でいいと思っている。なのに、全部それに反するようなことばかりしてきて、なんでこんなに苦しいんだろうと思っていた。苦しくて当たり前だった。

 

「あんたに主婦はつとまらない」という母が引いた一本の棒。

そのまま投げ捨ててしまえばよかったのに、私はそこに線を書き足して「ほめられる自分」の絵を描こうとした。書き上げたところで褒めてもらえるはずもなかったのに。

 

私の母は本来の意味での「毒になる親」なのかもしれない。

衣食住は保証してくれたし、学校にも行かせてくれた。経済的にも助けてもらった。

でも。実家は心が休まるところではなかったし、会いたいとも思えない。

家を出てから、実家に帰ることや母親に会うことはいつも憂鬱なことだった。

父に関しては思うことが何もない。思い出もほとんどないし、私の中ではほぼ存在していない人なのだ。お金を出してくれたことだけがありがたかったかな。世の中には自分の子供にお金を出さないという親もいるからね。こういうのが毒になるのかどうかはわからないけど、私の中の父親像とか家庭観に大きな欠陥があるのはたぶんにそこに理由があるとは思う。

 

自己理解が進むのはいいんだけど、なかなかにつらいものはあるねえ。

 

映画「箱の中の羊」を観てきた。

見終わってすっきりするようなタイプの映画ではなくて(いろんな意味で)、ずっともやもやしたものが胸に残る、そういうタイプの映画であった。是枝監督の作品はそういうものが多い。

ひっかかるものがあちこちにちりばめられていて、自分がどれにひっかかるか、どれを拾うかが大事なのだ。

少し先の時代、という設定でドローンが荷物を運んでくるところから映画は始まる。いわゆる「近未来もの」という始まりである。そのわりには普通に車は走ってるし、家も今とそう変わらない感じで、だから「少し」先なのかなという感じ。

しかしAIの技術はとんでもなく進んでいて、人間と見まごうようなヒューマノイドが普及?している世界である。

ヒューマノイドがふつうに存在しているために近未来設定にしたのかなあとも思うんだけど、ちょっと無理があった気がする。まあそこは目をつぶって、ふわっと物語の設定として飲み込むのがいいのかもしれない。

というのも、やはり映画の主眼は一組の夫婦がどうやって悲しみを受容していくかにあるからだ。家族ってなにかね、というテーマは、私もずっと考えているので、そこに興味をもって映画を見ることにしたのだった。

 

2年前に亡くなった息子そっくりのヒューマノイドを迎え入れる冒頭の場面で、妻と夫では明らかに反応が違う。妻はちょっと危ういほどにその子にのめりこんでいくが、夫のほうは少し冷めた目で見ている。このあたりの温度差が、ステレオタイプではあったけど共感するところが多かった。私はむしろ夫サイドの見方のほうに共感したんだけど。このあたりの大悟さんの演技はとても自然だった。おおげさに引くわけではないんだけど、そこはかとなく違和感を持っている感じ。だってヒューマノイドじゃん、という心の声が聞こえてくるようだった。

パンフレットによれば、妻を演じた綾瀬はるかさんもどちらかというと夫サイドの感覚だったらしい。あんなふうにどっぷりと子供の存在にはまりこんでしまう感覚はちょっと私にはないなあと思った。

 

他者の死を受け入れるのはとても難しいことだ。特に突然いなくなってしまった人のことは、どうしたってうまく飲み込めない。なぜ、どうしてという思いはどうやっても消せない。時間をかけて徐々に細かく砕いて無理やり飲み込んでいくしかないのだ。

お盆に死者の霊が帰ってくるという発想は、少しでも飲み込みやすくするための手段である。

人はそうやって物語を作って、死を乗り越えていく。

じゃあそこに、技術を使って死者の疑似的よみがえりが可能であるとなったらどうなるか。

当座はいいだろうけど、だんだんと齟齬が生じるのは当然のように思う。映画もそういう展開になった。最初に全肯定で受け入れると逆に違和感が目立つようになる。最初が懐疑的だとこっちは次第に肯定的になる。このあたりの人間心理はとてもわかりやすい。

 

ひっかかるところはあちこちにあり、かつ散漫な感じでばらまかれているので、全部ひっかかっていると最終的に映画の感想も散漫になってしまう。つじつまが合わないところも多々あったもんだから、そういう視点で見ないほうがいいのかもしれない。

 

私としては、妻とその母との関係性が興味深かった。あの母親はいわゆる「毒親」である。

ずけずけと嫌なことをいうし、子供の気持ちを考えないし、「おかあさんをやめる」と脅したりする。なるほど、毒親を描写するにはああいうふうにすればいいのか、と参考になった。

ただ、映画の中ではものすごくあっさりと関係が改善されてしまう。娘(音々)は自分の感情をぶつけることができて、なんとなく和解のムードが漂う。

あんなふうに思い切り感情をぶつけることが果たしてできるものなのだろうか。映画の中でそれなりに解決しないといけないところだったから仕方のないことなのかもしれないが、ああいう母娘関係が長らく続いてきたとするなら、そう簡単に爆発できるもんじゃないと思うんだけどね。

ヒューマノイドを迎え入れてどっぷりはまってしまっている状態だったから、感情も振り切れてしまったのだろうか。

しかし、そうまでして手に入れた疑似息子なのに、仕事が行き詰ってイライラすると「もうママをやめる」と言ってしまう。あー、連鎖だ、と思った。この言葉はそのあとで曖昧に解消されてしまうので、描写としてはちょっと物足りなかった。

 

この映画が一つの箱だとすれば、見る人によって中身は違うのだろう。その人が見たいもの、欲しいものがある、ということなのかもしれない。

私にとっては、家族、ってなんなんだろう、という問いがその中身だった気がする。

答えは出てない。

今日は今年度最初の読み聞かせに行ってきた。

小学校の5年生のクラス。

選んだ本は、落語絵本「まんじゅうこわい」(川端誠)

クレヨンハウスから出ている絵本で、川端さんの絵が輪郭線くっきりのもの。

私が持っている落語の絵本は、これと「じごくのそうべえ」の2冊のみ。

落語は好きで、ちょっとやってみたいなと思ったこともあるんだけど、まあ難しいわけで。

せめて読み聞かせで雰囲気だけでも味わってみたいと思っている。

読み聞かせを始めたころは、読み方にも作法があって、淡々と読むとか、読み手の存在を前に出さない(演じない)みたいなことを習い、そういうものかと思っていたんだけど。

だんだんと、なんか違うなあと思うようになってきて、ちょっと「演じる」に近いところに行きつつある。厳密にいえば「演じて」いるわけではなくて、なんていうんだろう、その世界をなんとか立ち上げたい、みたいな感じが強い。

だから今日の「まんじゅうこわい」も、しゃべりの部分はそれなりに内容が伝わるように読んだし、オチにつながるように表現しようと思って読んだ。

落語を聞いたことがないと言っていた子供たちも、話の進行につれて表情が変わっていったし、ちょっと笑い声もあがったりした。

読み聞かせの時にはあんまり子供たちに視線を向けないほうがいいといわれてるんだけど、今日はけっこう子供たちの顔を見ながら読んでいった。ちょっとだけ「落語を語る」っていう雰囲気。

読み聞かせの目的として、「子供たちに読書への興味を持たせる」とか「本を読むように仕向ける」というのがあるみたいなんだが、私はそれについては懐疑的である。

そりゃなかにはそういう子もいるのかもしれないが、それよりもまず、聞かされるお話を楽しんでもらいたいと思う。強制的に聞かされる立場からしたら、どれだけ崇高な目的があるとしても、その時点で聞かされるお話がつまらなかったら意味がない。せめて「なんか面白かったな」と思ってもらいたい、というのが今のモチベーションになっている。

私のいる界隈では読み手の高齢化が進んでいて、それはつまり後継者がいないということなんだけど、この先いつまで続けられるかもわからない。学校側も一応、読み聞かせは大事ですというものの、それに充てられる時間は減ってきているし、先生によってはあまり意味のない時間だと思われているような気配すらある。古い校舎にはエレベーターがなくて、4階まで階段でのぼらなくちゃいけないこともあって、高齢化した読み手には厳しい環境だったりもする。

朝の短い時間に行われる読み聞かせが、果たしてどれくらいの効果があるのかとも思う。

いつの間にか私の中では、子供たちへの読み聞かせが自分の鍛錬の場になっている。

初めて会う子供たち。たぶんもう会わないだろう子供たち。それは劇場に足を運んでくれるお客さんと同質である。まさに一期一会。だからこそ、どれくらい近づけるかが大事になってくる。

別に私を見せたいわけじゃない。私の技術を見せつけたいわけじゃない。私は物語の語り手となって、どれだけ多くそのお話の中身を伝えられるかに力を注いでいる。それって芝居と同じだよなあと思う。役として舞台に立つのと、読み手として前に立つのはもちろん違うんだけど、こっちの心持ちとしての問題。だから、割に合わないよなあと思いながらも続けているのである。

 

割に合わないなあと思っているのは、わらべ歌遊びの会も同じ。

軽い気持ちで始めたわらべ歌遊びの会なのだが、気が付いたらやってるのは私一人になってしまった。ほかにもやってる人はいるんだけどグループが違うので、今行っているところは私一人でやっている。

オープニングでわらべ歌を歌いながらぶらぶら人形ってやつを見せて、絵本を3~4冊読む。

そのあとは、わらべ歌に合わせてのふれあい遊び。親子で一緒に体を動かす。そんな難しい動きじゃなくて、足をもって動かしたり、体をなでたりくすぐったり、抱っこして揺らしたり。そんな単純な遊び。でも、私もそうだったけど、そんなふうに子供と遊ぶことってなかなかない。だいたいは、子供がおもちゃで遊んでいるのを見守っていたり、相手をしたりするくらい。

直接子供の体に触れるような遊びは知らないのだ。わらべ歌だって、聞いたことがない人のほうが多い。

昔グループでやってたときは、先輩たちが「一緒に歌いましょう」なんて言ってたけど、そもそもわらべ歌自体を知らないんだから誰も歌わないし、なんとなく警戒するような空気になったりしていたものだ。知らないことが悪いことみたいな感じすらあった。

ずっとやってると、お客さんである親子は1~2年で入れ替わってしまう。年々若くなる(私から見て)。だから、一人でやるようになってからは、「知らない」ということを前提にした。

歌は私が歌うから、なんとなく合わせてやってくれればいい。子供が飽きたらやめていい。嫌がったらやらなくていい。ちょっとでも子供のほうに気持ちをもっていって、なんとなく触れてくれていればいい。そう割り切ることにした。だいたい、子供の方だって普段親にそんなふうにされていないんだから、急に親が手や足をもって動かそうとしたり、体に触れてきたらびっくりする。親も子も、こういう状態には不慣れなのだ。

演劇でも「客いじり」という手法があるんだけど、これが成立するのは客側も知っていたり、納得していたりする場合と、うまく気持ちをなじませてハードルを下げたときだと思う。

見ている方は、いきなり参加を求められると困惑するのだ。見てるだけのつもりだったのに、と思う。ふれあい遊びに参加してるのに見てるだけってどういうことだよと思わなくもないけど、そもそもふだんからそういう遊び方をしていないのだから、そりゃ親は見てるだけのつもりになるだろうと思う。そこをいかに巻き込むかを考えると、要は親の参加意識なのだなとわかってくる。先に親のほうの気持ちを動かさないといけないのだ。

だから私は説明を増やした。これからやることはなんなのか。何をしてもらいたいのか。どういう効果があるのか。その遊びの目的を示すことで、なるほどそういう意味があるのかとわかってもらえると、こちらが示した方法でなくてもなんとなく似たようなやり方でやってみようと思ってもらえることが多い。

こういうことも、毎回その場の参加者の雰囲気や子供の年齢を見てとっさに決める。

やることはだいたい決めてあるんだけど、回し方を変えるのだ。

うまくいくときもあれば、なんとなくグダグダになってしまうときもある。毎回が勝負だ。

こういうところも芝居に似てる。

 

結局続けているモチベーションは、自分の芝居に役立つかどうか、ということなんだなと最近わかった。とても利己的で大きな声では言えないことなんだけど。毎回修行させてもらってます。