昔は「贔屓」といい、やがて「ファン」という言い方になった。
今は「推し」「推し活」というらしい。
私にも、好きな歌手や役者がいるけど、どうもあり様が違うみたいだ。
いつも不思議に思うんだけど、よく歌手がコンサート(ライブ?)会場で「ファンに会う」という言い方をするのはどういうことなんだろう。
私にとって「会う」とは、お互いの存在を認識することなんだけど、舞台上の人と客席の人は別に個人的に「会って」いるわけではないよね。
「見る」「見られる」という関係性なんじゃないかと思うんだが、そういうのを「会う」と言っていいんだろうか。
握手会などで一人一人と対面したところで、それは果たして「会った」と言えるのか。
そんなことを思ってしまう私はきっと、「ファン」ではないのだろう。
ふんわりと、まるで片思いのように(というかむしろそれでしかないが)相手のことを好ましく思う。テレビに出ていれば「いいなあ」と思いながら眺め、舞台なら遠くからその姿を見る。
その程度の存在なのである。
むしろ、その人の歌とか芝居とか作品だけが好きで、ひっそりと自分だけで楽しむのが好きだ。
たぶん私が好きなのは、その人個人ではなく、その人が生み出した物なのだと思う。
だから、その人が人間としてどういう人なのかという属性にはあまり興味がない。
古今東西、創作をする人というのはちょっと人並み外れたところがあり、一般社会道徳からしたら許しがたい所業をやらかしてしまうこともないではない。
そのことで、その創作物すら許しがたいとして排除してしまう、という風潮が昨今よく見られるような気がする。
とんでもないDV野郎で破滅的な人格をしていて、社会正義から逸脱した行動をとってしまう人間であっても、その人が生み出した創作物はおそらく、その個人の属性からは切り離されたところにある。
幾多の文学作品や歌や舞台があって、誰かを感動させたり救ったりしてきた。そのことと、その生み出し手の人間性は、無関係とは言わないけど、あんまり関係がないような気がしている。
「善き人」だから「善き作品」であるならそれがいちばん幸いなことなんだけど、「善き人」だから「善き作品」が作れるかというと、そういうわけでもないところが悩ましいのである。
「嵐」のデビューは、なんとなく覚えている。情報番組で紹介されてたんじゃなかったかな。
キラキラした少年たちが、「デビューしました!」と叫んでいたのを覚えている。
以来26年の長きにわたって活動されてきたということで、たくさんのファンがいてその解散を惜しんでいた。んー、それはつまり、今後はそのグループ名での活動がなくなる、ということなのだよね? 別に皆さんが亡くなってしまったわけではなく、これからはそれぞれが活動していくのだろうから。とすれば、ファンの方たちが惜しんでいるのは、いったい何に対してなんだろう。どうもそのあたりはピンと来なくて、それがつまりはファンではない、という証明なのかもしれぬ。
「推し活」の情熱も私にはよくわからない。誰かを好きでいるという状態が好ましいのかなあ。
とすれば私にはそもそもそういう情熱が備わっていなかったということなのだろう。
かつて、とあるグループがデビューしてその歌に心をつかまれた私は、レコードを買って歌に酔いしれていた。夢中になっていたといってもいい。大好きだという思いは毎日の生活を明るくしてくれさえした。
そのグループが地元にコンサートでやってくると知り、悲鳴にも似た祈りでもってチケットをゲットした。心弾ませて会場に赴き、コンサートが始まったのだが、コンサートが進むにつれて自分でも驚くほど心が冷めていくのを感じた。あの時の、すーっと冷めていく気持ちはいまだによく覚えている。
当時はその理由がよくわかっていなかったのだが、のちに自分の気持ちの動きの理由がわかった。私はそのグループの(そのボーカリストの)歌、歌声だけが好きだったのだ。だからレコードで聞くのがいちばんよかった。実在の人間として舞台に立っていたその人から流れ出す「何か」が私には耐えられなかったのだった。要するに、人間と作品は別物だったというわけだ。
だからそれっきり、生身のその人そのグループには興味を持たなくなってしまったけど、相変わらず歌は好きだった。たぶん今でもその「好き」の名残は私の中にある。
私はずっとユーミンの歌が好きなのだが、決してライブへ行こうとは思わない。かつて何度か行ったことはあるのだが、その都度なぜかちょっと落胆してしまうのだ。テレビで歌っているのを聞くのも実はちょっとつらい。たぶん、私が好きなのは、CDの中に閉じ込められた永遠に変化しない完成品なのだろう。
作家の後援会やサイン会にも行かない。これも一度行って懲りたからだ。
本当に私は、「現実にそこにいる人」が苦手なんだろうなあ。
作品だけ、でいいのだ。
推し活というのは、いろいろ課金するものらしい。グッズをいっぱい買ったりするのね。
それは、関連するものを所有したいという気持ちなのかなあ。課金することがまわりまわってその「推し」の収入に結び付くという観点もあるみたいだけど。そうやって応援する、ということなんだろうか。
好きな作家の本や、好きな歌い手のCDは買うけど、それはそこにある世界を私が楽しみたくて買うわけで、推し活だと思ったことはない。
グッズも買わないんだよなあ。これはまたちょっと別の問題を抱えているせいもあるんだけど、ほんとにグッズが買えない。この点においても、私は推し活ができないんだなと思う。
ファンというのも不思議な存在である。自分がファンになるほうはまだ想像できるんだけど、なってもらう側っていうのはどういう心境なんだろう。
よく、デビュー前からファンがついているアーティストとかがいるんだけど、そのアーティストが「自分たちのファンが云々」みたいなことを言うときの心理にとても興味がある。
誰かが自分のことを好きだと思っている、応援してくれている、と思えるのは、どういう心理機構によるものなんだろうか。とっても素直に「自分はとても素敵だから、好きになるのは当然」みたいに思うんだろうか。
そりゃ確かに、目の前でキャーキャー言って応援してくれてるんだから、そんなふうに思うのも当然かもしれないし、その思いを無下にするのもどうかとは思うんだけど。
私としては、どうしてそんなに素直に信じられるんだろうか、って思うわけ。もし私だったらまず信じられないだろうなと思う。あ、つまりは自己肯定感の問題なのかな? 自己評価が高いから、他人の好意や応援を素直に受け止められるってことなんだろうか。
「ファン」って不思議な存在だし、不思議な心理だなと改めて思った次第。
そして、今、日本列島には自然現象である嵐が近づいてきている。
黒潮に乗って、日本列島の南側を走り抜けていくらしい。なんで6月に。
台風のイメージもどんどん変わっていくね。