10月の蝉 -5ページ目

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

地図を見るのが好きだ。それも紙の地図。

スマホにグーグルマップは入っているんだが、どうもあれが苦手である。

圧倒的に視界が狭い。スマホだと最大でもそのスマホの画面の大きさまでしかないわけで、ほかの情報が画面に出ていると、スマホ画面の3分の1くらいしか地図が表示されていなかったりする。字が小さいからといって拡大すると確かにピンポイントで大きくなるけど、そもそもの最大値(スマホ画面の大きさね)は変わらないので、見られる範囲は狭くなる。縮小したら全体図は見れるかもしれないけど、探してる場所はわからなくなる。

方角も見失いがち。自分が今どっち向いてるのか、そもそも北はどっちなのか、ぐるぐると画面が回転してしまってわからなくなる。

だから私には紙の地図がいちばん合ってるなと思うのだ。

 

行ったことのない場所に行くとなったら、まずはそこをネットで検索して付近の地図を表示する。方角は固定されてるから感覚がつかみやすい。じっくり付近を調べたらそれを印刷する。

遠いところだと、まずは位置関係の把握をするために広域の地図を印刷する。

車で行く場合は、全体像のほかに、分岐点を大きく表示した地図を印刷する。複雑な経路だと数枚になってしまったりもするのだが、運転中に小さい文字は読めないので拡大するためには致し方ない。

電車で行く場合は駅からの経路を細かく表示させて印刷する。

どちらも事前に何度も確認するんだけど、道中でも何度も見る。紙に印刷した地図は動かない。

だからこその安心感があって大好きなのである。

 

かつて訪れたことのある土地のあたりの地図をなんとなく眺めたりすることもある。

当時の経路を地図上で確かめてみたり、(地図上で)位置関係や距離感を確認してみたりして、改めて感慨にふける。こんなに離れてたんだーとか、近くにこんな場所があったのかーとか。

まったく知らない土地の地図もまた趣がある。

なにか曰くありげな地名があればあれこれと想像し、道路のつながり具合を見ながらその土地の様子を想像する。

実際にその地に行って現実の光景を見るほうが楽しい、と旅行好きの人は思うのだろう。

でも私は、写真や地図で想像していたときのほうが楽しいと思える。実際に、現実に、その場に立ってみると、思っていた以上の情報がなだれ込んできて混乱してしまうのだ。

現実の持つ存在感や情報量に圧倒されてしまう。

だから地図上で旅をする。少ないながらも持っている経験で想像を補い、とことん自分勝手に、自分都合で動く紙上旅行が最高だと思う。

 

 

 

 

地図を読むのは得意?苦手?

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昨日の「銀河の一票」で、「消えたい気持ち」を思い出した。

思い出したというよりは、いつも心の底を流れている気持ちを改めて認識したという感じではあるが。

ずっとうっすら「消えてしまいたい」と思ってきた。

死にたいというほどの積極的なものではなく、ただ単に、すうっと霧が晴れるように消えてしまいたいという感じ。

自分が生きていることがとても罪深く許されないことのように思えてきて、だからといって自ら死を選んだらそれはそれで迷惑をかけることになるからそんなことをするわけにもいかないと思うし、とりあえずは息をひそめてひっそりとその時が来るのを待つしかないと思う。

もちろんそんな気持ちをリアルで他人に表明することなんてもっとできないわけで。だからいつも表面をカバーして何でもない顔をしている。

 

物の値段がどんどんあがっている。値上げラッシュ。生活に必要なものもどんどん高くなっていくから、本当に必要最小限のものだけを買おうと思う。買わなくて済むならどんなにいいだろう。でも、生きてる限りおなかはすくし、消耗品は補充しなくてはならない。

病院にかかるのだってただじゃないんだから、なるべく控えなくてはいけないなと思う。

通販でものを買ったら配送してもらわなくてはならないのだから、昨今の事情を鑑みると控えるべきだろうと思う。

私なんぞが日々の暮らしの中でちょっと快適を求めたり、楽しみを求めたりするためにお金を使うなんて許されざる所業だという気持ちが拭い去れない。

ほんとに、生きてることは大変で、いつ終わるともしれない時間をやり過ごすしかない。

 

あのドラマでは「消えないでいてくれてありがとう」と言ってもらえてたけど、現実にはなかなかそういうふうにはならないものだ。だからドラマが心を打つんだろうけど。

 

人間、生まれるときも死ぬときも、自分の意思は通用しない。知らぬ間に生まれて存在させられて、いつ終わりが来るかも決められない。

安楽死はたぶん人間には運用が難しい仕組みなのだろう。自分が望むこと、のはずなのに、いつの間にか周囲の思惑が優先される事態になることが容易に想像できるのだから。

 

実の親の通夜とライブのどっちを選ぶか、みたいな話がTwitterで話題になってた。

意見を言う人の価値観がもろに反映される話題で、親の通夜に出ないなんて社会常識に欠ける、たかがライブ、そもそもの人間関係が云々、好きなことを優先させてもいいよね、などなど、実にさまざまな意見を目にした。こういう話は裏側にいろんな個人的事情が積み重なっているものなのだから、一概にどうこう言える話じゃないよなあとは思うんだけど、どうやらきっかけが「妻が実父の通夜に出ないでライブ(それも嵐の最終ライブ)に行こうとしているのはいかがなものか」と、(こいつ非常識ですよね?)とネットに投げかける夫のツイートだったらしいのが、なんとも嫌な感じがする。

最近そういうの多いよなあ。これこれのことをしている人がいますが非常識ですよね?と他人に判断を投げる。私がこれこれのことをしたら非難されたんだけど、非難されるようなことですか?(これは暗に非難した側が非常識ではないかと言っている)とネットに判断をあおぐ。

それに反応していろんな人がいろんな立場、観点から、いいとか悪いとか判定をくだす。

誰かが、何かが、非常識かどうかを、不特定多数の代表であるネットにお伺いを立てる風潮があるんだな。中には印象稼ぎや炎上目的でわざとそういう投稿をしたり、話を盛ったり作ったりする場合もあるみたいだ。もうわけがわからん。

 

私は先日、自分の葬儀プランを選んで契約した。とりあえず最低限のことは決めておいたほうが、残った人の負担を減らせるだろうと思ったからだ。

葬式は遺族が納得するためのもので、さらには、周囲を納得させるための儀式だと思う。本人は死んでしまっているんだから、何がどうなろうと知ったこっちゃない。

私は、生者が勝手に死者の思いを代弁するのが嫌いだ。「亡くなった人はこう思っていたに違いない」とか「こんなふうに思うだろう」みたいな物言いは、嘘くさくてやりきれない。なぜそこで勝手に憶測を語るんだ。そういう憶測を減らすためにも、生前にいろいろ決めて書き残しておかなくてはいけないと思う。

ただ、別の面からみると、葬式というのは残った人たちの人間関係に大きく影響を与える場でもある。誰それが来たとか来ないとか、何を言ったとか何をしたとか、そういうことが今後の人間関係に影響を与える。通夜や葬式に来ないということは、単に欠席であるということ以上に、何かしらの意思表示になってしまう可能性もあるのだ。だからとりあえず出席しておけって言われるんだろうね。特に身内は。

私も、両親の葬式にはさすがに顔を出さなくてはなるまいと思っている。亡くなったら、そこからのもろもろの手続きや作業の一端を担うのが子供としての義務だろうと思うから。

ただなー。もし芝居の本番と重なったら欠席させてもらうかもしれないとは思ってる。

しがないアマチュアの舞台だとしても、もし役をもらっているとしたら抜けるわけにはいかない。それが非常識だとか怒られるとしても、まあそうですねと甘んじて受け入れるしかない。

どうしても駆けつけて枕もとで涙ながらに感謝を伝えたいとは思えないのだから。そこはもう、許されなくてもしょうがない。長年の蓄積の結果なのだ。

てなことを思っているから、大好きなアーティストのラストライブに行きたいと思った人のことは責められない。ライブなんだから事前に日はわかっていたはずで、通夜のほうは日程の調整はできたらしいのに、要するに「親の通夜にも出ないでライブに行くとはけしからん」と思った人がいたということなんだろうな。今後の人間関係に禍根を残したと思う。まあよそんちのことだからどうでもいいんですけどね。

こういうことをネットを通じで「世間」に問える時代になったってことなのだろう。

恐ろしい時代ですよまったく。そんなこと、見ず知らずの他人に聞くことじゃないと思うけどね。

 

閑話休題。

「消えたい気持ち」は消えないし、毎日どこかしら申し訳ない気持ちを抱えているけど、とりあえずまだ死ねないみたいだから今日も生きてます。なんだかねー。

昔は「贔屓」といい、やがて「ファン」という言い方になった。

今は「推し」「推し活」というらしい。

私にも、好きな歌手や役者がいるけど、どうもあり様が違うみたいだ。

いつも不思議に思うんだけど、よく歌手がコンサート(ライブ?)会場で「ファンに会う」という言い方をするのはどういうことなんだろう。

私にとって「会う」とは、お互いの存在を認識することなんだけど、舞台上の人と客席の人は別に個人的に「会って」いるわけではないよね。

「見る」「見られる」という関係性なんじゃないかと思うんだが、そういうのを「会う」と言っていいんだろうか。

握手会などで一人一人と対面したところで、それは果たして「会った」と言えるのか。

そんなことを思ってしまう私はきっと、「ファン」ではないのだろう。

ふんわりと、まるで片思いのように(というかむしろそれでしかないが)相手のことを好ましく思う。テレビに出ていれば「いいなあ」と思いながら眺め、舞台なら遠くからその姿を見る。

その程度の存在なのである。

むしろ、その人の歌とか芝居とか作品だけが好きで、ひっそりと自分だけで楽しむのが好きだ。

たぶん私が好きなのは、その人個人ではなく、その人が生み出した物なのだと思う。

だから、その人が人間としてどういう人なのかという属性にはあまり興味がない。

古今東西、創作をする人というのはちょっと人並み外れたところがあり、一般社会道徳からしたら許しがたい所業をやらかしてしまうこともないではない。

そのことで、その創作物すら許しがたいとして排除してしまう、という風潮が昨今よく見られるような気がする。

とんでもないDV野郎で破滅的な人格をしていて、社会正義から逸脱した行動をとってしまう人間であっても、その人が生み出した創作物はおそらく、その個人の属性からは切り離されたところにある。

幾多の文学作品や歌や舞台があって、誰かを感動させたり救ったりしてきた。そのことと、その生み出し手の人間性は、無関係とは言わないけど、あんまり関係がないような気がしている。

「善き人」だから「善き作品」であるならそれがいちばん幸いなことなんだけど、「善き人」だから「善き作品」が作れるかというと、そういうわけでもないところが悩ましいのである。

 

「嵐」のデビューは、なんとなく覚えている。情報番組で紹介されてたんじゃなかったかな。

キラキラした少年たちが、「デビューしました!」と叫んでいたのを覚えている。

以来26年の長きにわたって活動されてきたということで、たくさんのファンがいてその解散を惜しんでいた。んー、それはつまり、今後はそのグループ名での活動がなくなる、ということなのだよね? 別に皆さんが亡くなってしまったわけではなく、これからはそれぞれが活動していくのだろうから。とすれば、ファンの方たちが惜しんでいるのは、いったい何に対してなんだろう。どうもそのあたりはピンと来なくて、それがつまりはファンではない、という証明なのかもしれぬ。

「推し活」の情熱も私にはよくわからない。誰かを好きでいるという状態が好ましいのかなあ。

とすれば私にはそもそもそういう情熱が備わっていなかったということなのだろう。

 

かつて、とあるグループがデビューしてその歌に心をつかまれた私は、レコードを買って歌に酔いしれていた。夢中になっていたといってもいい。大好きだという思いは毎日の生活を明るくしてくれさえした。

そのグループが地元にコンサートでやってくると知り、悲鳴にも似た祈りでもってチケットをゲットした。心弾ませて会場に赴き、コンサートが始まったのだが、コンサートが進むにつれて自分でも驚くほど心が冷めていくのを感じた。あの時の、すーっと冷めていく気持ちはいまだによく覚えている。

当時はその理由がよくわかっていなかったのだが、のちに自分の気持ちの動きの理由がわかった。私はそのグループの(そのボーカリストの)歌、歌声だけが好きだったのだ。だからレコードで聞くのがいちばんよかった。実在の人間として舞台に立っていたその人から流れ出す「何か」が私には耐えられなかったのだった。要するに、人間と作品は別物だったというわけだ。

だからそれっきり、生身のその人そのグループには興味を持たなくなってしまったけど、相変わらず歌は好きだった。たぶん今でもその「好き」の名残は私の中にある。

 

私はずっとユーミンの歌が好きなのだが、決してライブへ行こうとは思わない。かつて何度か行ったことはあるのだが、その都度なぜかちょっと落胆してしまうのだ。テレビで歌っているのを聞くのも実はちょっとつらい。たぶん、私が好きなのは、CDの中に閉じ込められた永遠に変化しない完成品なのだろう。

 

作家の後援会やサイン会にも行かない。これも一度行って懲りたからだ。

本当に私は、「現実にそこにいる人」が苦手なんだろうなあ。

作品だけ、でいいのだ。

 

推し活というのは、いろいろ課金するものらしい。グッズをいっぱい買ったりするのね。

それは、関連するものを所有したいという気持ちなのかなあ。課金することがまわりまわってその「推し」の収入に結び付くという観点もあるみたいだけど。そうやって応援する、ということなんだろうか。

好きな作家の本や、好きな歌い手のCDは買うけど、それはそこにある世界を私が楽しみたくて買うわけで、推し活だと思ったことはない。

グッズも買わないんだよなあ。これはまたちょっと別の問題を抱えているせいもあるんだけど、ほんとにグッズが買えない。この点においても、私は推し活ができないんだなと思う。

 

ファンというのも不思議な存在である。自分がファンになるほうはまだ想像できるんだけど、なってもらう側っていうのはどういう心境なんだろう。

よく、デビュー前からファンがついているアーティストとかがいるんだけど、そのアーティストが「自分たちのファンが云々」みたいなことを言うときの心理にとても興味がある。

誰かが自分のことを好きだと思っている、応援してくれている、と思えるのは、どういう心理機構によるものなんだろうか。とっても素直に「自分はとても素敵だから、好きになるのは当然」みたいに思うんだろうか。

そりゃ確かに、目の前でキャーキャー言って応援してくれてるんだから、そんなふうに思うのも当然かもしれないし、その思いを無下にするのもどうかとは思うんだけど。

私としては、どうしてそんなに素直に信じられるんだろうか、って思うわけ。もし私だったらまず信じられないだろうなと思う。あ、つまりは自己肯定感の問題なのかな? 自己評価が高いから、他人の好意や応援を素直に受け止められるってことなんだろうか。

 

「ファン」って不思議な存在だし、不思議な心理だなと改めて思った次第。

 

そして、今、日本列島には自然現象である嵐が近づいてきている。

黒潮に乗って、日本列島の南側を走り抜けていくらしい。なんで6月に。

台風のイメージもどんどん変わっていくね。