「訴える」について考える | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

「申し上げます! 申し上げます! あの人はひどい。ひどい人です」

というのは、太宰治の「駆け込み訴へ」の冒頭ですが。

私にとっての「訴える」はこういうイメージ。

怒りとか、哀しみとか、苦しみとか、そういうものを強く切々と他人に伝える行動が「訴える」だと思っている。(喜びを訴えるってあんまり言わないよね)

だから、よく「○○さんは数日前から体調不良を訴えており」とか、「その日体調不良を訴え」みたいな言い方を目にすると、なんとなく違和感を覚えてしまう。

「すごく頭が痛いんです!」とか「お腹が痛いんだよ!」と必死で周囲の人に言い募っているような感じがしてしまう。いやべつにいいんだけどさ、言ったって。

でも私の場合は、そういうことをすると怒られたり、鼻で笑われたり、無視されたりすることが過去にたくさんあって、いつの間にか「そうか、こういうことは人に言ってはいけないことなんだな。もしくは、言ってもどうにもならないことなんだな」と思うようになった。

 

中学生のころ、原因不明の体調不良が続いた時期があった。

毎日のように、頭痛やらめまいやら吐き気やらに襲われる。親に言ったらいろんな病院へ行かされたけど、結局原因はわからないままだった。わからないまま、いつの間にかうやむやになった。病院へは行かせてもらったんだからありがたいと思わなくちゃいけないが、心配してもらった記憶はない。というか、それ以来親には不調を言わなくなった。

若いときは、友達やら恋人やらに心身の不調を訴えることがあったが、やはり次第に言わなくなった。

最近は誰にも言わない。言ってもどうにもならないことがわかっているからだし、なんだか物欲しそうに思えて、浅ましい気がするからだ。

特にTwitterにはうんと気を付けて書き込まないようにしている。どこで知り合いが見てるかわからないし、不調や不調につながるようなこと、想像させるようなことを書いたら、心配してもらうのを待っているようでいやらしい。

 

ニュースになるような話の場合、体調不良を「訴えた」あとは病院に搬送されたり、入院することになったりとおおごとになるわけだから、まあ訴えるのありなのかなとは思う。

以前、風邪をちょっとこじらせて喉が腫れ上がり、声が出なくなったことがある。やむを得ず耳鼻科に行ったら即座に点滴を打たれて、先生に「こんなになるまで我慢したらだめだよ」と言われた。とはいえ、もっと手前の段階で言ったらたぶん相手にされなかったと思うので、やはりどうにもならない状態になってからでないと「訴え」は有効ではないと思う。

 

病は気からとも言うし、気を強く持って立ち向かおう。今週末は本番なのだ。