それは一つの呪いである | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

ミモザ、きれいですよねえ。

でも写真で見るとあの黄色いふわふわが花粉を想像させるので、ちょっと腰が引けてしまいます。ミモザに罪はないけど。

 

国際女性デーだそうで、各新聞もそれぞれ何かしらの記事を載せていました。産経新聞ははりきってましたねえ。

昔に比べれば多少は女性を巡る環境はよくなってきたと思います。選挙権も持てるようになったし、女性にも人権があるということを主張できるようにもなっています。逆に言えばその程度、ってことなんですけどね。

 

私はずっと、自分が「女性」であるということがうまく受容できないまま生きてきました。

身体的には「女性」ですし、その結果「女性」としての人生を歩んできたのですが、いわゆる「女らしい」と言われるようなことがずっと苦手でした。今もあんまり得意ではありません。

身体的(生物的?)に女性であることがどうしても嫌なのです。でも、どうすることもできなくて、仕方なく対応してきた、という感じ。だから閉経したときはとても嬉しかったものです。もうあの苦労をしなくても済むと。

表立って他人に表明するようなことでもなく、表明したからってどうなるものでもないので、いつも薄笑いを浮かべてなんとなくやり過ごすように生きてきました。また、女性であることが嫌だからといって「男性」になりたいわけでもなかったのです。ただ、身体的に男性でありたかったなあという気持ちはずっとあります。要するに「女の体」が嫌なんですね。

昨今は「男だってつらいのだ」という人もいますし、それにも一理あるとは思うんですが、やっぱり「男性」はいいよなと思うことが多いです。何より、妊娠も出産もしなくていいというのが決定的にうらやましい。そう思ってしまうということがすなわち、自分が女性であるということを受け入れていないということなんじゃないかと思うのです。

 

私にとって、自分が女性であるということはある種の呪いのように感じられます。

いろんな意味で。

こうやって文字にしようとしてもためらってしまうくらい、強い抵抗が心の内に存在しています。

ふつうに生活してるだけなら、目をそらしたままでいられるんですけどね。芝居で女性の役を演じることになるといつも悩むのです。自分の内側にある「女性という規範や概念」と実際の自分との乖離を意識させられてしまうから。

最終的には「女」を演じればよいのだ、と自分に言い聞かせています。歌舞伎で女形を演じている役者と同じように「女」を演じればいいのだ、と。演じているだけだから、と自分を納得させないと「女」ではいられないんですね。