「読む」と「語る」 | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

昨日の穴の会では、「ミュージカルの歌詞はセリフなのか?」という疑問から、「読むとか語るとかはどういうことなのか」みたいな話になりました。

 

「セリフを歌うな」と言われることがあります。この場合の「歌う」は、セリフを言葉ではなく、メロディに乗せたきれいな音として扱っている、という意味だと思うんですね。

朗々となめらかに発声しているんだけど、人の言葉としてはダイレクトに心に届かない。そういう台詞回しをする人はいます。なんかかっこいいこと言ってたり、難しい言葉が続くとどうしても歌ってしまいがちなのです。つっかえずに言えることが最優先されてしまうからでしょう。

 

最近、朗読って何だ?ということをよく考えます。

読み聞かせをやっていることも関係していると思うのですが、「本に書かれている文字を読み取り、それを音声として発すること」の難しさにしばしば直面します。

ほとんどの日本人は日本語の文字を読むことができます。そしてそれを音として発することはできる。しかし、単に音として発するだけだと意味が伝わらなかったり、書かれている内容が伝わらないこともしばしば起きます。

学校の授業で教科書を音読する場面を想像してみるとわかると思うのですが、そういう場合の音読はしばしば、「書いてある文字をそのまま発声しているだけ」になりがちです。だから聞いていてもつまらないし、なんなら眠くなる。書いてあるものをただ読み上げているだけ(会議の資料の読み上げなど)だとついつい眠くなるのは、要するにつまらない(興味がわかない)からでしょう。

文章には意味があり、単語にもその並びにも意味があります。とすれば、それを音にして出力するときには、その意味がなるべく伝わるように心がける必要があると思うんですね。そのために、間を開けたり、音質を変えたり、抑揚がついたりすると思うのです。(それを技術という)

これが行きすぎると、読み聞かせ界隈で嫌われる「読み手が前に出る」という状態になるのだと思うのですが、この事態を回避しようとするあまりに、「教科書の音読」レベルの読みになっている読み聞かせが存在してしまうのだと思っています。

 

読み聞かせはさておき。

演劇の一形態として行なわれる朗読、もしくは朗読劇。

この場合はどういう読み方をすればいいのでしょうか。そこがずっとわからないでいたのですが、今回の演劇祭で上演された「刺青」という作品が一つの答えになるんじゃないだろうか、と思っています。(もう一つ、フリンジ企画で石村勇二さんが「裸川」という作品を上演しました。こちらも非常に勉強になる朗読でしたが、今回は聞けなかったので割愛)

たきいみきさんという女優さんが、谷崎潤一郎の「刺青」をゆるゆると語り始めます。最初は小説の文章を読んでいる形なのですが、途中から少し様相が変わります。たきいさんの口から出てくる言葉はあくまでも小説の文章なのですが、ついそれを忘れてしまうくらい「語り」になっていたのです。登場人物のセリフも、絶妙にその人が語っているかのように聞こえる。かといって完全にその人を演じているわけでもない。このあたりのバランスが非常に素晴らしかったのです。

とはいえ、この作品はあくまでも「たきいみきによる刺青」という形であり、朗読はすべからくそうあるべきとは思いません。

もう少しフラットな読み方のほうが、汎用性はあるのでしょう。最近見かけるようになった、「聞く小説」(俳優による朗読)の場合は、視覚がない分、読み方はわりとフラットなようです。とはいえ、教科書の音読ではないことは確か。

このあたりの違いをどう言語化すればいいのかわからないのですが、聞いてみると確かに違いがあるのです。何がどう違うのか、今後も考えていきたいと思っています。

 

そして、モノローグ。

これはまた朗読とは違う語り方が必要になってきます。なぜなら芝居だから。

モノローグをやってみてわかってきたのですが、芝居というのはつまりは「自分でない人」になって「他人の言葉」をあたかも自分の言葉のように話すこと、なんですね。舞台にいるのは私であって私ではないのです。

だからこそ、セリフは完全に腹に落とさないといけないのです。いちいち思い出してなぞっているようでは言葉にはなっていない。なるほどなあと思いました。

奇しくも日曜日の「ボクらの時代」では、俳優の鈴木浩介さんが「西田敏行さんは、セリフを食べてくださいと言ってましたよ」と言ってました。セリフを食べて自分の血肉にする。そこまでいって初めて他人の言葉は自分の言葉になるのだと思います。

そんなことを考えながらセリフを読んでいると、どんどん言葉の顔つきが変わってくるんですね。何気なく発していた言葉に、気づかなかった意味を見出す瞬間があります。

だからこそ、書かれたセリフは一言一句間違えずに言わないといけないと思うのです。勝手に言いやすいように変えていくのは脚本に対する冒涜である、とすら思います。

そこまで考えてないよ、という人は、そこまで考えて脚本を書いてほしい。まあ、うるさがられるので言いませんが、ひっそりそう思っていますし、自分が書くときはとことん考えて言葉を選ぶようにしています。

 

演劇祭が終わって若干お疲れモードですが、少しずつ次に向けて動き出そうと思っています。