曇天の日は静かで寂しい | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

なんだかドカドカと音を立てていろんなことが通り過ぎていく。ような気がする(笑)

実のところそんなことはなくて、ただ淡々と時間が過ぎていっているだけのことなのだが。

 

予定を入れたのは自分なのだから、「予定に追われている」と思うのは間違ってる。

何も予定がない日があると嬉しいくせに、カレンダーや手帳のある一日が空欄になっているとなんだか間違いを犯しているような気になってしまう。

とはいえ、何も予定がない日は朝からダラダラとTwitterを眺め、Twitterを眺めていると猛烈に眠気を催してくるので「ちょっとだけ」と思いながらソファに横になって2時間くらい寝てしまったりする。そうして夕方になると「ああ、もう一日が終わってしまった。もう何もできない」と思うことで、そこはかとない安心感を抱いたりする。

 

私は時間を消化するためだけに時間を潰しているのだろうか。

何か予定が入っていれば、その用事をしていればいいので、どれだけ時間が過ぎても「消化しただけ。浪費しただけ」とは思わない。それが芝居関連のことであればなおさらで、むしろ「充実していた」くらいに思ったりする。

 

純粋に自分のために時間を使うことに、いまだに罪悪感を持ってしまう。

だから常に何かしらの言い訳を探してしまうのだ。

「頼まれたことだから」とか「誰かのためだから」と、ある意味人のせいにしているわけだ。

自分なんかのためにやってるわけじゃありませんよ、という言い訳が常に潜んでいる。

 

なんでこんなふうに感じてしまうのかはもうわからない。

美容院へ行くというだけのことでも、「自分なんかのためにお金を使うのはもったいない」と思ってしまう。まあ、美容院に関しては、払ったお金と満足度が呼応しないという理由もあるんだけど。

なんと言いますか、私のために時間や手間をかけさせるのは申し訳ない、という強烈な思いが消えないのですよ。

これが心底本音ではない証拠に、本はほぼ無制限に購入してしまう。新聞だって今時4紙も購読してる。これは純粋に自分のための出費である。これでバランスを取っているのかなあ。

若干ヒヤヒヤしながらの書籍購入ではあるんだけど。

 

自分をいたわる、とか、自分を慰めるとか、自分を認めるとか。

どれも私にとっては非常に難しい行為である。そこまでの価値はないよなあとまず思ってしまうから。なんなら、まだまだ全然甘やかしてるぜ、とも思う。

 

むかし、市民ミュージカルをやってたとき。参加者の一人が途中で事故死した。

ものすごい衝撃で、哀しくてやりきれなくて。お葬式に行ってお顔を見せてもらったときに、「ああ、これからは後悔のないように生きよう」なんて思ったものだ。

あのときから多少ふっきれて、自分が思うことをやるためにがんばるようになったのだけれども。なんと言いますか、やはり根底にある「認めてもらったことがない感」は消えないんですな。

もうちょっと親に認めてもらいたかったなあ、とこの年になっても思う。

もう今さら幼い頃には戻れないので、今認めてもらっても手遅れなのであるが。

自分で認めるのは限界がある。なぜなら、すぐに「いい気になってんじゃないよ」という声が聞こえてきてしまうから。この声を消すのは至難の業である。

まあ、しょうがないけどね。そんなこんなでここまで来ちゃったんだから。

 

思い半ばで逝ってしまった人のことを思うと、なぜ代わりになれなかったんだろうと思う。

どうしてそういうシステムがないんだろうね。

よく言うじゃないですか。「あなたが捨てたいと思った一日は、どこかの誰かが生きたかった一日なんですよ」てなことを。

生命の交換ができない以上、それはただの嫌味でしかないんだが、ほんとに命の贈与とか交換ができたらいいのにと思う。(だから私は賛否はあれども臓器移植に賛成の立場なのだ)

私が生きててごめんなさい、と思う。あなたより、私が逝けばよかったのだと思う。

思うけれども、思うだけだから、どこまでいっても虚しい所業ではある。