あなたはだあれ? | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

昨日観た芝居で、いろいろと考えることがあった。

 

昨日観た芝居は、言ってみれば「メタ演劇」のジャンルで。

冒頭はとある芝居のさわりのシーンをコラージュしたような形で始まった。

で、その芝居の続きをやるのかと思いきや、スマホの着信音が鳴ることで世界が壊れ始めていく。

「舞台上にないものはなかったことにされるんだよ」とうそぶく謎の人物が登場してきて、冒頭に出てきた3人は「どうやら私たちは芝居の登場人物らしい」と気づくことになる。

物語の進行上、都合良く扱われることに怒り、「作者めぇ~~」と叫んだりする。

こういう構造の物語は、小説や漫画などで見かけることが多い。

「キャラクターが一人歩きする」なんていう言い方もあったりして、昨今だとわりと知られた認識(概念)なのかもしれない。

というか、私はこの手のジャンルが好きだから、「ああ、そういう構造の話ね」と思いながら見ていたんだけど、これ、そこまで認知度の高い概念なんだろうか。若い人にはおなじみの概念なのかなあ。いやでも、日頃フィクションになじんでいない人にとっては、なんのこっちゃ、の話なんじゃなかろうか、という疑念を持ちつつ見ていた。

「劇場にいるスタッフ」という人物も出てきて、最後には全部ひっくり返す。結局嘘かほんとかわからないまま、若干尻切れとんぼな感じで芝居が終わる。

いやこれ、どこまで芝居なんだろうか。というか、まあ芝居なんだよね。全部台本に書いてあるはずなので。キャストもみな「台本を一生懸命覚えて、段取り通りに進行してます」という感じだったし。客席に仕込みの人がいて、その人が関わることで「舞台と現実」を混ぜ合わせようとしていたようだったけれども。それが果たしてうまくいっていたのかどうかはわからない。

 

企画意図は面白いと思ったし、挑戦してるなあと思ったので、それはいいんだけども。

気になったのは役者の意識である。

通常、芝居をするときというのは「台本に書かれた役を演じる」ものである。そのためのテクニックはたくさんあるし、多くの役者が悪戦苦闘しているものだ。

ところが、こういう、多重構造になっている役を演じるときって、役者は自分の意識をどこに置くものなのだろうか。

最初に提示された物語には役名があったはず。「あきこ」とか「ゆりこ」とか何かしら名前がついていて、その物語の中で生きている人物として演じようとするはずだ。

ところが「物語世界が破綻した」という設定で役名を失う。「名前、なんだっけ?」というセリフを言っている「あなた」はいったい誰なのか?

素の役者自身ではないことは確かである。とすれば、「芝居の中で『役名を失った人』という役を演じている誰か」ということになるのか。

セリフというのは、その人(役)の中から生まれた思考を言語化したものである。だから役を演じるときは、その役として言葉を発するように練習する。

では、「役名を失った人」はどういう存在になるのだろうか。それを演じている現実の役者は立脚点をどこに置いているのか。

 

そういう認識なしに発せられる言葉(セリフ)は、ただの音になってしまう。「覚えたセリフをとりあえず発してます」という状態である。

しかし、芝居は「役名を失った人たちが、何かしらの解決を求めて行動している」という展開になっている。「芝居の中での現実」であるスタッフとの絡みがあったり、いきなり客席に呼びかけてきたりする。こういうとき、観客としてはどう反応すればいいのだろうね。舞台と現実の壁を乗り越えてリアルに反応したとしたら、それはそれで舞台が破綻したんじゃないかとも思えるし。

というわけで、終始どう見たらいいのかわからない芝居であった。

メタ認知を取り扱うのなら、もうちょっとロジックがしっかりしていたほうがいいよなあとも思う。

あと、役者の立脚点をしっかりしないと、誰として喋っているのかが曖昧になってしまうなあとも思った。

舞台に立っている「私」はいったい誰なのか。

「役を演じるとはどういうことか」を改めて考えさせる舞台であった。