卒業写真 | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

スマホのグーグルさんが、1年前の写真見る?って出してきたやつが、息子の卒業式の写真だった。ああ、あれからもう1年経つのね。そういえばそうだったなあ、としばしぼんやりしてしまった。

 

ユーミンは「悲しいことがあると開く」と歌う。

もう私は卒業アルバムを開くことはないのだけれど、心の中にはいつも「あのころ」がある。

何十年も生きてきたのに、なぜか私の気持ちはずっと高校生くらいで止まってる気がする。

だから30代くらいより上の年齢の人はなんとなく「年上の人」みたいな感覚を持ってしまう。

実際には私の方がずっと年上なのに。

高校生が「同級生」くらいの感覚で、大学生だと「お兄さん、お姉さん」みたいな感じ。

……改めて言葉にするとキモいな(笑)

 

せっかくなので、ちょいと人生を振り返ってみようかとも思ったが、やっぱりやめておく。ほんと、なにをやってきたんだかなあな人生だったし。

自分史を書きたいという人もけっこういるようだが、私には無理だなあと思う。

改めて書き記したいような人生ではなかったから。

そりゃまあ、語り出したらそれなりに語ることはあるけれども、何も成さず成し遂げず、綿毛のように漂うばかりの人生だった。

この10年ほどは、読み聞かせと芝居に出会って夢中になっているが、これもまた張りぼてのようなていたらくである。語っているうちに自分でうんざりしてきてしまう。

 

自分が死ぬときのこと、死んだあとのことをそろそろ真剣に見当しておかなくてはならない。

大量にためこんだ書籍や、14歳から書き続けていた日記(大量の大学ノート)、なぜか捨てられなくてなんとなくしまいこんである雑多なグッズ。

グッズはまあ、目をつぶってゴミ袋に放り込めばなんとかなるんだろう。(その決心をつけるのに時間がかかりそうだけど)

でも、本とノートはどうしようか。理想としては、死ぬ時期がはっきりわかっていて、その時が近づいたら全部処分したいと思うのだが、まず死ぬ時期がはっきりするかどうかが問題なのである。まだ日本では自分で死期を決められないので、いつ死ぬかわからない。自死するほどの勇気はないので、できれば不可抗力で死にたいと思うと、時期が確定できない。

本と日記は読み返す可能性がたぶんにあるので、なかなか捨てられないのだ。だいたい捨てた直後に読みたくなって後悔したりするものだから。

とかなんとかいって、結局は怖いから先延ばししてるんだよなあ。

でも、思い切って処分したあと、予想外に生き続けてしまったらと思うとこれも怖い。だからなるべく死ぬぎりぎりで処分したい、なんて思ってしまうのだ。

体力があるうちにやったほうがいいかも、とも思うんだけどねえ。心は千々に乱れる。

結局いつも最後は、「後は任せた!」という無責任な気持ちになって考えるのをやめてしまう。

死んでしまえばわからないからね、どんな処分をされても。そのほうが気が楽かなあ。残る人たちには多大な迷惑をかけてしまうけれども。

 

春はいろいろ思い出すことも多くて、ことさらに生きるのがしんどく思える時期である。

やれやれ。