他人は変えられない | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

何があったというわけでもないのだが、ここしばらく頭を悩ませていたことについて、なんとなく解消の方向が見えてきた気がする。

それはすなわち、「他人を変えることはできないと心の底から実感すること」である。

 

「なんであの人は、何度もおはなしを間違えるんだろう。そしてそれを自覚しないんだろう」とか。

「なんであの人はセリフを毎回間違えるんだろうorいつまで経っても覚えないんだろう」とか。

「なんであの人はこちらの説明をちゃんと聞かないんだろう」とか。

「なんであの人はいつも人の陰口ばっかり言ってくるんだろう」とか。

 

こういうの、なんとかならないものかとずっと思い悩んでいたのだが、ようやく腑に落ちた。

これは、「そういう人」だからどうにもならないのだ。

自分が語っているおはなしがどういう状態になっているのか自覚できないのは、そういう性格だからだし、セリフ覚えが悪いのは暗記が苦手だからだ。人の説明を聞かないのは、理解力がないのか、聞いても意味がないと思っているのかどちらかだ。人の陰口ばっかりいうのは、その人が何か抑圧しているものがあってそれを発散しようとしているからだ。

 

たとえばフィクションなどではこういうとき、ぶつかりあって理解に至るという筋書きがよく用いられる。感情をむき出しにしてぶつかりあうのだ。ぶつかっているときは大変だけど、その後お互いの理解が進んでいい関係になる。

そういうのを見て思うのは、「そこまでしてもわかり合いたい相手なんだな」ということ。

大事だと思うから、自分の気持ちも正直に伝えたいし、相手の気持ちも理解したい。

ぶつかり合いの結果生まれるのは相互理解であって、「他人を変えること」ではない。

相手も変わるかもしれないが、相手だけを変えるわけではない。そういうときって自分も変わっていたりするんだよな。

 

さて、私が頭を悩ませている人たちについて、そこまでしたいか、と自問すると「いやあ、そこまでするほどでもないのでは?」という答えが返ってくる。

理由はいろいろ。

もう相手が変容できるほどの時間的余裕がない、とか。

私が責任を負えるような問題ではない、とか。

そこまで深く関わりたいと思うような相手ではない、とか。

 

時間使って、気持ちも使って、そこまでして相手に変化を求めたところで、それが正しいことである保証もなく、単に私が楽になりたいだけかもしれないとも思う。

 

「もう、いいんだ」

という声が聞こえた気がした。

「もう、いいよ。やめよう」

という声も聞こえた。

私にどうすることもできない問題で頭を悩ませるのは不毛すぎる。

適切な距離を保って接していけばいいんじゃないかな、と思い至った次第。